屍肉の魔王~孤独な獣の成り上がり~
九環 兎盧
第1話
かつて邪龍が住んでいたとされるドラクルの森にソレは住んでいた。
いつから居たのか、ソレ本人ですらわからない。また本当にソレが生き物であるかというのも同じである。周りから見れば動く動物の死骸の集合体にしか見えなかった。
ソレはいるだけで周りの生命を奪っていった。ソレが動く度に周りの動植物はソレに引き寄せられ、潰され、喰われていった。
ある程度の暴食と殺戮を繰り返した後、やがてソレは動かなくなる。
睡眠だ。長い長い惰眠に入るのだ。
期間で言えば幼児が立派な青年になるほどの時間をソレは睡眠に充てた。
そして、目覚めまた一週間ほど森の豊かな生命を無造作に奪い尽くすのである。
そのひどく惨い循環が十回目を迎えた時であろうか。
今まで、悲鳴のような声を上げて死んでいくだけだった生命の中に妙な者が現れた。
ソレが見たことない生物。
二本の足で立ち、身体には何かを纏っている。
そして、手には棒のような、尖った何かを持って言った。
異質な生物はソレを憎しみの篭った目で睨みつけていた。
「貴様、今までどれほどの生命を奪った?」
悲鳴以外に初めて聞いた声。
当然、ソレはその生物が何を言っているのか理解できないし、その言葉に内包されている殺意にも察することはできなかった。
ただ、なんとなく自分の身体、肉塊をブヨブヨと蠢うごめかせるだけだった。
「醜い。貴様は醜い。己の欲を満たすためだけに他の生命を貪り、何も産み出さない。
貴様は悪だ。看過しがたい悪だ。吐き気を催すほどの邪悪だ」
その生物、恐らく雌なのだろう、それは手に持った棒状の何かをソレに向けた。
やがてその雌の間に何かが収束しだした。
ソレはまだ知る由もないが、それは空気中に漂っている魔素と呼ばれる力を女の剣に収束させているのだ。
やがて、魔素を限界まで貯めた剣を彼女はゆっくりと振り上げた。
ソレは一連の動きに対して特に攻撃も、警戒もすることなく、ただ蠢いていた。
目の前の異物を観察するように。まるで初めてみる虫を眺める赤ん坊のように。
どこに目があるかもわからないが、確かにソレは女を見つめていた。
「正義の名のもとに、滅びるがいい!!!」
そう吐き捨てて女は剣を振り下ろした。
次の瞬間、月夜に照らされているのみだったドラクル・リーチは目を焼くほどの眩い閃光に包まれ、少し遅れて大地が揺れるような爆音が森中に鳴り響いた。
女──カリーナ・クウァエダムはまだ止まぬ煙の向こうをじっと見つめている。さっきまでソレがいた場所だ。中央は見えなかったがさっきの攻撃で大きな地割れのようなクレーターが出来上がっていた。
やがて、煙は消え、クレーターの全貌が明らかになる。
あの悍ましい何かは跡形もなく消え去っているはずだ、カリーナはそう確信していた。
だが、ソレは変わらずそこに存在していた。
何も無かったかのように。
「なッ!!?」
カリーナが驚愕から後ろに下がろうとした瞬間、ソレから何か触手のようなものが無数に伸びてきた。
とてつもない速さで触手はカリーナを捕らえた。
「私に触れるな!この化け物が!」
カリーナはすぐに己を拘束する触手のような肉塊を切り落とした。
が、絶えず触手はカリーナを捕らえようと迫ってくる。
やがてカリーナは触手を退けることを諦め、撤退を決意した。
「くっ!私ともあろうものがこんな人狼如きにッ!」
カリーナは苦虫を噛み潰したような、実に屈辱的な顔をして、背中に力を込めた。
すぐにカリーナの背中から蝙蝠の羽のようなものが飛び出して、即座に飛び立つ。
すぐにその場から離れ、木々の間を縫うように飛んでいる。
(なんなのだ、あれは…!あのような人狼なぞ見たことがない…。
早くニコラ様に報告せねばッ!)
そう思いスピードを上げようとした次の瞬間、カリーナの背中に激痛が走る。
「!?」
気づけばカリーナの翼は触手によってひねり潰されていた。
「ぐがぁぁぁぁ!!」
カリーナは強烈な痛みに思わず絶叫した。
だが、その悲痛な声は誰にも受け取られることなく、虚しく空気中に消えた。
やがて触手はカリーナの身体をさっきよりもしっかり拘束した。
「クソ!クソ!クソ!」
カリーナは抵抗するように身体を何度も捩らせるが、拘束は強まるばかりで、どんどん息苦しくなる。
骨が軋む音がする。
カリーナの抵抗はなんの成果も齎さず、やがて触手はカリーナという食料をソレの元へと運んだ。
ソレはやはり、舌なめずりをするわけでもなく、蠢くのみである。
「ぎ、ぎざまぁ…!」
触手の強い拘束により、もはや息も殆ど出来ていないカリーナは顔を真っ青にさせながらソレを必死に睨みつける。
殺してやる、頭の中は殺意で満たされているが、ソレは構うことなく、自分に食料を寄せていく。
カリーナはまだ諦めていないかのように罵詈雑言をソレに浴びせる。
尤も、傍からは何を言ってるか殆ど聞き取れないのだが。
「私が、死のうとも、同胞が貴様を討つ…!
だから、その日まで…!」
カリーナが何かを言おうとした瞬間、華奢なその肉体は悍ましき肉塊へと抱き寄せられ、ゆっくり、ゆっくりと取り込まれていった。
まるで粘土のように。
やがて食事を終えたソレはまた眠りにつく。
いつもの食事とは段違いの満腹感と共に。
次にソレが目覚めた時、辺りはクレーターのままだった。
おかしなことに
それほど時間が経っていないかのように見える。
そして何より、ソレは己に違和感を抱いた。
己の肉体に異常を感じた。
ソレは己の身体を眺める。
やがてソレは気づく。
手があることに。足があることに。胴があることに。頭があることに。
まるで眠る前にみたあの生物と同じような姿になっていることに。
ソレは困惑した。
生まれて初めて困惑した。今まではそういった感情の機微も存在していなかったはずだ。
一頻り困惑したあと、ソレは立ち上がった。
あの生命のように。
身体が異常な程軽く感じた。
ジャンプをしてみる、があの生物のように高く飛ぶことは出来なかった。
ソレはこれからどうすればいいか、戸惑った。
やはり、戸惑うのも初めての経験だ。
なんとなく、歩いてみようと思った。
それからソレは半月ほど森を歩き続けた。
何故か飢えることはなかった。睡魔に襲われることもなかった。
そして、川に辿り着いた。
水、それも初めて見るものだった。
ソレは流れる水を興味深そうに覗き込む。
すると水面になにかいる。
自分が食べたはずの生物の顔だった。
ソレは酷く驚いた。すると水中の生物も酷く驚いたような顔をした。
ソレは不思議に思い、水面に浮かぶ顔を注意深く見つめる。すると、水面の顔も注意深くこっちを覗き込むではないか。
もしかしてもう一度あれを食べられるのか、そう思いソレは川に身を乗り出した。
そして、川に頭から飛び込んでしまった。
川はソレが思っていたよりも余程、深く、ソレは一生懸命もがいてみたが、どうにも身体の自由がきかなかった。
やがて、ソレの意識は途絶えた。睡眠以外で意識を手放すのも生まれて初めてであった。
「ねぇ、あなた大丈夫?」
気がつくと、水面にあったはずの顔が目の前にいた。
いや、正確には細かいところは違っているし小さいのできっと、違う生物なのだろう。
「川で遊んでて溺れちゃったのね。
まってて。おじいちゃん呼んでくるから」
その小さな生物はトコトコと木々の間に消えていった。
生物が何を言ってるか一切理解出来ていないソレはどうすればいいかわからず、なんとなく空を眺めていることにした。
空をじっくり見るのは初めてであった。
思えば自分が起きている時はいつも黒色だったような気がする。
なのに、今自分の上にある空はとても青い。
なんでだろう、とソレは思った。
暫く、空を観察していると、先程小さな生物がいなくなった方から2つの声が聞こえだした。
「おじいちゃん!こっちこっち!」
「本当に生きておるのか?死んどりゃワシにはなんにもできゃせんが」
「瞬き何回もしてたし、息してたし、絶対生きてるよ!」
気がつけば、先程の小さな生物とともに大きな生物もやってきた。
「ほう、本当だわ。まだ生きとるようだの」
「ね!いったでしょ!」
「とりあえず、座らせてこの毛布を掛けてあげなさい。ワシは薪を取ってくるわ」
すぐに大きい方はどこかへ行ってしまったが、小さい方はソレを座らせ、毛布を掛けた。
ソレは終始、不思議そうにその小さな何かを眺めていた。
「ねぇ?あなたどこの子?ここより上流には村なんて無いはずだけど」
ソレは何も答えない。
「うーん。じゃあ名前は?男の子だよね?顔は女の子みたいだけど」
やはり、ソレは黙ったままだ。
「もしかして、言葉わからないから喋れない?」
ソレは首を傾げている。
「おーい、クラリス、薪を取ってきたぞーい」
クラリスと呼ばれた少女は眉を寄せて振り向いた。
「おじいちゃん!この子、言葉わからないみたい!」
「なに?言葉がわからん?そんなわけあるか。
明らかにお前と同い年くらいじゃろ、その童」
「でも、なにも喋らないし、こっちの質問に頷きもしないんだよぉ?」
「どれどれ、ワシにまかせてみぃ」
おじいちゃんと呼ばれた老人は訝しげに座るソレの前に折敷き、問いを投げかける。
「お主、ここがどこかわかるか?」
ソレはなにも答えない。
「ほら、やっぱりわからないんだって」
「名前は?あるじゃろ?」
するとソレはさっきも出た“なまえ”という言葉になぜか、強い興味を抱いた。
まるで、なによりも今、欲しているかのように。
「な…ま、え?」
気がつけば、ソレは名前という言葉を復唱していた。
すると老人はクラリスに対して、得意気な顔をした。
「ほうらぁ、喋ったろう」
「うるさいなぁ!絶対、この子わかってないじゃん!適当に復唱しただけだって!」
「んにゃ、少なくとも童は喋れるからワシの勝ちじゃ」
「勝ち負けの話じゃないし!」
「なまえ、ほしい」
言い合いをしている二人の間に、掠れるような、今にも消え入りそうな声が届いた。
クラリスは驚いた顔をした。老人はさらに勝ち誇ったような表情を浮かべる。
「やっぱりじゃあ〜!お前の滑舌が悪かったから何言ってるかわからんかっただけだったんじゃあ~!」
「おじいちゃんうるさい!ちょっとだまってて!」
クラリスは横で騒ぐ年老いた男の顔に薪を叩きつけた。
なんじゃよ、そこまで言わんでもええじゃろ、といじけながら焚火の準備を始めた老人を横目にクラリスはソレに問いかける。
「あなた、名前ないの?」
ソレは答えないが、どこか寂しそうな表情を浮かべる。
クラリスはそれを見た後、暫く考え込んだ。
ソレは不思議そうにクラリスを眺めている。
一分ほど経過したころ、クラリスはなにか閃いたかのように顔を上げた。
「あなたの名前は今日からイオン!イオンよ!」
「イ…オ…ン…。なまえ…?」
「そう!」
ソレ、イオンには目の前の少女が己の問いに肯定しているということはかろうじてわかった。
イオン。
それが自分の名前。
そう思うと、イオンはとても嬉しい気持ちになった。満たされた気持ちになった。
笑顔になった。
「おじいちゃん!この子笑ったよ!」
クラリスは嬉しそうに老人の方へと駆けていく。
その日、イオンは産まれたのだ。
ドラクルの森で、生まれて初めて満たされながら。
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