IV. 未決品評会
メンバーの内の一人、清楚で地味な服装の女性が、図らずも赤いスーツの女性と目が合いました。その女性は顔をほのかに赤らめ、配られた手元の紙に視線を落とすと、一度大きく咳払いをしてから、静かに話し始めました。
「私は…心理学者の立場から…この作品を…とても評価しています…」
少し緊張しているのか、顔にはぎこちない笑みを浮かべ、その声は掠れた小さな声でした。
「あくまでも私の個人的な見方にはなりますけれども、この絵は…ある個人が自分の深層心理を表現したものだと思います。いたって抽象的な絵ではありますが、決して奇を衒うとか…定型的な前衛芸術を軽々しく模倣するとか…そういった類のものではないと思います…」
そう言って一旦水で喉を潤すと、少し気を取り直した様子でまた続けました。
「なぜかというと、もう一度絵をよく見てください。一つ一つの線に迷いがあるのです。これはどういうことかと申しますと、自分の深層心理を丁寧に探りながら、ときには筆を走らせ、ときには戸惑いながら描いている、ということであろうかと思います。つまり、借りてきた既成のイメージを可能な限り、最大限排除しようとする、血の滲むような努力と苦悩が、この筆運びから窺い知ることができるのです!」
心理学者は次第に調子を上げ、自分の力説に感極まったのか、その目は僅かに涙ぐんで見えました。
会場の人達は皆、絵をじっと見ながら難しい顔をしていました。中には、絵を横にしたり、斜めにしたりしながら見ている人もいました。
「それは、具体的には、どういう深層心理なんですか?」と職員の女性は冷ややかに質問しました。
「は?具体的には……ですか?それは……わかりません。この人の、えー……つまりこの作者の、個人的な深層心理ですから、少なくともこの絵だけではなんとも……。ただ確実に言えるのは、この絵には嘘がないんです。そうです、それだけは言えます。嘘がないんです……」
心理学者の自信のない物言いに、もはや後半は会場のほとんどの人には聞こえていないようでした。
それを感じとった赤いスーツの女性は、慌てて代わりに補足しました。
「あくまでも芸術作品の評価ですから、正解があるわけではありません。彼女が言いたかったのは、具体的な深層心理の内容についてではなく、そういう見方ができる、という一つの切り口をご紹介したかったということなんです」
職員の女性は何か言いた気でしたが、その場は黙っていました。
赤いスーツの女性は心理学者の話はそこで打ち切りにして、今度は他のメンバーに発言させるべく、無言で一人の男性の方を手で指し示しました。
指名されたのは、丸眼鏡を掛け、鼻筋の通った、痩せた男性でした。端整な目鼻立ちをしていて、思慮深い印象はありましたが、整えていないくせ毛の髪の毛に、ダンディというよりは単にだらしのない無精髭。古ぼけたベージュのジャケットと黄ばみがかった白いワイシャツという身なりが、すべての好印象を打ち消しているかのような人でした。
その男性は、小さな丸眼鏡の割りには大きな目で赤いスーツの女性を一瞥すると、よく通る声で穏やかに話し始めました。
「僕は詩人です。詩人は言葉で表現します。しかし言葉は、同時に、イメージを喚起します。言葉で綴る世界と絵の世界は、実は密接に関係しています。いわば表裏一体なわけです。お互いに影響し合い、作用し合っているわけです。僕は昨日、偶然この絵を目にしました。そして僕は、未だかつてない衝撃を受けました。実は、僕が長い間心に温めていた一つの詩と、この絵が、一瞬にして一体に結びついたのです。予期せぬときに、予期せぬところで、見事に結実したのです。僕はしばらくその絵を見つめたまま、その場に立ち尽くしました。僕は全身に痺れのようなものを感じていました。今も、こうして話している今も、まだその余韻が消えることはありません」
詩人の力強くも淡々とした自制の効いた話しぶりに、周りの人達は脇目も振らず只々詩人の方を呆然と見つめるばかりでした。しかし、そんな空気には一切お構いなしと言わんばかりに、職員の女性が冷静に言いました。
「では一応、参考までに、その長く温めてきた詩というものをご紹介いただけますか?ちょっと話が逸れるような気がするので、あくまでも参考ですけれども。そこまでおっしゃるのであれば聞かずにはいられません」
「はい、よろしいですか?正式には、今後編纂予定の僕の詩集に載せるつもりですが、せっかくですからこの場を借りて。では失礼します。『操りの構図』という詩です。
『操りの構図』
政治家は官僚に操られている
民意はメディアに操られている
敗戦国は戦勝国に操られている
戦争はイデオロギーに操られている
世界は秘密結社に操られている
人間は神に操られている
絵画は詩に操られている
詩は絵画に操られている
そして僕は
妻に操られている」
詩人があまりにも真剣な面持ちで詩を詠んだので、会場内はしばらく息を飲む空気が漂っていましたが、ついに誰かが堪えきれなくなり思わず吹き出すと、次々に笑い声が広がりました。
詩人はその反応をみて、気分を損ねるどころか、真剣だった表情を急に満面の笑みに変え、とても満足した様子で、軽く会釈をするような素振りを見せていました。職員の女性もどことなく表情を緩めているようでしたが、微笑むというよりは、むしろ失笑しているという方がふさわしいものでした。
すると突然、この少し打ち解けた雰囲気に便乗するかのように、周囲で見ていた赤ら顔の中年男性が手を挙げて発言しました。
「すみません!私もたまに詩を嗜むのですが、ついでに披露してもよろしいでしょうか?」
「そういう場ではありませんのでご遠慮ください」
職員は即座に却下しました。中年男性は素直に引き下がると、隣にいた人が、果敢な挑戦を称えるかのように笑いながら男性の肩を叩いていました。
すると今度は丁重な物言いで発言する人がいました。
「あのー、私も意見を言わせていただきたいのですが、よろしいでしょうか?」
それは昨日ホテルのカフェにいた若いビジネスマンでした。今回の一連の件を先輩社員と冷やかし合っていた若者が、意外にも集会に参加していたのでした。
職員の女性が「詩の披露でなければどうぞ」と了解すると、おもむろに立ち上がって話しました。
「はい、ありがとうございます。私は、とある食品会社の営業をしている者なんですが、この絵ですね、私には某大手飲料メーカーのロゴがあしらわれているように見えるんですね。この部分です。ここ。赤地に白抜きの、ちょっと波を打った曲線の部分ですね。これ、皆さんもよくご存知の飲料メーカーのロゴに見えませんか?」
しばらく考え込んでから、驚きの表情で賛同の声を上げる人も少なからずいたようでしたが、どれも確信のある同意には聞こえませんでした。
「そう見えますよね?ね?つまりこれは、この飲料メーカーの新手の宣伝広告はないかと、私は思うんですね。そう考えると、この左上の辺りも見てください。なんとなく乾いた感じがして、何か飲みたいなーって感じになりませんか?いや間違いない!絶対にそうですよ。新手の宣伝広告です。いやー実によくできてる。そう思いませんか、皆さん!」
まずまずの反響と受けとった若者は息を巻きました。カフェで先輩社員と一連の件を嘲笑していた若者とは、とても同一人物とは思えない興奮ぶりでした。
「そこまで説明しないとわからない宣伝広告もどうかと思いますけどね。いや、説明されても私にはちょっとわからないですけど」
相変わらず気のない職員のコメントで水を差された若者は、この興奮をどうやって収めればいいのかわからないといった具合で、その場に静止したまま目だけキョロキョロしていましたが、思った以上に賛同する人が誰もいない状況にようやく気がついたのか、しばらくすると諦めて腰を下ろしました。職員の女性は、一度ため息をつきました。
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