詠人転生! 東京サバイブ、霧の4日間

浅田 千恋

第1話 蝉丸之章①

「ナん……れノナ……び……」

 ……ん?

「汝、……我の名を……給へ」

 ……なんだろう、声が聞こえる。僕の声? いや違う、僕であって僕でない、それは頭の中に直接響くような、ああそうか、これは夢か。

 そう思った瞬間、目の前に光が満ちた。眩い光……徐々に目が慣れる。ここは? いや僕の知らない場所だ。どこかの部屋のようだが少なくともその調度品を見る限り現代のそれといった雰囲気はしない。中央に鎮座する人物、これもまた現代人とは思えない装束に身を包み、そして何故か肩を震わせ苦悶の表情を浮かべている。

 あっ! と声にならない声が僕の体を駆け巡った。身体中で怒りを表現するその男が、固く握りしめた拳を目の前の机に叩き付けたのだ。部屋が軋み空気が震える。そして。

 そして、彼は徐に自分の舌を噛み切った……


 場面が暗転する。再び溢れる強い光。わかった、夢だということはもう十分に解ったから、それならせめて楽しい夢にして欲しい。血飛沫乱れるスプラッターなんてのは僕は苦手なんだ。

 そんな僕の細やかな願いが聞き届けられたのか、次に目に飛び込んできたのは美しい女性の姿だった。

 着物? この色とりどりの何層にも着重ねられた装束は十二単というやつか。僕のいい加減な推測では、先ほどの怒れる男の場面と併せて考えるに平安時代というところではないかな。何せ僕は平安時代、戦国時代、江戸時代、とそれくらいの区分しか解らない。おっと、縄文時代なんてのもあったかな。

 そんなどうでもいい思考の最中もくだんの女性は泣いていた。その瞳に悲しみを湛えて、ボロボロと大粒の涙を流していた。こちらまでも悲しくなってくるようなそれは悲愴。


 再度の暗転と溢れる光。悲しみに暮れる女性を見るのは決して楽しいものじゃないよな、たとえそれが美人だったとしてもさ。

 次に目に映ったのは打って変わって、小さな泉だった。誰かが水浴びをしている。真っすぐに伸びた黒い髪、ああなんて綺麗なのだろう。

 先ほどの女性も美人ではあったが、個人的にはこちらのほうが断然僕の好みだ。透き通るような白い肌、しっとりと妖艶に光る黒髪、細い首。

 後ろ姿からそれは若い女性のようだが、ああどうせ夢なんだ、もっと寄れないものか。なんかこう、ズームアップ! カモン!


 ……ティンティン、ティンティンティンティン、ティン、ティン。


 ああそうか、これは僕のスマートフォンから流れる目覚ましアラーム。ジムノペティの静かな音色がゆっくりと僕を現実世界に引き戻してゆく。

 まだはっきりと覚えている。見たこともない景色、見たこともない人物、だがはっきりと覚えている割にはリアリティが無い。しかし……しかし何かが引っ掛かる。僕はその何かを振り払うように首を振ってスマートフォンを手に取った。

 ふと見るとスマートフォンの画面にメールの着信が一件。題名は……

「なになに、ヨミビト召喚システム? なんだろうな、新しいゲームアプリか何かかな」

 差出人の欄には『テイカー』とある。よくある迷惑メールの類かもしれない。僕はそっとスマートフォンを閉じる。

「さて、朝ご飯にするか」

 おっといけない、また心の声が漏れてしまっていたようだ。勤め先の女性社員によると、僕は独り言を喋る癖があるらしい。気持ち悪いのでやめてください、とよく注意を受ける。そこまで言われる筋合いも無いと思うが、気を付けねば。

 短く揃えた髪を整えながらポットでお湯を沸かす。入社したばかりの若手社員ならともかく、勤続十数年の中堅サラリーマンである僕の朝は余裕と安定に満ちている。ルーティン化された日常、変わらない毎日。

「紅茶はアールグレイ、食パンにバターを乗せて、と」

 最近の僕の流行りはTWG、バターはカロリーノンオフ。ゆっくりとした朝食を終え、出社の準備を整えて最後にネクタイを締める。さあ、今日も頑張りますか!

 ……と勢い込んでマンションを出た僕の目に映ったのは、何とも信じ難い光景だった。

「……霧?」

 霧、霧、見渡す限り一面に拡がる濃霧。十メートル先も霞んで見えない。

「なんだこれ? こんなことは初めてだな」

 ここ吉祥寺が霧の街だなんて話、聞いたことがない。少なくとも僕がここに住むようになってから少しの霧も見たことはない。ベーカー街か、ここは!

 しかしいつまでも佇んでいても仕方ない。僕は周囲に気を付けながら歩みを進める。

 最初こそ驚いたものの、そこは勝手知ったる何とやら、慣れればどうということはなかった。直ぐそこの井の頭公園を抜けて吉祥寺通りをゆけば吉祥寺駅だ。JR中央線快速を中野で降り、東京メトロ東西線で日本橋……

 あれ? おかしい……霧のせいで近付くまで気付かなかったが、早朝だというのに井の頭公園の周りには大勢の人が集まっていた。そして無尽に張り巡らされた『KEEP OUT』の黄色いテープ。

「あらやだ、公園で殺人があったらしいわよ……」

「まあ、怖い。殺されたのは高校生の女の子ですって……」

 ふむ、厄介事は重なるらしい。閑静な住宅街、毎年住みたい町ランキングで上位に君臨するこの吉祥寺で殺人事件とは……

 ん? 井の頭公園? 殺人事件? 女子学生? ……その時何かが僕の琴線に触れた。

「あれ? 何だったかな? ……おっと、公園が通れないんじゃ仕方ない、回り道だな」

 いつもの電車に乗れなければ遅刻とまではいかないものの朝の準備が覚束なくなる。僕は足を速めた。

 公園を大きく迂回して裏通りを進む。霧のせいで霞んではいるが向こうにぼんやりと丸井が見えてきた。よし、もうすぐだ。

「それにしても朝から何か気になるんだよな……夢、そうあの夢がそもそも……うわっ!」

 考え事をしていた僕は、突然何かにぶつかり地面を転がる。

「痛てて……え? これ……血!?」

 右の手の平にべったりと赤い血。見ると僕の左腕辺りから血が滴っている。パッサリと裂かれたシャツ、その瞬間痛みが走った。

 斬られた!?

「おガッ……こ……ス! ウゴッ、ゴゴゴ」

 目の前に現れたのはその瞳に狂気を宿らせた怪物。見た目こそ人の形をしているものの、奇妙に捩らせた肢体、そして口から無造作に零れる泡状の唾液が既に正気ではないことを如実に伝えている。

 手には包丁のような刃物、そうか、僕はあれで斬られたのか。

 やばい、逃げねば。

 緊張からかさすがに声が出ないが、あの相手に何を言ってもどうせ聞き入れられるとは思えない。ここは逃げの一手。とにかく僕は走った。鮮血に濡れた左腕を押さえながらひたすら走った。

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