「Pride」――砂塵の彼方

森出雲

プロローグ

 窓枠やガラスすら嵌っていない、土を塗り固めただけの小さな窓。埃っぽく、ただ熱い。決して暑いのではない。この地にいるものでしか判らない『熱さ』である。

 大地は乾き、その渇きを風が運び、また別の地で乾く。この地で風は、渇きと砂しか運ばない。その風が、どこからか吹き込んできた。


 電灯すらない小さな部屋。

 壁際に置かれた机には、無造作に積み上げられた書類の束。歪んで今にも崩れそうな棚には、様々な薬品や小瓶。ベッドらしき破れたソファー。部屋の中央には、白い布の掛かった長いテーブルがあり、その上に髭面の男が横たわっていた。

 身体のあちこちに包帯が巻かれガーゼが貼り付けてある。そのどれもが、赤く血が滲んでいる。

 その傍らに二人の男がいた。一人は横たわっている男と同じ髭面で、年の頃は五十前後。もう一人は背の低い東洋人で、年は三十代。二人の足元には、血の染み込んだガーゼや包帯、空になった輸血パック、薬品の小瓶が山のように落ちている。

 また、風が吹く。

 室内で電灯もないこの部屋が、異様に明るいのは、天井のおよそ三分の一が消失していたからである。その無くなった天井から風が、また吹き込む。


―― ドンッ! ドッドーンッ!


 東洋人が、消失した天井から空を見上げる。

「先生っ!」

「判っておるわっ! 空爆でもテロでも、怪我人がいれば、すぐに連れてくるっ。そんな事より、この破片を早く取り出さないと、もう輸血用の血液も無いのだぞ」

 再び破裂音がして、消失していない天井からパラパラと砂ボコリが落ちる。横たわる男の脇腹を覗き込む二人の男。

 三度目の破裂音がした時、先生と呼ばれた男が呟いた。

「空爆か…。そう、そこを上げて…。もう少し、良し、掴んだっ」

 巨大なハサミに摘まれた黒く歪んだ金属片。コンッと音を立てて床に転がる。

「後は縫合だけ。ツナミ、ご苦労さんだ」

「ジャラル先生、後は、僕が」

「いや、私がやろう。ツナミは、昨日からずっと働き通しだ。じきに先ほどの空爆の怪我人が来る。それまで、少しだが、休憩してくれ」

「ありがとうございます」

 ツナミは、血液のこびり付いたゴム手袋を外すと、それを小さなバケツの中に投げ込み、そして頭を下げた。

「何を言う、礼を言うのは私の方だよ。この国のために命賭けで手を貸してくれているのだからな。ツナミ、本当にありがとう」

 ジャラルは、手を止めて、都並に深々と頭を下げた。

「せ、先生……」

「この国のお偉いさんは、勘違いをしておる。守るのは、プライドや領地ではなく、人だと言うことをいつになったら判ってくれるか」

「はい、おっしゃる通りです」

「そうだ、アジャラの店が『コーラ』を仕入れたと言っておった。私のツケで飲んでくるといい。ついでに帰り、一本持って来てくれんか?」

 子供のように笑うジャラルに、ツナミもつられて微笑んだ。

「判りました」

「ゆっくりしてくれ。すぐにまた、休めんようになる」

 ジャラルは、片目を瞑って笑って見せた。


 無駄に分厚い木製のドアを押すと、目を刺すような夕日が長く熱い一日に終わりを告げようとしていた。

 瓦礫だらけの路。通り向かいの日陰に人々が蹲っている。砂を含んだ乾いた風がその人々も覆い隠す。その瓦礫の中から、幼い兄弟が飛び出してきた。無邪気に白い歯を見せて笑っている。大人たちがこの状況に耐えられず、ふさぎ込んでいても、子供たちは一瞬一瞬を大切に精一杯生きている。子供が天使だと感じるのはこんな瞬間かもしれない。


「ツナミ? どこへ行くんだ?」

「シャラフ、マシャフ。アジャラの店までな」

「行っていいか?」

「いいけど、コーラは二人で一本な?」

「やったぁ!」


 無傷で残っている建物なんてほとんど無い。銃弾の痕はまるで幾何学的な模様に様にそこかしこに残されている。そして、例え半壊であっても、人はそこで暮らしている。むしろ、一度攻撃された建物は、二度と攻撃されることは無いと、迷信じみたウワサ話が真実のように囁かれていた。

 ツナミとシャラフ、マシャフの兄弟は、ほんの五十メートルほど先の小さな商店に向かっていた。

 瓦礫が散らばり、夕日が路に長い影を落としていた。時折、幼い兄弟は驚いたように振り返る。それは小さな物音でも、暗闇からバケモノが襲ってくるように感じているのかも知れない。


 アジャラの小さな店には、僅かばかりの食料や飲み物が梱包された箱のまま置かれていた。箱には様々な国の名前が印刷され、どこかから流れてきたモノであるかがひと目で判る。

 厚手のダンボールとビニール、そして黒いペンキで塗りつぶされた国名を記す三文字のアルファベット。このような場所では、どれだけ大金を持っていても、水と食料が全てを決める。人の命よりペットボトル一本の水のほうが重いのだ。

 土の床に無造作に置かれてあった命より重い缶入りコーラを、ツナミは三本箱の中から抜き出した。そして、人懐っこく笑う店主のアジャラに通常の五倍の料金を支払った。

 一本を兄のシャラフに渡し、一本を脇に挟んで手の中のもう一本のリングプルを引く。生暖かいコーラが細かい泡を吹き出し、飲み口から溢れ出す。シャラフとマシャフの兄弟も交互にコーラを飲んでいた。

 アジャラの店を出て、建物の脇の日陰になった瓦礫の上に三人は座った。たとえ生暖かくとも、乾いた喉を潤すのには十分な清涼感がある。


 キーンと甲高い金属音が近づく。

 音は次第に大きくなり、耳を劈くような轟音に変わると上空を戦闘航空機が通り過ぎた。三人はコーラを持ったまま建物の陰に隠れた。直後、どこからか空気の抜けるような『パシュッ』と音が数回聞こえた。

『まさか、誰かが迎撃してるのか?』

 数秒後、離れた所で破裂音が聞こえ、その直後すぐ近くで、爆発音が聞こえた。ツナミは、コーラを持ったまま、土煙の舞い上がる爆発地点を呆然と眺めた。

「ジャラル先生!」

 両手に持っていたコーラを投げ捨て、ツナミは走り出した。爆風で舞い上がった土埃がゆっくりと落ちてくる。砂の雨の中、ツナミは再び叫ぶ。

「ジャラル先生!」


 この地へ来てすでに一年。

 ツナミ自身、自分がこんなにも我慢強くこの地にしがみ付くとは夢にも思っていなかった。もし、大学病院に残っていたら、助教授にもなっていたかも知れない。些細な彼女とのケンカが、医局に放り出されていた世界保健機構の冊子を掴ませた。

 人員が不足していた戦地への派遣は、簡単に決まり退職届を提出した三日後には、もう機上の人となっていた。



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