subwaypkpks掌編集

subwaypkpk

ポケットがニュートリノでいっぱい

 朝ご飯を食べて支度して、それで家を出ると門扉のすぐくらいに人影があった。トージだ。季節は夏だというのに彼は顔面蒼白で、わたしを見ると今にも泣きそうになる。汗ばんだ手を取られそうになるから、さける。


「な、なにこんな朝早くから」


「おれ、反おれになっちゃったんだ」


「はあ?」


「反おれだよ、はんぶっしつとかの……」


 わたしははっとした。どこかで聞いたことがある。はんぶっしつ。それってもしかして反物質? そうだ。理科で先生が言っていた。この宇宙が出来たとき、宇宙を構成した二つ。物質と反物質。その二つは対になるようにして生まれた。そして物質と反物質はぶつかると消える。わたしたちはふつう物質だけど、トージは自分を反物質だと言う。わたしは驚き、彼から距離をとった。トージはさらに泣き顔になって


「や、やめろよ」


 わたしは反省した。彼だって心配なのだ。トージが反トージになってしまったからといって、そんな疫病の主みたいな扱いは良くない。


 とりあえず、学校に向かいながら話をきくことにした。いつからそうなったのか(彼曰く、昨日の夕方からだという)。どうやって反トージであるときづいたのか(彼曰く、中体連に向けて素振りをしていたら、バットのグリップが綺麗になっていったから、だとか。グリップにはトージの汗が沁み込んでいて、それが反トージの汗と反応して消えたのだ)。何か生活に支障はないか(彼曰く、不安で死にそうらしい)。


 問題は、反トージがトージと接すると、ふたつが反応して消えてしまうことだ。トージ(といっても今は反トージ)の手は真っ赤になっていた。彼自身は気づいていない、もしくは気づかないふりをしているのかもしれないけれど、きっと昨日素振りをしていた時、かつてのトージの手垢が反トージの皮膚と反応してしまったのだろう。


 わたしは考えた。トージを消させるわけにはいかない。どうしようか、と考えて、すぐに浮かんだのはトカダ先生の顔だった。


「反物質?」


 トカダ先生は唐突なわたしの質問に怪訝な顔をした。けれどすぐに抱えた段ボールを下ろしてわたしに向き直った。


「前に授業で話したのって覚えてるか?」


「ちょっとは。宇宙のはじめのほうに、宇宙を構成してたやつですよね」


「そう、宇宙の初めには、物質と反物質があった。そして今は物質しかない。それが何故であるかは長い間、物理学の分野で大きな謎だった。しかし近年、部分的ではあるがそれにも答えが与えられようとしているんだ。

 従来、物質と反物質は性質こそ真逆であれど、寿命は全く同じだと考えられてきた(CP対称性)。しかし近年の研究――日本の高エネルギー加速器研究機構のBelle検出器による発見により、K中間子と反K中間子の間には寿命の違いが認められたんだ。さらにはB中間子と反B中間子の間にも。物質より反物質のほうが、わずかに寿命が短かった(CP対称性の破れ)。このことが、宇宙の初め、混沌の一瞬に起きた物質と反物質の対生成と対消滅において、反物質だけが消滅し、物質だけが取り残される、という状況を引き起こしたらしい。

 対生成と対消滅――まあ今回おまえが聞きたいのは対消滅の方だったな。物質と反物質が衝突すると対消滅を起こす。物質と反物質がいっぺんに消えてしまうんだ。そしてそれと同時に、9*10000000000000J/1kgのエネルギーが生まれる。本来であればこの対消滅によって、物質と反物質は一緒に消えてしまうはずだった。しかしさっき、先生は物質の方が長生きだと言ったな? それを引き起こすのがニュートリノってやつなんだが、聞いたことあるだろう? ノーベル賞で有名になった、富山と岐阜の県境、神岡にあるスーパーカミオカンデとか。ニュートリノは次元(進行方向)に対して左巻きのらせん状になっているんだぞ。長生きになるのは、このニュートリノが反物質にある細工をするからだ。実はニュートリノは、反物質を物質に変えてしまう。初期宇宙において十億ずつあった物質と反物質の内、一つか二つかの反物質がニュートリノによって物質に代わる。それによってCP対称性が崩れる。ほとんどの物質と反物質が対消滅するなか、転換した元反物質(現在は物質)とあぶれた物質が残り、そして現在おれたちを構成する物質になっているんだ。ちなみに反ニュートリノってのもあって――……」


「はい」


 わたしは頭を下げると、そそくさと理科準備室をあとにした。


 トカダ先生の話を要約すると、物質と反物質はぶつかると大爆発を起こして消える。それを止めるには、反物質にニュートリノをぶつけて物質にしてしまうしかない。なんとなくそんなことは分かった。わたしが探せばいいのはニュートリノだ。一刻も早くそれをトージに伝えてあげたかったけれど、次は体育の授業だった。準備をしなければならない。


 わたしは砲丸を体育倉庫から搬出しながら、一体ニュートリノとはどんなものだろうかと想像していた。左巻きのらせん状だと先生は言っていた。わたしは髪の毛をくるくると指に巻きつける。こんな感じだろうか?


 体育を終え、すっかり疲れ切ったわたしは、トージのところに行くのはお昼にしようと考えた。お昼に彼のクラスに行くと、トージは妙に落ち着きのない様子で友達と喋っており、扉の近くにわたしを認めるとすぐ駆け寄ってくる。


「トージ、トイレ行きたいならちゃんと行った方がいいよ」


「違う、トイレなんて行きたくない」


「違うのか。あのねトカダ先生に聞いたら――」


 そこでわたしは喋るのを止めた。止めざるを得なかった。トージがいきなり、わたしの口に手を当ててきたのだ。


「ちょっと出よう」




 トージとわたしは、階段を上りきったところ――屋上までドアを隔ててあと一歩というところまで来ていた。そこには机がひとつ、椅子がふたつあって、わたしたちはそこでお弁当を広げていた。


「教室でおれが反おれになったことなんて言うなよ」


 というのがトージの言い分だった。それは理解できる。けれどわたしも、トージにトカダ先生の喋ったことを伝えたくてしょうがなかったのだ。


「反物質を物質にするにはニュートリノをぶつければいいんだって」


「ニュートリノって?」


「スーパーカミオカンデにあるやつ」


「なにそれ」


「岐阜」


「そこまで行かなきゃなんないの?」


「いやあ、それは嫌だよ」


 わたしは笑った。「遠いもん」


 トージは「じゃあどうすればいいんだよ」


「近くでニュートリノを捜そう。ニュートリノって、左巻きのらせん状してるんだって」


 わたしはお弁当に入れられていたマカロニをつまんでみる。くるくるとしたバネみたいな形で、マヨネーズとジャガイモの潰したやつがくっ付いている。


「ほらこれも左巻きのらせん状だよ、ニュートリノかも」


 わたしはトージを、そのらせんの中心にある穴から覗いてみた。トージは呆れた顔をして


「それは右巻きだろ」


 わたしは首をひねって、マカロニを食べた。マカロニは左巻きだと思うけれど、トージが言うなら、これは右なのだろう。右巻きを与えるのはまずい気がする。それじゃ反ニュートリノだ。だからやめた。




 放課後、わたしとトージは二人でニュートリノを探しに出た。わたしは使命感に燃えていた。だってトージに爆発してほしくない。トージには、物質と反物質がぶつかると大爆発を起こす、ということは教えていなかった。無駄に彼を怖がらせることはない。


 街に出ると、周囲には沢山の左巻き、ニュートリノ候補があった。カタツムリのカラ。朝顔のつる。落ちていたばね。荒縄。パン屋で見つけたチョココロネ。そしてここからは惜しくも右巻きなのだけれど、ねじ、床屋のくるくる、右巻さんという苗字の表札、トージのつむじ。トージのつむじは元々左巻きのはずだったけれど、反トージになったためか右巻きだった。


 左巻きはすべてトージに触ってもらった。けれどどれも、彼を反トージからトージに戻す事は無かった。右巻きのものは、危なそうだから触らせなかった。


「なかなか無いね」


 言ってわたしは紙コップを引き寄せた。その紙コップには赤と黄色でおおきくMの字が書かれていて、まあつまりわたしたちはマックに来ている。紙コップに入っているのは冷たいマックシェイク(いちご)。正面に座るトージは何も頼まず、ただ不機嫌そうに口をとがらせてわたしから目を逸らしていた。


「なんで何にも頼まないの?」


「別に」


「お金無いの?」


「別に」


 わたしはストローに口をつけてマックシェイクを吸った。ごごごと存外恐ろしげな音がした。見下ろせばストローの曲がった首の部分がぎざぎざである。これはもしやと思ったけれど、そこはらせん状ではなかった。


「らせんじゃないのかあ」


 わたしはひとりごちた。そしたら突然、舌打ちが聞こえた。


 驚いてトージを見返す。


 トージは相変わらず、わたしから目を逸らしている。


 だから構わず、もう一度マックシェイクを飲んだら、今度ははっきり、トージが舌打ちをした。


 いらっとした。


「なんなの?」


「別に」


「なにその江尻みたいなセリフ、トージ変だよ」


「……そりゃそうだろうよ」


「え?」


 同時にがたりという音がした。何かと思ったら、さっきまでトージが座っていた椅子が倒れている。トージは立ち上がって、テーブルに手をついていた。そして叫んだ。


「そりゃあ変だろうよ! なんたっておれ、反おれだもんな!」


 およそ聞いたことのないような大声だった。周りのお客さんはみんなわたしたちを、驚きの表情でもって見ていた。わたしはストローを噛んだまま少しの間固まっていた。けれど


「ちょっと、周りに人いるんだよ」


「知ってるよ! けどな、お前にとっては世間体とか気にすることかもしれないけどな、おれにとってこの問題はめちゃくちゃ大変なんだよ! カタツムリとか探してる場合じゃないっての! もっと真剣に、もっとまじめにニュートリノ探したいんだよ!」


「なにそれ、わたしがまじめじゃないみたいじゃん」


「まじめじゃねえじゃん! おまえはチョココロネとか食いたかっただけじゃん!」


 わたしは憤慨した。


「まじめだよ! だってわたし、トージに大爆発してほしくない!」


「大爆発?」


 はっとしてわたしは口をつぐんだ。けれどトージがそれを見逃すことはなかった。


「どういうことだよ大爆発って、おれが大爆発するのかよ」


「ち、違うよ言い間違いだよ、あれだよ……」


「どれだよ」


「その……」


 わたしは答えに窮した。トージは怒って出ていった。




 わたしはがらにもなく動揺していた。トージが怒ってしまった。そればかりか、トージは一人でニュートリノを探し出すだろう。けれどトージが一人で何かをできるとは思い難く、このままではトージは、いつか何かの拍子に大爆発を起こして消え去ってしまう。そんなことを考えるだけで、ワイシャツの胸ポケットのあたりがもごもごと蠢きだしたような気さえした。次第にそれは大きくなり、ポケットを破裂させるのだ。


 わたしはトージに電話した。けれど彼は出なかった。メールもした。返信は無い。家まで押しかけまるでストーカーじみたことまでしたけれど、結局トージは現れない。


 わたしは呆然として次の朝を迎える。いつもみたいに、昨日みたいに支度をして家を出る。けれど門扉の向こうにトージの姿はない。学校について、トージのクラスにまで行ってみてもトージはいなかった。だからわたしは仕方なく、自分の教室で静かに授業を受けた。




 三時間目だった。わたしは数学の授業を聞き流しながら、ふと窓の外を眺めてみた。雲は高く、地平線を覆う山々の頭を隠すように伸びている。今日も太陽がぎんぎんと地面を焼き、きっと自転車のサドルを溶かすのだろう。わたしは夏の夏であることに辟易した。自然と視線が下りて行き、そしたら偶然トージを見つけた。


 トージは、誰か知らない女の子と一緒に歩いていた。


 そしてそれを見た瞬間、うっと胸にこみ上げるものがあった。そして非常な威力で打ち出される。立ち上がり、先生の静止も聞かずに教室を抜け出し、廊下を駆け、階段を飛び降り、靴も履かずに外に出た。


 サドルを溶かす熱気。


 目の前に広がるグラウンドをもやもやとくゆらせる。


 その中にトージの姿がある。そして当然、女子生徒の影も。


 女子生徒。


 女子生徒は髪の毛をくるくるとねじっていて、それは俗に縦ロールというやつだった。わたしはそれを見てすぐ、トージの考えていることが想像できた。見方によっては、縦ロールはらせん状をしているのだ。おそらくトージは一人でニュートリノを探し、その過程で彼女を見つけたのだろう。縦ロールの、左巻きらせん状の彼女。けれど、それはどうしようもなく勘違いなのだった。


 わたしは二人のいるグラウンドへと駆ける。


 以前、わたしが左巻きだと言ったマカロニを、トージは右巻きだと言ったことがあった。その左右の食い違いは、決してトージが右巻きと左巻きとを分かっていないばかだからじゃあない。ただ単に、そうなのだ、わたしが左巻きだと思ったマカロニを、向こうから覗いたトージが右巻きだと言ったように、らせんの右巻き左巻きは、覗き込む方向によって逆になる!


 トージはかの縦ロールを左巻きだと勘違いしているけれど、教室から見下ろした時、それは確かに右巻きをしていた。だめだトージ、それは決してニュートリノなんかじゃあない――。


 胸ポケットが今にもはちきれんばかりに膨らむ。


 わたしは叫んだ。


「トージ!」


 校庭に立ったトージが振り返る。そして変な高笑いをした。


「なんだよ今頃! おれはもう左巻きを手に入れたぞ!」


「それ左巻きじゃないよ!」


「そんなこと言って惑わそうとしても無駄! トナカさんは左巻きだ!」


 わたしはほぞを噛んだ。トナカさんは左巻き? わたしだってつむじくらいなら左巻きだっての。全速力でわたしは走り、急速にトージとの間を詰めていく。トージはそのトナカさんとかいうのに一礼して、それからその縦ロールに手を伸ばす。


「だからだめだって!」


 トージがまがい物のニュートリノに触れる直前、わたしは水泳でもしないようなダイビングで、トージの胸に抱きついた。鼻を打ち顎を打ち、トージの身体が傾いでいくのが妙にゆっくりと感じられた。わたしの全身がトージに触れて、そしたら、胸元で何かが割れた。


 すわ対消滅か――。そう思ったけれど、違った。わたしの胸元、正確には左の胸ポケット。それがわたしとトージに挟まれて破裂していた。そしてポケットから押し出されるように、細長いものが漏れ出ていた。わたしが隙間を作ってやると、とたんに飛び出す。どんどんと、絶え間なく、まるでビルとビルの間から、いきなり鳩の大群が飛び出すみたいに。


 わたしは驚いて顔をそらした。びちびちと水っ気のあるものが身を打ちつける音が続き、わたしの頬にもその飛び出したものが当たった。指先程度の大きさで、妙に生ぬるい。驚きの余り口を開いていたからか、やにわにその一つが舌の上へと踊り込んだ。小さく呻き、吐き出すと、それはマカロニだった。


 まわりを見渡す。トージはわたしに倒され、グラウンドに頭をつけて伸びている。そしてわたしたちの周囲を、沢山の光り輝くマカロニが取り囲んで浮遊していた。それは軽やかで、どんな物理現象がかかっているのか皆目見当つかない。一つ一つが太陽の光を乱反射させ、まわりはどんな夏よりも輝いていた。そしてそれらはよく見れば、どれをとっても左巻きなのだ。わたしは直観した。これこそがニュートリノだ!


 手の中にあるマカロニを見下ろす。一人意を決め、トージの口にマカロニを入れる。すると周囲を浮遊していたマカロニが一斉にトージの口に向かって殺到した。その光景に圧倒され、わたしはただ、熱い校庭に座り込んでいた――。


     ○


 朝ごはんを食べ支度をし家を出ると、門扉のところにトージがいた。彼はばつの悪そうな顔をして


「よう」


「おはよう」


 にっと笑ってわたしは返す。


 トージは中体連に向けて練習が忙しくなるのか、カバンのほかに練習道具を背負って登校していた。その中にはもちろんバットだってある。


「もう素振りできるの?」


「うん、まあ……。ありがとな」


 トージは不意にお礼を言った。丁寧に頭まで下げて、おかげで頭頂部のつむじが見える。


 トージのつむじは左巻きだった。反トージだったころ右巻きだったそれは、綺麗に方向を反転させている。


 わたしはもう一度笑んで、トージのつむじをぐいぐいと親指で押したのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る