4. 未決勾留


 男はそこで話を終わりにして、ビールを少し口にした。店主も私も滔々とうとうと語られる逸話に無我夢中で聞き入っていたため、話が終わった、という現実に戻るまでに相当な時間を要した。


 「すみません。旅の途中でそんなこともあった、という話をさせていただいたんですが、少し退屈でしたでしょうか」


 男が控えめにそう言うと、店主と私は互いに目を見合わせ、なぜか必要以上に慌てふためきながら「大変興味深い話だった」という旨を、ぎこちなく双方で返答し合った。


 しかし、どうしても話が途中で終わってしまった感が拭えなかった私は、更なる事の顛末を訊かずにはいられなかった。


 「それで……やっぱりどうしても気になるんですが、3日目にその『異教徒』は現れたんですか?」


 「すみません、肝心なところをお話をしていませんでしたね。私も当然ながら結末を知りたかったので、翌日もその町に留まり、町の様子をみていました。ところが結局、教会の言っていたようなことは起こりませんでした」


 「なるほどー、そうですか。そんなもんなんでしょうね。予言というのは得てして当たらないものなんですよ」と店主はなぜか勝ち誇った態度で口を挟んだ。


 私は続けて質問した。

 「あと……その『絵』は結局どうなったんですか?」


 「はい、その絵も結局、掲示板に貼られたままでした」


 「はは~ん、なるほど。芸術振興会としては美術館に移したいが、教会が睨みを効かせている。一方で教会は、予言が空振りしてメンツが丸潰れだから、あんまりこれ以上あからさまに関わるのも気が引ける。ってことで絵はそのまま置き去りにされたんですかね?」と店主はまたしても得意気に言った。


 男は爽やかに微笑みながら付け加えた。

 「私もそういうことかと思います。結局、私もそれから何日かその町に滞在したのですが、次第にその絵を気にかける人も少なくなって、話題にもあまり上がらなくなりました。でも私が感じたのは、誰もがその絵を飽きてしまったというよりも、そこにあるのが至って自然に感じられるようになって、町の風景にも、人々の精神にも見事に溶け込んでいった、ということでした」


 私は、この見ず知らずの男の話がどこまで本当なのか、という疑念は少なからず終始抱いていた。その町が具体的にはどこなのか。教会は何という宗教団体なのか、など、真相を究明する質問はいくらでも簡単にできたはずだった。


 しかしそれ以上に、仮にすべて作り話だったとしても、この男の話とその感性には手放しで好感の意を表したい、という気持ちを抑えることはできなかった。店主もおそらく同じ思いだと思われた。もしすべて嘘だとしても誰かが困るわけでもない。ただ、不思議な魅力に浸れる時間を提供してくれたことに、祝福を返したい気持ちで満たされていた。すると、店主が私の思いを代弁するかのように話を続けた。


 「いや~それにしてもその絵をぜひ見てみたいな~。全部回収して燃やしちゃったんですもんね?いや~残念だ。本当に。どんな絵なんだろう。想像がつかないや本当に。でもまぁお客さん、今日は面白い話を聞かせてもらったから、一杯奢りますよ!何がいいですか?ビールでいいですか?店からの奢りです。もう今日は客も来ないだろうし、あとは閉めるだけですから」


 「いや、まだ来ますよ。でも確かにこの店のお客さんではなく、目当ては私ですけどね」


 男はそう言って店の入り口の方に振り返った。そのままじっと何かを見つめていた。


 すると、サイレン音を消して赤い光だけを回転させた警察車両が、店の前に静かに到着するのが、入り口の横にある少し曇った窓から見ることができた。サイレンの赤い光が薄暗い店の中に入ったり出たりする様子を見ながら、私は何が起こっているのか理解できないまま、少し眠気すら覚えるほど、ただ呆然としていた。そして男は、店主と私の方に向き直ると、穏やかな口調で言った。


 「私はもう行かなければなりません。ビールはまた次の機会があればぜひご馳走にならせてください。おかげさまで楽しいひと時を過ごすことができました。ありがとうございました」


 男は何の未練もなく、まるで最初から時間が決まっていたかのように、おもむろに店を出ていった。店主も私も、ただ黙って見送るほかはなかった。外では車のドアが開く音がして、誰かが男と言葉を交わしたようだが、曇った窓越しには、はっきりとその様子を確認することはできなかった。


 すると、紺色のスーツ姿の男が店に入ってきて、冷静な口調で言った。


 「どうもすみません。警察の者です。お怪我などありませんでしたか?」


 「け、怪我?ですか?はい。特には……」


 私はわけもわからず答えた。そして店主が尋ねた。


 「一体何事ですか?」


 警察の男は店の中を見渡すと「この店には……テレビはないんですね?今ここにいた男は、勾留中に逃走した男です」と淡々と答えた。


 「逃走……」と私は小さく復唱するばかりだった。


 「一体、何の罪で勾留されていたんですか?」と店主は尋ねた。


 「妻殺しの容疑です。とにかく何事も無く、皆さん無事でよかった。まぁ、まだ容疑の段階で確かなことは言えませんが、この男は凶暴というわけではないですからね。でも凶暴と凶悪はまた違いますから、少し心配していました。3日間探し回ってようやく見つたんです。それでは。失礼します」


 警察の男はそう言い残すと速やかに店を出ていった。私達は返す言葉が見つからなかった。


 警察車両も去り、風音もおさまると、店内は静けさに包まれていた。BGMもいつからかわからないが止まっていた。


 それから店主は無言でビールを一杯注ぐと、静かに私に差し出して言った。


 「あの男に奢るはずだった分」


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