145.渇れる事を知らない
窓の向こうに浮かぶ月はふたつ。
食事を終えて、「クレアさんも休んで下さいね」とレオナさんが片付けをしてくれてから、既に数時間が経っている。
部屋に二つあるベッドにはそれぞれに両親が眠っている。それとは別に簡易ベッドが運び込まれていて、わたしはそこに座っているけれど……眠れそうになかった。疲れすぎてるのか、気持ちが高揚しているのか。
「……ん」
声が聞こえた。見ると母が薄く目を開いている。まだ虚ろな瞳でぼんやりと周囲を見回しているようだ。
「母さん」
呼び掛けた声が震える。母の眠るベッドに歩み寄って顔を覗き込むと、虚ろだった瞳に一気に光が戻っていく。
「クレア……」
久しぶりに聞く母の声。懐かしさに胸が震えて、目の奥が熱くなる。そんな感情を誤魔化すことも、無いことにする事も出来なくて。わたしはぽろぽろと涙を溢していた。そしてそれは母もだった。
ゆっくりと起き上がった母に抱きつくと、母もわたしの背に両手を回してくれる。
「……生きているのね」
「母さんと父さんが、命をかけてわたしを助けてくれたからだよ」
「でも、どうして私は……。オスクリタは?」
そうだ、両親は命を捧げる禁術でわたしを蘇らせた。その後の事は知らないのだ。
「母さん達が禁術を使ってわたしを蘇らせてくれて、その後……色んな事があったんだよ」
わたしは震える声で、ひとつひとつを話していった。
二人は禁術の代償として地底牢獄に囚われる事になった事。わたしは二人を解放する為に【生命の輝き】を集める使命を負った事。十七年が経った事。
山でひとりぼっちだったわたしに、友達が出来た事。世界の危機に巻き込まれた事。マティエルとリュナ様の事。そして今日、決着がついて……ケイオス様からのお礼として二人を解放できた事。
「そう……。辛い思いを、沢山させてしまったのね。それにまさかクレアが、そんな壮大な事を成すだなんて」
体を起こした母はクッションを幾つかヘッドボードにあて、体を支えている。わたしはサイドテーブルで温かなミルクティーを淹れた。母が好きだった、お砂糖が多めの甘いミルクティーを。
「辛くなかったなんて言えないけれど、でも……この数ヵ月はわたしにとってかけがえのないものになったの。それはエールデ様に感謝しないといけないかも」
「そうね、私も感謝しなくては。それにしてもリュナ様がそんな事になっていただなんて。……兄さんは……」
「母さんは、マティエルの想いに気付いていなかったの?」
母がそんな素振りを見せた事はなかったけれど、実際のところはどうなんだろうか。わたしの問いに母さんは目を伏せて、手元のカップに視線を落とす。カップの中、ミルクティーの海は凪いでいた。
「あの人が私に特別な感情を持っているのは、知っていたわ。でも私はそれに応えるつもりはなかったし、オスクリタを好きになってしまったけれど……もっとちゃんと、兄さんと向き合うべきだったのかもしれない。傷付けたくなくて、あの人の気持ちを見ない振りをした。それがいけなかったのね……」
母さんの声が震えていた。
誰が母を責められるだろう。もう全ては結果論だ。『あの時ああしていたら』なんて思うのは簡単だけれど、その時に選んだ道が重なりあった結果が『今』なんだもの。
母がはっきりとマティエルを拒絶していたら、今回の事は起きなかったかもしれないけれど、もっと悲惨な結末になっていたかもしれない。全てが丸く収まっていたかもしれない。それは誰にも分からないのだ。
だからわたし達は、今のこの現実を受け止めるしかない。
「何が正しかったのかなんて、わたしにも分からないけど……わたしはこうして、また二人に会えた事が本当に嬉しいよ」
「クレア……」
「そりゃあ寂しかったよ。十七年もずっと一人でさ、どれだけ【生命の輝き】を集めても母さん達を解放するには足りなくて、どれだけの時が掛かるかも分からなくて……でもね、そんな中でもこの世界は優しかったよ」
そう、辛い事もあったけれど、それさえ忘れてしまえるくらいにこの世界は優しかった。わたしはそんな人たちに、たくさん出会ってきたから。
「わたしも大人になったでしょ」
「ふふ、そうね」
わたしと同じ色をした、母が笑う。わたしもつられるように笑った。
お互いの目尻に浮かぶ涙は、見ないことにして。
「……クレア?
父が頭を押さえながら起き上がった。わたし達を視界に捉えると不思議そうに目を瞬く。
「父さん。調子はどう?」
「調子……いや、そんな事より。どうして俺は……」
混乱している父に、ベッドを抜け出した母が抱きついた。
いつものことなので、別に見ていても恥ずかしくはない。わたしは肩を揺らして、父の分もミルクティーを淹れようと立ち上がった。
母から事情を聞いた父は、正直わたしが引いてしまうくらいに大泣きした。嗚咽を響かせ鼻水を垂らし、顔を真っ赤にしながら号泣している。
母はその隣で甲斐甲斐しく顔を拭いてやっているが、呆れているのを隠そうともしていない。
「そんな、っ……辛い思いを俺達は! ごめんなクレアーー!」
「もう夜も遅いんだから、叫んじゃだめだよ」
もう苦笑いするしかない。
タオルを顔に寄せて盛大に鼻をかんだ父さんは、濡れた黒い瞳でわたしを見つめた。
「でもな、クレア。もしまた同じことがあったら、俺達は同じ選択をすると思うんだ」
「どうして……? わたし、寂しかったよ。二人がいなくてひとりぼっちで。そんな事を思っちゃいけないって分かっていても、どうして生き返っちゃったんだって思った時もあったよ」
心が揺らぐ。辛い夜、一人で乗り越えなければならない夜。
両親の命を使って蘇った忌まわしい身を、恨んだ時だってあったのに。
「親はな、子どもに生きていて貰いたいんだよ。ただそれだけなんだ」
なんでもないことのように紡がれた、穏やかな言葉。
もうだめだった。わたしは両親に抱きついて、三人して泣いた。父の事を言えないくらいに泣いた。
気付けば眠っていたけれど、三人くっついて、ひとつのベッドで目覚めた朝はとても美しかった。
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