横溝家の一族

平中なごん

一 となりは何をする人ぞ

 高校二年の秋、僕は父の仕事の都合で信州の山奥にある小さな湖畔の町へ引っ越すことになった。


 それまでの都会暮らしから一転、かなりの田舎であるが、それは別にかまわない。


 だが、ただ一つだけ、気になること…というか懸念材料があった。


 それは、引っ越した先のおとなりさんである……。


 田んぼの真ん中にあるためか、破格の値段で貸し出されている一軒家があり、僕ら家族はそこを借りて住むことになったのであるが、そのとなりにはこちらの家など比較にならないくらいの代豪邸が建っていた。


 高い石垣の土台の上にぐるっと白壁を巡らし、その塀で囲まれた広大な敷地の中には立派な瓦葺きの屋根が幾つも覗いている……もう豪邸というよりは大名のお城である。


 聞くところによると、横溝さんという大地主のお家らしく、地元では名家として有名なのだそうだ。


 いや、おとなりさんが地元の名士でも大金持ちでも、そんなことはどうでもいい……。


 問題は引っ越して早々、昨日の深夜に聞こえてきたなんとも不気味な唄である。


 三味線なのか琵琶なのか? ボロン、ボロン…となんとも淋しげな弦の音に乗せて「一羽のスズメが云々…」という唄がどこからともなく聞こえてきたのだ。


 子守歌だろうか? 引っ越しで疲れ果て、泥のようにベッドで眠り込んでいた僕は、静かな夜の闇に響くその唄に目を覚まし、おそるおそる自室の窓を開けて外の様子を覗った。


 すると、その唄は冷たい秋の夜風に乗って、どうやらおとなりから聞こえて来ているようである。


 当然、気にはなったものの、なんだか怖くなった僕は頭からすっぽり布団をかぶると、何も聞こえなかったことにしてそのまま再び眠りについた。


 ところが、今朝になって……。


「――あ、そうそう。おとなりさんへの挨拶がまだだったわね。代わりにちょっと行ってきてくれる?」


 と、母親にお使いを頼まれたのだ。


 父は休日出勤だし、母もまだ引っ越しの後始末で忙しいらしく、三人家族の我が家に残るは僕しかいない。


 あの家には何かある……そう直感が警告を鳴らしていたが、そんな曖昧な理由で拒否するわけにもいかず、やむなく僕はおとなりさんへ出向くこととなった。


「――間近で見るといっそうデカイな……」


 白壁の間に口を開けたこれまた立派な門の前に立ち、僕は感嘆の声を上げる。


 もうそれだけで充分威圧的であり、なんとも入りづらい雰囲気を醸し出しているお屋敷であったが、さらに訪問を躊躇させるような出来事が僕を襲う。


「何しに来たんじゃーっ! 余所者は出ていけぇーっ!」


「ひっ…!」


 突然、長い白髪を振り乱した老婆が門を飛び出してきて、大声で僕を罵ったのである。


「おまえが来ると血の雨が降る! 余所者はとっとと出てゆくんじゃーっ!」


 唖然と目を見開き、その場で固まってしまう僕に向けて、老婆は手にした竹箒を突きつけるとさらに怒鳴りあげる。


「これ! およしなさい、濃茶こいちゃ! お客様に失礼でしょう!」


 だが、今度はそんな老婆に対し、凛とした厳しい声が傍らから飛んできた。


 そちらを覗うと、老婆とは対照的に髪を綺麗に結い上げた美しい和装の中年女性である。


「お、奥さま……祟りじゃ~! 落武者様の祟りが起こるぞ~っ!」


 すると、涼しげな切れ長の目で睨まれた老婆は、急に今にも泣きそうな表情を浮かべ、わなわなと大きく見開いた目を震わせながら、再び大声を上げて屋敷の奥へ走り去ってしまう。


「ごめんなさいね。うちで雇っている家政婦なんだけど、どうにも迷信深くって……ええと、何か御用かしら?」


 突然の展開についてゆけず、ポカンと立ち尽くしていた僕に、美熟女は薄っすらと微笑みを浮かべ、やはり凛とした声で尋ねる。


「……あ、はい。えっと、今度となりに引っ越して来た金田ですが、一度ご挨拶にと思いまして……あ、これ、つまらないものですが……」


 我に返った僕は慌ててそう答えると、持ってきた菓子折りを彼女に差し出す。ま、こんな大金持ちにはほんとにつまらないものだろうけれども……。


「まあ、それはご丁寧に。立ち話もなんですからどうぞお入りになって。家族をご紹介いたしますわ」


 だが、そんな菓子折りも美熟女は慇懃に受け取ると、どこか上機嫌な様子で僕を豪邸内へと誘った。


 これまた立派な玄関を入った後、赤い絨毯の敷かれたまるで高級和風旅館のような長い廊下を、僕は美熟女の後について言われるがままに進んでゆく……。


 その廊下の左側は大きな池のある中庭に面しており、枝ぶりの良い松や草花が植えられ、値の張りそうな奇岩や石灯籠なんかも方々に置かれている……最早、個人宅とは思えないレベルに広くて立派な日本庭園だ。


 と、そんなことを思いつつ、廊下を歩きながら庭園を眺める僕だったが……。


「…んん? ……うわあぁっ!」


 ふと、目に飛び込んで来たものに思わず悲鳴を上げてしまう。


 なぜならば、池の真ん中から人間の脚が生えていたからだ! まるでアルファベットの「V」の字の如く、蒼白い裸の人の脚が逆さまに、水面からにょっきりと突き出ているのである!


「あら? どうかなさいました?」


 いったい、あれはなんなのだ……非現実的なその光景に目を見開き固まってしまう僕に、前を行く美熟女が振り返って尋ねる。


「あ、あれは……?」


「ああ、あれは息子の佐清スケキヨですわ。おそらく主人を散歩させている最中にやられたんですわね……濃茶~! 濃茶はそこにいる~? 佐清がまたやられたから助けてあげてくれる~! もう、すみません。お恥ずかしいところをお見せして……さ、参りましょう」


 しかし、震える手でそれを指さす僕に対し、彼女はまるで驚く素振りも見せず、あたかもありふれた日常の一コマのように先程の家政婦を呼び出すと、苦笑いを浮かべながら再び歩き出してしまう。


「さ、散歩? ……あ、ちょ、ちょっと待っ……ええぇ~?」


 その予想外の反応には重ねて驚かされるが、さっさと行ってしまう彼女に置いていかれそうになり、慌てて僕もその後に従った――。

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