21話 体育
今日の六限目は体育だ。内容は50メートル走のタイム測定。
持久走よりはマシだけど、そもそも運動があまり得意じゃないので億劫な気分は否めない。
名簿順に二人ずつ走るため、私は萌恵ちゃんと肩を並べてタイムを競うことになる。
いや、語弊がある。肩を並べるのはスタート地点だけで、走り出した直後からは遠ざかる後姿を追うことになるだろう。
「今日も負けないからね!」
萌恵ちゃんは体育のとき、いつも以上に元気だ。
普段はハーフアップにしている髪も、このときだけはポニーテール。いつもと違った魅力を目にする貴重な機会なので、しっかり網膜に焼き付けておく。
「私は自己ベスト更新を目指すよ」
スタート前にちょっとした会話を交わし、クラウチングスタートの構えを取る。
何歳になってもこの瞬間の緊張が抑えられない人は、きっと多いだろう。
ドキドキしながら合図を待っていると、先生の「よーい」という掛け声に続けてピッと軽快な音が鳴った。
勝ち目がないとしても、萌恵ちゃんを追い越すつもりで必死に走る。
雑念を捨て、一心不乱に体を動かす。
その結果、昨年よりもいいタイムを出すことができた。
萌恵ちゃんとの競争と考えれば惨敗だけど、悔しさよりも満足感の方が強い。
「はぁ、はぁ、萌恵ちゃん、速すぎ」
前屈みになって、息を整える。
汗で髪が頬に貼り付き、私も結んでおけばよかったと悔やむ。
「んふふっ、走るの大好きだからね! でも、楽しいだけじゃ済まないんだよね。いつものことだけど、千切れて飛んでくんじゃないかってぐらい痛いんだ~」
萌恵ちゃんは悲しそうに、胸の付け根辺りを触った。
以前から知っていることだけど、やはり不憫でならない。
走るのが大好きなのに、全力でやれば痛みが伴う。
できることなら、あの大玉スイカみたいな爆乳を譲り受けたい。そうすれば、萌恵ちゃんも心置きなく運動を楽しめるのに。
「私はきっと、その痛みを分からないまま一生を終えるんだろうね……あはは」
スポブラで事足りる貧相な胸を撫でていると、乾いた笑いが漏れた。
「落ち込むことないって。あたしは真菜の胸、好きだよ」
もう貧乳のままで生涯を終えてもいい。
大きくなることへの憧れはあるけど、萌恵ちゃんが好きと言ってくれるならどんなことでも前向きに受け入れられる。
さて、私たちは適当なところに移動して腰を下ろした。
次に走るまでしばらく待つため、クラスメイトの走りを見ながら束の間の休憩だ。
「あ、そうそう。萌恵ちゃんのおかげでタイム縮んだよ。ありがとう」
「お~っ、おめでとう! でも、あたしなにもしてないよ?」
「萌恵ちゃんを追い越そうっていう気持ちのおかげで、速く走れた気がするの。だから、萌恵ちゃんのおかげ」
他の誰でもない萌恵ちゃんの背中を追っていたからこそ、競争心と本能的な欲求が相乗効果を生み、ポテンシャル以上の結果を出せた。
「そこまで言われると、なんか照れるな~」
気恥ずかしそうに苦笑する萌恵ちゃん。
ところで、私たちは一人分ぐらいの間隔を空けて座っている。
理由は簡単、体育は汗をかくからだ。
私は萌恵ちゃんのすべてを愛しているけど、決して服従しているわけではない。
萌恵ちゃんがカラスを白と言えば私は黒だと即座にツッコむだろうし、萌恵ちゃんが道を踏み外すことがあれば全身全霊で正すつもりだ。
そして、私の五感はわりと鋭敏であると自負している。
汗の臭いをシロップみたいな甘さだと感じることは断じてない。
いい匂いだと思ってしまうのは事実だけど、香りそのものを誤認したことは一度たりともない。
なにを言いたいのか自分でもよく分からないけど、要するに汗臭くてもいいからいつもみたいに密着してほしいということだ。
むしろ、シャンプーやボディーソープ、洗剤などの匂いに混じって鼻孔をくすぐる汗の臭いは、強烈なフェロモンとして私を高揚させてくれる。
会話する裏でこんなことばかり考えている私は、いよいよ変態として戻れないところまで来てしまったのだろう。
ただ……私自身も汗臭いので、萌恵ちゃんに不快な思いをさせたくないという気持ちも強い。
「真菜、ごめんね。あたしって汗っかきだから、この距離だと臭うよね?」
「え、そんなことないよ」
むしろ嗅ぎたいよ。
「ほんとに? じゃあ、もうちょっとだけ近付いてもいい?」
「もちろん。私の方こそ汗臭いから申し訳ないけど、萌恵ちゃんがいいなら、いつもみたいにくっついてほしいな」
「真菜がそう言ってくれるなら、遠慮なくくっついちゃうからね。んふふっ、すりすり~」
萌恵ちゃんは大喜びして私に密着し、頬ずりまでしてくれた。
相変わらず身長差があるから、頬同士は触れ合ってないんだけど。
あぁ、胸と同じぐらい身長が欲しい。
いやいや、胸はべつにいいから、背だけでもなにとぞ。神様、お願いします。
「これからも、汗かいてるからって遠慮とかしなくていいよ。実は私も、いつもより離れてて寂しかったんだ」
「やった~! あたしもね、体育のときはずっと寂しくてもどかしかったんだよね! ほんの数十センチでも、いつもより離れてるってだけで嫌だった!」
「私たち、同じこと思ってたんだね」
恋愛的な意味じゃないと考えると切ないけど、やはり嬉しい。
自分は萌恵ちゃんにとって肌が触れても嫌じゃない相手なんだと実感できるだけで、充分に幸せだ。
「――あ、萌恵ちゃん、そろそろ戻った方がいいかも」
話している間に二巡目もそれなりに順番が進んでいるので、列に並んでおかないと注意されてしまう。
二人きりの時間が終わることを名残惜しく思いながら立ち上がると、萌恵ちゃんがいつものように腕を組んできた。
「せっかくだし、あそこまで二人三脚やろうよ!」
「いいけど、手加減してね?」
単に楽しそうな思い付きを口にしたのか、私と同じことを感じてくれたのか。
できれば後者であってほしいと願いながら、萌恵ちゃんと足取りを合わせて駆け出した。
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