拾って得た幸福

霜月秋旻

拾って得た幸福

 財布を拾った。かなり年季の入った、橙色のがま口財布だ。ショッピングモールの男性トイレの床に、それは落ちていた。周囲に人はいない。開いて中を見てみると、千円札が四枚ほど入っていた。俺はそれを、自分のバッグに隠した。

 好きなアイドルの写真集が、ショッピングモール内の書店で四千円で売っていた。当初は買うつもりなど無かったが、拾った財布から四千円を取り出し、購入した。

 勿論、罪悪感がまったく無かったわけではない。常識で考えれば、財布を拾ったらサービスカウンターまで届けるのが当然だ。しかし結局は、欲が良心を上回った。隙を見せた奴は蹴落とされるこの世の中だ。財布を落とした奴が悪いのだ。

 書店を後にし、CDショップに入ると、好きなアーティストの新譜アルバムが販売されていた。しかし俺の財布の中にはあと二千円ほどしか残っていなかった。さっき拾ったがま口財布の四千円は既に使ってしまった。ところが、再度がま口財布を開くと、いつのまにか四千円が入っていた。拾ったときに入っていた四千円は既に使ったはずだ。どういうことなのか。まるで魔法でもかけられたようだ。不思議に思ったが、結局は欲に負けて、俺はその四千円をアルバム購入に使った。

 俺はその日、がま口財布を家に持ち帰ってしまった。ただの財布なら持ち帰らず、どこかに置いてきただろう。しかし持ち帰らずにはいられなかった。あれからまたショッピングモールで買いたいものを目にするたびに、がま口の財布の中には新たに必要な分だけ札が入っていたのだから。この財布があれば俺は、ひょっとしたら一生お金に困らずに済むのかも知れない。

 お金に余裕が無く、今までひたすら我慢の連続だった日々。それが、がま口財布を拾ってから変わった。欲しいものを目にすると何のためらいも無く買った。自販機の缶コーヒー、コンビニのおでんやフランクフルト、ファッション誌、洋服、鞄、家電、ソファー、高級車。自分の欲望のままに、次々と欲しいものを手に入れた。お金が無いからと、いつも拒んでいた飲み会にも積極的に参加するようになり、美しい恋人もできた。やがてその恋人と結婚し、豪邸を買った。従業員を雇い、子供も七人ほど出来、その養育費もがま口財布のお陰で困らなかった。周囲の人間には俺がさぞ、羨ましく見えるだろう。何の苦労もせず、ここまで這い上がったのだから。それにしても、今までいったいいくら使っただろう…?



「あれ?ない…」

 ある日、俺はがま口財布をうっかり無くしてしまった。盗まれたのかもしれないし、どこかに落としてしまったのかもしれない。思い当たる場所を俺は必死に探した。あのがま口財布の中には、俺の名刺だとか、俺のものであることを証明するものが入っていないので、もし交番などに届けられていたら、再び手に入れるのは困難だろう。どこかに落ちたままであることを祈りながら、必死に探した。しかし見つからなかった。

 隙だらけだった。油断していた。あのがま口財布を失う恐怖など、俺は全然考えていなかった。その後に何が起こるのか、俺は想像もしていなかった。

 がま口財布を失った翌日から、何かがひっくりかえったかのように、不幸が続いた。俺が住む豪邸は、原因不明の火災に遭った。不運にも俺の子供七人、そして従業員数人は中に取り残され、息絶えた。従業員の家族から莫大な慰謝料を要求された。

 火災保険、生命保険に加入してはいたが、保険金はすべて慰謝料や葬儀代に化けて瞬く間に消えた。妻にも愛想を尽かされて、やがて俺は一人になった。


 一気に住む家も妻も子も失って、気付いたことがある。たしかに俺は、あのがま口財布を手に入れてから、何不自由なく暮らせていた。しかしいつも俺の心の中は空っぽだった。いつのまにか、何もかもがあって当たり前になり、心の底からの感動も悲しみも、妻や子供に対する愛情も、さほど無かった。何もかも、自分で手に入れた幸福ではなかったのだから。すべては与えられた幸福だったのだから。結局のところ、あの財布から借り与えられていた幸福は、強制的にすべて返済させられてしまった。


 不幸中の幸いと言うべきか、あのがま口財布が手に入ってからも、世間体も考えて仕事は一応続けていたので、収入源は残っていた。俺はまだ終わってはいない。今度は自分自身の力で、新たな幸福を手に入れてみせる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

拾って得た幸福 霜月秋旻 @shimotsuki-shusuke

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ