10「――早く来ないと、置いていきますよ」



「一週間お疲れ様でした」

「お疲れ様でした。気を付けて帰ってね」

「はい。坂下君も部活頑張ってください」


 当番もなんとか終わり、司書室と図書室にそれぞれ鍵をかける。これから部活に出るという坂下の代わりに鍵の返却を申し出て、二人は図書室の前で別れた。

 ――あの後舞は無言で図書室を出て行った。目だけは最後まで絢香を睨んでいたが、それだけだ。

 司書室に戻ると眉尻を下げた坂下が意味ありげに絢香を見ていたが、彼もまたなにも言わなかった。ただ『戻せた?』と尋ねられたので、『はい』とだけ返した。

 職員室に鍵を返して、トン、トン、と同じリズムで階段を降りる。その先の昇降口には、段差に足を伸ばして座る楓がいた。

 足音に気付いて彼が振り返る。


「絢ちゃんっ!」


 眩しいくらいの笑顔に、意味もなく目を細めた。

 立ち上がった楓が駆け寄ってくる。抱きしめようと伸びてきた腕は問答無用で叩き落とす。


「当番お疲れ様!」

「ありがとうございます。……相沢さんには、会いませんでしたか?」


 昇降口の場所は学年関係なく一箇所だ。舞が図書室を出たのは楓より後なので、彼がずっとここで待っていたのなら気付かれることなく帰るのは難しい。


「相沢? 結構前に来たけど、今日は用事あるって帰った!」

「どんな様子でしたか」

「えー、様子なんて言われても……いつも通りだったんじゃない?」


 久しぶりに二人だけで帰れるね、と浮かれている楓に他意はなさそうだった。

 絢香の体調が悪いことにはすぐ気がつくのに、他の人の変化には気付かない。というより、興味がないのかもしれない。

 なにせ楓のことをまだ噂でしか知らなかった頃は、来るもの拒まず去る者追わずの遊び人だと聞いていた。誰に対しても愛想は良かったが、怒られたり罵られている時ですらそんな調子だと。

 でも実はそんな彼と一度だけ、直接会話をしたことがある。落し物を拾ってもらっただけなのだが、その時の様子を思い出すと目の前にいる人物が同一人物だとは信じられない気持ちになる。


「ああもう絢ちゃんは可愛いなぁ! そんなに見られたら照れちゃう! 俺と付き合ってくださいっ!」


 じっと楓を見つめていたら、突然彼が叫んだ。びくっと肩が跳ねる。つい後退りしそうになって、不意に、舞の言葉が頭をよぎった。

 彼の好意に甘えている、それが今まさにその通りな気がして。絢香は後退りしかけた体をその場にとどめる。


「――いいですよ」

「絢ちゃんのこと絶対幸せにしてみせるし、愛情が足りないなんて絶対絶対言わせないから!」

「まったく心配していません」

「絢ちゃんに好きって言ってもらえるよう頑張る!」

「もう十分好きですよ」

「俺は毎日好きって言う! だからっ! ……あれ?」

「それは程々でお願いします」


 ぱちぱちと瞬きを繰り返した楓は、状況が飲み込めないまま間抜けな顔をして絢香を見下ろす。あんまりにも間抜けな顔だったから、つい吹き出しそうになった。


「私、川本君のこと迷惑だと思ったことはありますけど、嫌いと言ったことはないですよ」

「迷惑ではあるの!?」

「時と場合も考えずつきまとわれたら思う時はありますよ。隠し撮りは今後もやめてくださいね」

「正面からならいいってこと!?」

「写真は拒否します」


 首を横に振って拒否する。そこは勘違いしないでほしい、絶対に。

 拒否されたことにショックを受けつつもいまだ理解が追いついていないようで、首を傾げたり視線が空を漂ったり頭を抱えたりと忙しそうだ。

 その間にスリッパからローファーに履き替えた絢香は、昇降口を出て階段を降りた。

 グラウンドの方からどこかの運動部の掛け声が聞こえている。坂下はもう練習に合流できただろうか。


「ねぇあやちゃ、ってあれ!? いない!? ちょっ、絢ちゃんっ!」

「――早く来ないと、置いていきますよ」


 肩越しに振り返って見えた楓は一瞬驚いた顔をして、すぐにへにゃり、ととろけるような笑みを浮かべた。顔から好きという感情が溢れているせいで、何度見ても心臓がざわつく。

 楓がスニーカーに履き変えるのを見届けぬまま、絢香はまた歩き出した。


「絢ちゃん! 待ってよーっ!」


 今度はもう振り返らない。

 だって絢香がなにも言わずとも、彼は今日も後ろをついてくる。





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