146.朝未きに月ふたつ
風に春の気配が混ざっている。
それに気付いてわたしの口元が綻んだ。まだ雪は残っているし、きっとこれからもまだ雪は降るだろうけれど、確実に春は近付いてきている。
そんな事を感じさせる、穏やかな夜だった。
わたしは一人、大神殿の屋上にいた。空には月がふたつ。満ちていく
そんな事を思いながら、羽織っていた毛布を胸前で寄せ合わせた。
両親を解放してから三日が経った。両親もすっかり元気になって、もうこの朝にはシュパース山に戻る予定。落ち着いたらエールデ様も遊びに来ると言っていた。
そしてわたしは……まだ迷っている。
両親と共にシュパース山に戻るのか。
それとも、このままエールデ教にお世話になるのか。
ヴェンデルさん達は居たらいいよと言ってくれるけれど……それは甘えすぎている気もする。神に仕える身でもないし、わたしに出来る事があるわけでもない。
胸の水晶が無くなって、人助けの使命も無くなって、わたしには何が残っているのか。この十七年、使命に支えられていたのはわたしだったのかもしれない。
「どうしよっかなー」
「何がだ?」
「わぁ――んんんんっ!」
不意に声が聞こえて、心臓が破裂するかと思った。上げかけた悲鳴は口を覆う大きな手で遮られた。こんな時間に悲鳴なんてあげたら大騒ぎになるから、それは助かったかもしれないけれど……!
「もう! 脅かさないで下さいよぅ!」
「そんなに驚くとは思わなかった」
アルトさんが笑いながらわたしの隣に腰を下ろす。
二人きりになるのはこの大神殿に戻ってから初めてで、驚くのとは別の意味で心臓が落ち着かない。そんな場合じゃ無かったからアルトさんも追求しては来なかったけれど、わたしは混沌の中で、アルトさんに好きだと言ってしまっているのだ。無かった事にするつもりはないけれど……気恥ずかしいのはどうしようもない。
「ご両親は朝に帰るそうだな」
「はい、親子共々すっかりお世話になっちゃいまして」
「もっとゆっくりしていって構わないんだが」
「ありがたいんですけどね、家の様子も気になるみたいで」
「そうか」
隣のアルトさんを伺うと、白いシャツに黒ズボンという軽装だった。そんな薄着で寒くないんだろうか。ヘアバンドもしていないから、前髪が風に揺れている。
「アルトさん、寒くないんですか。風邪ひいちゃいますよ」
「こうすれば暖かい」
そう言うと、アルトさんはわたしの肩を抱き寄せる。なんだか年越しの夜を思い出しながら、わたしは体を預けた。
「……お前はどうするんだ? ご両親と一緒に戻るのか?」
「うぅん……悩んでいるんですよねぇ」
「何かしたい事はないのか? もう使命もないんだ。好きな事をしていいと思うが」
「したい事……好きな事……」
わたしのしたい事、好きな事。
うんうん唸って考えていると、アルトさんが笑ったのが分かった。文句を言いたくても、肩を抱く手で頭を撫でるものだから、悪態も上手く口から出てくれない。
「迷っているんです。……両親と一緒に居るべきか、ここに居るべきか。でもそのどっちも、ただ大切な人達と一緒に居たいっていうだけで……わたしのしたい事とは違う気がして」
頭を撫でる手はどこまでも優しい。
顔を向けると、わたしを見つめる優しい東雲と目が合った。
「分かっているんです。離れたって両親はわたしの両親だし、お友達はお友達だって。でも……わたし――」
――アルトさんと一緒に居たい。
その言葉を口にする勇気がなくて、緊張に手が震えた。
「……どこか旅に出るか」
頭を撫でるのとは逆の手で、震えるわたしの手をアルトさんが握ってくれた。伝わる温もりはいつもと同じ、わたしよりも高い温度。触れられるだけで安心するなんて、わたしはどれだけこの人に慣らされているんだろう。
「旅……アルトさんと?」
「そうだ。前に旅に出たいと言っていただろう?」
「……アルトさんも、来てくれるんですか? もう護衛しなくても、いいのに」
「護衛じゃないと連れていってはくれないのか?」
期待に胸が震える。そんな自分の浅ましさが嫌になるけれど、それでも……もうこの手を離したくはなくて。
「俺はお前と一緒に居たい。これからもずっと」
アルトさんの手がわたしの頬に添えられる。夜風で冷えた体にその温もりが心地よくて、わたしは思わず自分からも頬を寄せた。
「好きなんだ、クレアが」
「……わたしを?」
「そう。俺は伝えていたつもりだが……お前は鈍感過ぎる」
「失礼な。もっとはっきり言ってくれてたら、わたしだって」
「はっきり伝えていたら、きっとお前は戸惑って逃げていただろう?」
否定できない自分が悲しい。
「お前をひとりにしないと、その気持ちは今だって変わらない」
「……あの時からわたしを、好きでいてくれたんですか」
「ただの友人を迎えに行くのに、命を賭けられると思うか」
「アルトさんは友情に厚い男なんだと……」
わたしの言葉に低く笑ったアルトさんは、わたしの頬を軽く摘まんで引っ張った。痛くはないけれど、好きな人に見せたい顔ではなくて。わたしはその手を叩き落として、そして握った。
「わたし、アルトさんと一緒に居たいです。色んなところを旅するのも、色んな経験をするのも、そのどれもアルトさんと一緒がいい」
破顔したアルトさんがわたしを抱き締める。ぎゅうぎゅうに抱き締められて苦しいのに、胸の奥から沸き上がる感情は、離さないでと叫ぶばかり。その感情のままに、わたしもアルトさんの背に両腕を回して抱きついた。
「わたしだって、ただの使命で混沌の中に飛び込んだんじゃないって、知っていて下さいね」
「あれは血の気が引いた」
「それはわたしもですよぅ」
アルトさんが笑うとわたしの髪が吐息で揺れる。擽ったいけれど、離れられそうにはなかった。
アルトさんの肩向こうに見る空が、濃紫に色を変える。稜線が金に染まる、朝未き。
東雲がたなびく優しい空だった。
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