第26話 發酵成熟のガメート

 文化祭パンフレットを両手に抱えて現れた弥音ねおんからタオルを投げ渡されて、ようやく晴生は自分が汗まみれだったことに気付く。


「……今川か、すまないこいつは洗って返す。それより雪希を見なかったか?」


「別に良いけど……雪希ちゃん? 見ていないけど、どうしたの?」


 汗をぬぐいながら晴生は事の経緯と雪希を探している事を伝える。


 妙だったのは雪希は驚いて何かに恐怖したような表情を見せていた事に晴生は違和感を感じた。


 浮気をされたと思えば怒るか悲しむかどちらかじゃないかとあれこれ考え、晴生は煮詰まった頭を掻きむしった。


「そういうこと……それならさっきから衛生のトラブルが頷ける」


 弥音は晴生の説明を聞き終えるとすぐ何か閃いて頷き始める。


「どういうことだ?」


「つまり、雪希ちゃんの力が一種の暴走状態にあるってことだよ」


 弥音は雪希が胸の内に蠢く嫉妬にさいなまれ、願いを聞き届けた菌達は雪希の気持ちに応えるように動いた結果、暴走していると言った。


 菌達は彼女を愛し、彼女を幸せにするために動いていると考えると全ての辻褄が合うのだという。


 初めて恋した人に好きになってもらいたいと願い――


 初めて恋した人を傷つける人間にいなくなって欲しいと願い――


 始めて恋した人の命を助けたいと願い――


「その全てに菌達が答えてきたの。菌達は雪希ちゃんを愛しているから。だけど今は雪希ちゃん自身、その強い気持ちを整理できていないから、菌達が混乱している。どうすればいいか決めあぐねいている」


「どうすればいい……なぁ今川……俺はどうすればいい」


 次から次へと起きる問題が、自分の不甲斐なさで起きたと思うと晴生は申し訳なさや情けなさで一杯になる。


「らしくないね。いつも冷静な及川だったら聞かなくても答えは出ている筈だよね。むしろもう答えはでているんじゃない?」


 答えは簡単だった。雪希がどうして気持ちが整理できていなかったのか、それは不安だったからだ。


 ちゃんと告白すると言っても1か月弱待たせ、挙句の果てには他の女になびいている始末、不安になって当たり前だった。


 だけど晴生は雪希がどこにいるのかが分からない。おまけに菌が蔓延はびこっているお陰で校内は混乱の渦と化している。


「……」


 そこまで考えたところで晴生の脳裏に何かが引っ掛かった。


 不意に何か気になり弥音の方へ振り向くと、腕に抱えられた文化祭パンフレットが目に入った。


「今川、そのパンフレットを貸してくれ」


 徐に弥音から渡されたパンフレットを広げ、模擬店の配置図のページを開く。


「さっき今川、衛生トラブルが出ているって話をしていたな」


「それがどうかしたの」


「誰からそれを聞いた? 情報をまとめて管理している人が居るのか?」


「……ああ、うん、衛生担当は私だから、自ずと集まってくるようになっているから、あれ? 言っていなかったけ?」


 弥音は携帯を取り出し、実行委員衛生担当のグループメッセージを見せる。


 晴生はまだ天は自分を見捨てていなかったと感謝する。これで情報を集める手間が省けた。


 晴生は弥音から衛生問題の発生時刻と場所のメッセージを見せて貰い、配置図を三次元的に考え書き込んでいく。


 発生時刻が早い場所の方向が雪希が移動した方角であると晴生は考えた。


 雪希の力の効果範囲が球状であるとの予測の下、多少の誤差があるにしてもおおよその的は絞れると踏んだ。


 その結果導き出された場所は――


「屋上かっ!?」 




 屋上に向かって再び走り出した晴生。


 偶然居合わせて晴生に冷静さを取り戻させ、更に雪希を助けるための策まで講じてくれた

弥音に晴生は心底感謝した


 その弥音に背中を押されるようにして晴生は走った。


 ここ最近走ってばかりな自分に呆れ果て、もうこんなことにはならないよう心底願う。


 いつもは鍵がかかっている筈の屋上はこの時ばかりは何故か開いていて、人の気配を感じ取った晴生は飛び込むように扉を開けた。


 晴生はその光景に息を呑む。


 驚愕の一言では片づけられない衝撃の光景が広がっていた。


 西日が延びて淡い朱色が滲む紫陽花色の空の下。


 濡れた子犬のように身を震わせ肩を抱いた雪希は、屋上の中心で蹲り、周囲には竜巻のような黒い何かが渦を巻き、身体を取り囲んでいた。


 雪を取り囲んでいるものが菌だと分かるのに晴生にはそう時間は掛からなかった。


「こいつは……秀実がいたら、胸が熱くなるって言っていただろうな……」


 無策で近づいていたら、ゾンビにされかねないと晴生は感じ取る。


 そして弥音と相談しておいて良かったと晴生は心から思った。


 今回発生した校内腐食事件の中心が雪希であるのであれば、その中心の細菌量は凄まじいものになっていると晴生と弥音は結論付けていた。


「雪希っ!」


「ハルくん……来ないで……」


 晴生の存在に気付いた雪希は苦しみに顔を歪め、悲しみに涙を浮かべている。


 菌の暴風雨に襲われながら近づいていく晴生。幸い何とか踏ん張りが利く風圧だった。


 数歩歩いたところで、急に手の甲に焼けつくような痛みに襲われる。


 手の甲は軽い火傷を負ったように赤く染まっている。


 先んじて小賢しい予防策を講じたのが幸いした。


 屋上に赴く前、弥音に恨みを叩きつけるかのように灰を浴びせされ、祓われるかのように塩を撒かれ、おまけに弥音手持ちの銀イオン配合の制汗スプレーを害虫に向けるが如く浴びせられた。


 一介の高校に防護服など備えている訳も無く、それが現状できる最大限の細菌対策だった。


「お願いっ! 来ないでっ! 私が何とかするからっ! そんなことしたら――」


「うるせぇっ!! 今行くからちょっと黙っていろっ!!」


 叫んだせいで肺に痛みを覚える晴生。もしかしたら肺炎になるかもしれないと思ったがそんなことに恐怖している余裕などなかった。


 涙を手で覆い隠し、誰かを傷つけてしまうんじゃないかという恐怖に震える雪希を放っておくわけにはいかない。


「お願い来ないでっ! 自分が怖いのっ! このままだとハルくんを――」

 

「さっきから勝手なこと抜かしてんじゃねぇっ! お前には俺の『女体恐怖症』を治してもらわなきゃならねぇんだっ! 雪希には何としても治して貰って……一緒に海に行って……水着姿を見たいんだっ!」


 咄嗟に出た言葉としては性欲まみれで最低だったが、飾らない晴生の本心だった。もうすぐ夏が始まってせっかく海が近い場所へ引っ越したのにも関わらず、好きな人の水着姿が見たい、出来ればその先も、だがその相手は雪希でいて欲しかった。


 やっとの思いで潜り抜けた晴生は、力尽き倒れるように膝を付きそうになるのをぐっとこらえる。


「約束も果たして貰っていない内からぐちぐち言っているなよ。一緒に夏祭りだって行きたい。もう一度浴衣姿が見たい。修学旅行だって一緒に見て周りたい。一緒の大学だって行きたいんだ。それは他の誰でもない雪希じゃないと嫌なんだ」


「ハルくん……」


 徐に顔を上げた雪希の瞼は泣き腫らしたように赤く腫れ、涙で潤んだ青い瞳は陽光に照らされ、晴生は不謹慎にもまるで宝石のように美しいと思ってしまった。


「それに一緒に考えるって言っただろ? まだ何もやっていない内から全部決めつけないでくれ」


 晴生はポケットにしまっていた箱を取り出す。


 それは雪の結晶をモチーフにした雪華のかんざし


 結晶の中心には小さいが青い宝石が散りばめられていて、冬の情景が浮かんでくる一品。


「着物の来ているのに、簪がないのは寂しいかなと思って、しかも純銀製。銀って菌達が嫌うだろう? うまくすればコントロール出来るんじゃないかって思ったんだ。なぁ……まず、これから始めてみないか?」


「ハル……くん……」


 顔をくしゃっと歪ませて、雪希は大粒の雨のような光る涙を零す。


「雪希、好きだ。俺と付き合ってほしい」


 雪希の表情は花が開かれるかのような笑みへと変わり、立ち上がり様、晴生にまるで世界をハグするかのように、両手を大きく伸ばして飛び込んできた。


 突として抱きついてきた雪希を辛うじて受け止める晴生。


「待たせてゴメン」


 晴生は子供をあやすように雪希の髪を優しくなでる。


「返事、聞かせてもらえるか?」


 晴生を抱きしめる腕をそっと緩め、雪希は恥ずかしそうに頬を赤らめながら、首を縦に振った。


「不束ものですが、よろしくお願いします……」


 その言葉を聞いた晴生は、もう一度雪希を抱きしめる。


 ようやく結ばれた二人を祝福するかのような一陣の風が唐突に二人を包み込むように吹き上げる。


 それはさっきまで雪希の周りを取り巻いていた菌達。


 菌達は天の遥か彼方まで登っていく――



 抱き合い愛を確かめる二人は、自分たちの傍を丸い綿毛のようなものがはらりと落ちてく行くのに気が付いた。


「……雪?」


「ううん……違う。これはケサランパサランだと思う……」


「ケサランパラサン?」


 晴生には初めて聞く言葉だった。


 地面に落ちても消える事の無いところから見ても雪ではない事は確かだったが、いったいケサランパラサンとは何なんだと晴生は首を傾げる。


 夜の気配が誘う夕映えの中、タンポポの綿毛のようで兎の尻尾のような毛玉が深々と降り積もっていく。


「持ち主に幸せを呼んだりするって言われているものなんだ」


 動物の毛玉というのが通説だが、アザミなんかの花の冠毛が集まって固まったものだったりいろんな説があるらしい。中には綿状のカビなんていう説もある。


 町の海岸沿いにある水族館に展示してあり、そこでは梟なんかが兎とかを食べた時に排出された毛玉って紹介していると雪希は言った。


 今回の場合は綿状のカビという事なのだろう。夏も近い時期に雪を見ることになろうとは思ってもいなかった二人はその光景に酔いしれる。


「じゃあ、それも夏休みになったら見に行こう」


「うん……それにしてもハルくん。凄い煤塗すすまみれ」


「ごめん。弥音にぶっ掛けられたんだ。抗菌作用がどうとか言って、すまん服が――」


「ああ、うん。大丈夫――あれ? ハルくん。怪我は?」


「うん? そういえば赤みが引いているな? なんか大丈夫みたいだ」


 傷が癒えたのは持ち主に幸せを与えるというケサランパラサンの効能の一つなのだろうと晴生は勝手に思う事にした。


 ただ今はこの光景の中で雪希をいつまでも抱きしめていたいと、晴生はそう思っていた――

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