旅想
ばん
『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』
湯気
こういう時、僕はいつも、こうして本を読むのです。
針は峠をとうに越えてしまい、普段なら明日の仕事のために寝てしまうところではありますが、明日は休みでありますから、なんだか、寝てしまうのも惜しく感じるのです。
なに、多少寝なくったって、人間死にはしないさ。眠れないのであればいっそ、思い切り起きてやろう。僕はそういった、ある種のいたずら心を刺激されたのか、かけていた毛布をはぎ、急いで紅茶の準備をしだしました。毛布の上で寝ていた猫からは不平を言われましたが、僕はこれをひとつ謝り、小さな煮干しを放りますと、猫はご機嫌でそれをかじるのでした。
湯が沸く頃になると、昼間に買っておいた茶菓子を引っ張り出します。小さなチョコレートにビスケットがくっ付いた、何ともぜいたくなお菓子です。僕はチョコレートが好きで、そしてその中でも取り分けこの菓子が好きなので、密かに明日の昼間の共にしようと思っていたのですが、思っていたよりずいぶんと早い時間の喫食になってしまいました。茶目っ気を出し、普段は出さない皿を用意します。そして慎重に、けれど大雑把に、チョコレートともビスケットともつかないそれを並べていくのでした。
さていよいよ、茶葉を選びます。僕は普段は特に好んで飲む葉はなく、無類の紅茶好きと言っても言い過ぎではないでしょうが、今回はまあ、アールグレイを選びましょう。理由は特にありませんが、なんだか美味しそうな気がしたもので。大きめのポットに茶葉を入れ、それから熱々のお湯を流し込みます。茶葉が踊ると美味い紅茶になると、以前どこかで聞いたことがあるのですが、結果的に似たようなことになっているので、まあこれも問題ないでしょう。だんだんと、良い香りがしてきました。美味そうな香りを嗅いでしまうと、どうにも腹の虫が騒いで仕方がありません。我慢出来ずに茶菓子をひとつまみしてから、僕はそれらを抱えて、いつものソファへ向かいました。
僕はこのソファを大変に気に入っています。こうしてこの家に住み始めてから、彼とはかれこれもう十年来の付き合いなのです。最初のころに彼が来たときと比べると、中の綿ももうずいぶんとくたびれて、なんだか痩せ細ってしまったように感じるのですが、それでも愛着が湧いていて、なかなか捨てるに捨てられないのです。彼に抱いているその愛着の由来は、その座り心地ももちろんあるのですが、それよりも僕にとっての彼が旅の相棒であるからなのでしょう。
旅というのは、もちろん空想の話です。けれども彼の四つ足は僕を乗せて、この木張りの床の上から海に山に密林に、はたまた宇宙に異世界へ、どこへだって連れて行ってくれるのです。僕がすることと言えば、ただ黙ってこのソファに身をゆだねて、眼鏡をはずし、本を読んで夢想することだけでいいのです。夢中で読むあまりに喉がひどく渇いて、紅茶が飲みたくなったときには、きちんと彼が旅から連れ戻してくれます。はらはらするような冒険からはっと目が覚めて、傍にある小さなテーブルの上のビスケットをひとつつまんでかじってみると、なんとも不思議な心地がするのでした。
おっといけません。温かいお茶に美味しいお菓子、そして冷えるといけませんから、暖かな膝掛けを持ってきましたが、肝心の旅のチケットを忘れておりました。今夜はどこへ出掛けるとしましょう。家には他に高価なものはなにもありませんが、幸い本だけは昔からたくさんあります。新しく買い足したものから、読みすぎてぼろぼろになっているものまで様々ありますが、さて今回手に取ったものといえば、宮沢賢治さんの本でありました。懐かしい名前を目にし、まるで古い友人にでも再開したかのような心地でありますが、これは大げさな気分でしょうか。幼いころ国語の授業で読んで聞いた、あの人の作品ならば、さぞ良い旅ができそうです。押し花で作った栞を手にはさみ、気の利いた音楽をすこし聞こえるくらいにかけて、さあいよいよ、旅の始まりであります。
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