第88話 だから勝手に決めないでください

 エドワードが無言で出て行ったあと、しばし茫然ぼうぜんとしていたミリアだったが、徐々に怒りが込み上げてきた。


 なんなのだ。リクエストしておいて。勝手に怒って勝手にいなくなってしまった。思っていたのと違ったということか。失礼な。


 名前を呼んだだけだ。どんだけ大きな期待をしていたのか。もう二度と呼ぶものか。


 ミリアは名前の呼び方について大して思い入れはない。平民は短縮して愛称で呼ぶのが普通だからである。デフォルト家名、名前すら許しを得ないと呼べない貴族は本当に面倒くさい。


 エドワードがすぐにいなくなってしまったので、お茶とケーキはほとんど残っていた。


 甘いケーキを食べると幸せな気分になる。怒っているのはもったいないな、とミリアは機嫌を直した。


 ところでこの食器は誰が下げてくれるんだろうと思っていたら、王宮の侍女がすっと入ってきて持って行った。


 今朝も起きたタイミングで着替えを持ってきてくれたし、監視カメラでもついているんじゃないかと疑いたくなるほどタイムリーである。天井裏の見張りとうちょうきくらいはあるのかもしれない。


 小腹が満たされて、またもぼーっとしていたミリアだったが、ノックの音で覚醒する。


 今度来たのはギルバートだった。


「ギルっ!」

「ミリア。調子はどう? 困っていることはない?」


 ギルバートが両腕を広げたので、ミリアは迷うことなく抱きついた。ギルバートの肩までの髪が、ミリアの耳をくすぐった。


 ……なんだかハグしてばかりのような気がする。


「大丈夫だよ。着替えも持ってきてもらえたし」


 ミリアは苦笑しながらギルバートから離れた。昨夜ちゃんと湯あみもしたから今日は汗くさかったりしないはずだ。


「今いい? これ持ってきたんだ」


 ギルバートがふところから取り出したのはクッキーだった。包装からしてミリアの好きなピア・ミルキのものだ。


「ミリアが好きだって聞いたから」


 ギルバートと一緒に何かを食べるのは初めてだ。どこから知ったのだろう。エドワードだろうか。


「お茶の用意はないんだけど」

「え? いいよ、ぜんぜん」


 ギルバートは使用人を連れていなかった。第一王子と二人きりでいていいのだろうか。昨日アルフォンスとほぼ二人だったのだから今更ではあるが。


 ミリアは水差しから水を用意して銀のカップに注いだ。変色したりしたら怖いな、と一瞬思って苦笑した。ここで第一王子ギルバートが倒れたら大変なことになる。


 ミリアがギルバートの向かいに座ると、ギルバートはミリアの横に座り直した。


「どうしたの?」

「ミリア、大事な話があるんだ」


 ギルバートはミリアの手を取り、真剣な顔でミリアを見た。


 ミリアがごくりと喉を鳴らす。


 有罪の確定だと思った。


 ギルバートはソファから滑り降り、その場にひざまずいた。


「え? ちょ、ちょっとギル、やめてよ。何?」


 第一王子にひざまずかれるとか意味が分からない。力が及ばなかったことへの謝罪? 


「ミリア、僕の妃になってくれないだろうか」

「へ?」


 きさき? きさきって、妃?


「どうして……」

「好きなんだ。ミリアが僕を友人としか思っていないのは知ってる。それでもいいから、そばにいて欲しい。妃として僕の隣に立って欲しいんだ」

「ええと……?」


 何を言っているのか理解できない。


 ミリアだってギルバートのことは好きだ。だけどギルバートの熱を持った目は、そういう意味ではないことを物語っていた。


「どうして」

「好きなんだ」


 繰り返された問いは無意味で、答えが繰り返されただけだった。


「ごめん、ちょっと、整理できない」

「うん。わかってる。でも今答えが欲しい。ミリアが断れば僕はもう二度と言わない。ミリアの良き友人に戻るよ。だけど、どうか良い返事をくれないか。ミリアと一緒にいたいんだ」


 今すぐに、と言われても、頭が全然回らない。何も考えられない。


「今ここでは無理だよ。全然考えられない。私、ギルのことは本当に友達だと思っていて、それに、王子サマの奥さんなんて、何していいかわからないもの」

「ミリアが嫌なら茶会や夜会に出たりしなくていい。僕の横で一緒にエドを支えていって欲しいんだ。僕が望むのはそれだけ」

「エドワード様を……」


 ちくりとミリアの心が痛んだ。


 アルフォンスがギルバートはミリアを評価してくれていると言っていた。だから結婚したいというのか。必要としてくれるのは嬉しい。けど、打算で求婚されるのは嫌だった。


 真実の愛なんて存在しないけど、少なくとも結婚する人にはミリアを想っていて欲しい。


「子どもも……嫌ならしなくていい。他に産ませるから」


 決定打だった。


 ミリアは手を振りほどいて立ち上がった。


「絶対嫌。ギルとは結婚しない。友達のままでいて。あと今すぐ出てって」


 ギルバートは傷ついた顔をした。


「わかった。変なことを言ってごめん」


 寂しそうに笑い、ギルバートは出て行った。


 信じられない。


 他に産ませる? 求婚の場でそんなこと言う?


 第一王子という立場なら、王族の血が断絶しないように、子どもを作らないといけないのは理解できる。だけど、他の女と子作りすることを前提としてもいい、と今言うか?


 ギルバートとそういうことをするのは想像したこともなかったが、結婚するからにはする。日本ではセックスレスは離婚の事由になるほどだ。そもそもできないなら王子との結婚には踏み切らない。


 子どもが欲しくない。そういうことをしたくない。けど結婚はしたいという人はいるだろう。そこは二人で話し合えばいいことだ。努力しても授からない人だっている。


 ギルバートは話し合いの余地があると示したのだ。


 だけど少なくとも、ミリアが言い出してから、解決策としての提案であって欲しかった。


 しょせんギルバートも王族でしかないのだと思った。利益しか見ていない。ミリアの心が欲しいとは思ってくれないのだ。





*****


 エドワードに開放されて再びミリアの部屋の前に来たアルフォンスは、まさにその目的の場所からギルバートが出てくるのを目撃した。


「ギルバート殿下。ミリア嬢に伝えに来られたんですか」

「カリアードか。……いや、進捗のことならまだ伝えていない」

「ではなぜここに?」

「話は執務室でしよう」


 またか、と思った。だが拒否することはできない。




 執務席に座ったギルバートはアルフォンスを前に立たせたまましばらく何も言わなかった。


「ミリアに求婚した」


 アルフォンスは目を丸くした。


「それでミリア嬢は」

「フラれた」

「それは――」


 ご愁傷様です、と言っていいものか迷って言葉を濁した。


「馬鹿なことを言った」

「求婚ですか?」

「それもあるが、子どもを作りたくなければ他で産ませると言った」


 ギルバートは机に肘をついて項垂うなだれた。


 それは駄目だ。ミリアは絶対に受け入れないだろう。ギルバートもわかっていたと思うのだが。


「焦ったんだ。ミリアがそれを理由に断るのではないかと。断られるつもりで求婚したんだが」

「どうしてそんな急なことをしたんです」

「エドが、もしもローズの婚約が解消するようなことになれば、ミリアと婚約をすると言って来た」


 さっきのあれか、と思った。


「それもミリア嬢は断ると思いますが」

「いいや、王太子としてスタイン男爵に話を通すのだそうだ。ミリアに拒否権はない。正直エドがそこまでミリアを欲しているとは思っていなかった。かすめ取られると思ったら居てもたってもいられなかった。ただ側にいて欲しかっただけなのに」

「そもそもローズ嬢との婚約が解消されるようなことは起こり得ません」


 皇子クリスティーナの後ろ盾があるなら別かもしれないが、とエドワードとの会話を思い出していた。


「嫌な予感がするんだ。ミリアの嫌がらせ、今回のスタイン商会の罪の捏造ねつぞう。エドの正妃はローズだと正式な発表はあったが、ミリアが側妃になる可能性もある。ミリアが後継者を産めば国母となるだろう。ハロルド侯爵が脅威と考えたのかもしれない」

「侯爵はそこまで浅慮ではないでしょう」


 まだ黒幕は明らかになっていない。


「そう、なのだがな……」


 とにかく、とギルバートは首を振った。


「僕はフラれた。ミリアとは友人関係を続けていくつもりだ。万が一ミリアが正妃となれば、我が国に大きな利益をもたらすだろう。エドはユーフェンよりも誠実だ。だが、側妃という立場はミリアには危うい。エドの正妃にならないのなら、予定通りユーフェン家に嫁がせる」


 ミリアの了解を得ていないわけだが、アルフォンスは口に出さなかった。ギルバートがそうすると言ったのなら、恐らくジョセフと結婚することになるからだ。ミリアの意に反することになったとしても。


 アルフォンスは、自分は帝国に行くときにミリアを連れて行ければいいのに、と思った。

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