紫煙の勇者と狂った世界

飛鳥休暇

第1話 少女と男と浮かぶ脳

 銀色に鈍く輝く煙管きせるに乾燥させた葉っぱを入れ、男は手慣れた様子で火種を落とす。

 少し黒ずんで変色した吸い口をくわえると、まぶたを閉じ、ゆっくりと煙を肺に落とし込んだ。


 ふぅぅと口をすぼめて息を吐きだすと、まるで熱風を吐き出しているかのように喉に少しの痛みが走った。


 男が吐き出した煙は空中に綺麗な一文字を描いたあと、ぐらりと揺れてその身を溶かす。


 肺の奥に残った熱が緩慢な動きで全身に行き渡る。

 男は再度深呼吸をした。

 ゆっくりと呼吸をするたびに、脳が浮遊する感覚が生まれる。



「あぁ。……それで? ……なんだって?」



 男は虚ろな目で壁際にいる金髪の少女に声を掛ける。

 夢幻むげんに飛ぶ寸前の、この手足の感覚がなくなる瞬間がたまらなく気持ちがいい。


「だから、私の村を助けてって……」


 少女の目が潤んでいる。

 それは村を襲われた恐怖からか、それとも目の前で呆けた顔をしているぼろ雑巾のような中毒者ジャンキーに助けを求めているその無力感からなのか。


「あぁ……。村。……どこの村」


 男の目はもうどこにも焦点が合っていない。

 空中の小虫を追うかのように、ゆらゆらとその眼球が揺れている。



「隣村のラッタンだよ! 今もみんなが魔物に襲われているの!」



 男は、少女が何を言っているのか分からなかった。

 いや、言葉は分かるのだが、その言葉の意味が脳内で上手く結ばれない。

 脳が浮かぶ。視線が揺らぐ。


「……お嬢ちゃん。……あぁ、なんだ。なんでここにきた?」


 男は朦朧もうろうとした意識のまま問いかける。

 身体は広大な海の中で漂っているような感覚だ。


「パックのおじちゃんが言ってたの! 城下町の外れにおじちゃんの友達の勇者がいるって! ……だから!」


 少女の目から大粒の涙がぽろりと落ちた。

 しかしいまの男には、その涙の訴えすらどこか遠くに聞こえる雷の音に等しかった。


「……あぁ。パック。……あの野郎」


 聞き覚えのある名前にわずかに反応した男が、多少しっかりとした声で話し出した。


「地元でぬくぬくと生きていたんだろう。幼馴染の恋人と結婚して。牛や馬の世話をして過ごす日々だ。……あぁ、ちくしょう!」


 はっきりとした独り言のようなそれは、しかし、少女の口をつぐませるには十分な迫力があった。


「おれは、……おれだって。そんな幸せな日々を過ごしたかった。だけどなまじっか剣の才能があったおかげで、勇者に選ばれちまったんだ」


 何かを思い出したかのように目の前の机に強かに拳を叩きつけた。

 机の脚が耐えきれずにバキリと折れ、机に乱雑に転がっていた小物たちがばらばらと音を立てて床に転がる。


「なぁ、お嬢ちゃん。……脳みそがよ。脳みそがまるで踏みつぶした葡萄ぶどうの種のように飛んでいくのを見たことがあるか?」


 宙を見つめていた視線が、ようやく少女の姿を捕らえる。

 しかしその、人のものと思えない空虚な眼球に、少女は思わず身体を震わせた。


「しかもそれがな。自分の愛する人の脳みそだったら? なぁ。人はそれでも狂わずに済むと思うか?」


 男はわらっていた。


 へらへらなのかニタニタなのか。

 不格好に口の端を歪めたその笑顔を表現する言葉を、少女は持たなかった。

 部屋に充満する甘ったるい香りが、少女の思考をも飲み込もうとしていた。

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