第29話 友達ならなってもいいです side ジョセフ

 放課後、ジョセフは全てをアルフォンスに託してサロンの星の間にいた。


 移動中にサロンを利用する生徒に出くわさないよう、配慮した部屋を選んだ。ミリアのために用意したケーキは十種類。小さく切って出すように言ってある。紅茶は甘いクリームに舌が負けないよう、香りがさわやかで少し渋みのあるものにした。


 髪をセットし直し、服装も少し変えた。できることなら正装したいところだったが、大仰おおぎょうにするとミリアは嫌がるだろう。ジョセフを見た途端に逃げ出しかねない。


 まずは謝罪だ。アルフォンスからミリアは嫌ではなかったと聞いて舞い上がってしまったが、本心ではないのかもしれないし、ジョセフを許すかどうかは別の話だ。ミリアならすぐに許してくれそうでもあったし、逆に何をしても梨のつぶてになりそうでもあった。


 アルフォンスはとっくにミリアに伝えてくれたはずだ。今日は来てくれないのだろうか。それとも金輪際近づくなと返されただろうか。アルフォンスと一緒でいいから来て欲しい。せめて謝罪だけはしたい。


 中央のテーブルで悶々もんもんとしていると、ノックの音と共にミリアの到着が告げられ、外から扉が開いた。


 ジョセフは反射的に立ち上がった。感嘆を上げたミリアが部屋の内装を見回しながら入ってくる。アルフォンスはいない。


 一人で来てくれた。


「ミリア嬢……」

「ジョセフ様、お招きありがとうございます」


 たまらず名を呼ぶと、ミリアはアルフォンス監修の見事な礼を見せた。


 普段通りの笑顔にほっとするのもつかの間、案内をした使用人が入室せずに扉を閉めると、ミリアの動きが止まった。ジョセフが迎えようと足を踏み出すのに合わせ、強張った顔で後ずさってしまう。


 使用人を下がらせるのではなかった、と後悔した。ミリアは人を使うことに慣れていないから、二人での茶会を受けてくれたのなら居ない方が気が楽かと思ったのだ。


 だが、何もしない、と告げると、驚いただけだ、と言ってミリアはジョセフの前まで歩いてきた。おびえている様子はない。


 目の前に来たときに、ジョセフは深く頭を下げた。


「申し訳なかった! 先日、ミリア嬢に働いた無礼をどうか許してほしい。もう二度とミリア嬢の許しなしに触れたりしないと誓う」

「私、一度だけって言いましたよね」


 冷ややかな声だ。入室したときの明るさとは大違いだった。肩を組み、許しをもらったときに、確かにミリアは今回だけと言っていた。


「……申し訳ない!」


 はあ、とミリアがため息をついた。


 目の前が真っ暗に染まっていく。ミリアのドレスのすその色がわからなくなってきた。許してもらえないことは覚悟していたはずなのに、拒絶の言葉を聞くのがこんなにも怖い。こぶしを握りしめ、長い沈黙に耐えた。


「ジョセフ様、頭を上げて下さい。許すも何も、私怒ってはいないです」

「そんなわけには……!」


 ミリアの声が幾分か軟らかくなった。しかし、言葉通りに受け取るわけにはいかない。怒りの感情がないわけがないのだから。


「じゃあ、代わりに何か美味しいものを食べさせて下さい。そうですね……ピアミルキのクッキーを全種類。それで許してあげます」

「本当に!?」


 ジョセフはがばっと体を起こした。

 ミリアが物をねだるのは非常に珍しい。詫びの品にお菓子を指定されたのなら、それは本当に許す気があるということだろう。


「はい。三十種類はありますよ」

「店ごと贈るよ」

「いや、それはちょっと……。一枚ずつでいいですから」

「わかった」


 笑いを含んだ声で言われて気が抜けた。クッキーの三十種類がなんだというのだ。その程度ではジョセフの気が済まなかった。店を丸ごと買って、ミリアの好きなときに好きな味を好きなだけ作らせるくらいのことはしたかった。だが、困り顔で断られ、ミリアがその気になればスタイン商会の財力を持って系列店に加え、会長の娘権限で同じことができるな、と考えて思い直した。


 しかし、あの仕打ちに対してクッキー三十枚……あまりにもチョロ……寛容すぎないだろうか。平民の感覚で言えばわからなくはないが……。ジョセフはミリアの貞操観念が心配になり、自分が守らねばと決意を新たにする。


 ミリアは、ジョセフの行動そのものよりも、それによって引き起こされたエドワードの暴走と噂の方が迷惑だと言った。ここまでくるとミリアも流言の中身を気にしているらしい。


「私が……その、ジョセフ様をたぶらかした……なんて言われてて!」


 たぶらかした、という言い方は正しくない。結果的にミリアに恋に落ちたことには変わりないが、ミリアから仕掛けたのか、ジョセフが勝手に好きになったのかは大きく異なる。その違いは、ミリアにその気がなかったということを表していた。


 その後に続いたミリアの言葉が、今もなおその気が全くないことをジョセフに突きつけた。


「ちゃんとマリアンヌ様と仲良くしててくれないと。マリアンヌ様、ショックで寝込んでるって言うじゃないですか。マリアンヌ様には許してもらったんですよね? 婚約者なんだから大事にしてあげて下さい」


 好きな女性に他の女性との関係を心配され、良好に保てと叱られるなど、これほど情けなく悲しいことがあるだろうか。


「ミリア嬢……もう一つ、聞いてもらいたいことがあるんだ」

「何です? 私、マリアンヌ様の好きな物なんて聞かれても答えられないですよ。聞くならローズ様かリリエント様でしょう。お菓子を贈るつもりなら、多少は相談に乗れるかもしれませんが……それでも最新情報なら侍女さんたちの方が詳しいと思います」


 真剣に切り出したつもりなのだが、またも他の女性マリアンヌのことを持ち出された。ジョセフのことを考えてくれている優しさは嬉しいが、無邪気さは罪だ。


「違う」


 首を振ってミリアに一歩近づく。


「手に触れても?」


 許しなく触れないと誓ったので、許可を求めた。距離を詰められて上半身を引いたミリアは、思わず、といったようにうなずいた。


 ジョセフはミリアの片手を取り、ひざまずいた。


「ちょ、ちょっと、何なんですか、急に!」


 ミリアのピンク色の目を見つめた。驚きで瞳が揺れていた。ミリアの手は温かく、緊張で冷たくなったジョセフの手にじんわりと体温が移ってくる。この小さな手を守りたい。できれば自分の手で。


 ジョセフは言葉を区切り、はっきりと告げた。


「ミリア嬢、好きだ。交際を申し込みたい」


 ミリアはきょとんとした顔をした。すぐにジョセフの言葉の意味が浸透したのか、目を大きく開けて息を吸う。


「ジョセフ様!? 何を言って……」


 驚いた声は、しかしすぐに尻すぼみになる。上がっていた目蓋まぶたが下り、半眼になった目がジョセフを見下ろした。


「マリアンヌ様はどうするおつもりですか?」


 視線に怒気と軽蔑が含まれている。ミリアの体からゆらりと冷気が立ち上っているように思えた。未だかつてないほどに激怒しているのがわかった。これがジョセフの抱擁ほうように向けられたものでなかったことに心の底から感謝した。


「マリアンヌとの婚約は解消した」


 声が震えないように注意して、ゆっくりと発声した。不誠実なことはしていない――この件に限っては。これでミリアの怒りは収まるはずだ。


「嘘でしょう!?」


 ミリアは再び大きくした目でぱちぱちと瞬きをして、一拍置いてから叫んだ。怒気が霧散したのがわかった。


「本当だ。両家の了承のもと、正式に解消した」

「何やってるんですか! なんでそんなことっ!」

「ミリア嬢が好きだからだ。マリアンヌとは婚約を続けられない」

「そんな簡単に! 貴族ですよね!? 好きとか嫌いとかじゃないじゃないですか! それに、マリアンヌ様にひどいと思わないんですか!? 相手が男爵家だからって、そんな横暴許されるわけないでしょう!?」

「わかっている!」

「わかってない!」


 仕方ないだろう。だってミリアが好きなのだ。こうしなければ本気だとわかってもらえない。


 愛を告白した本人になじられることがつらかった。


「ごめんなさい……」

「いや、いいんだ。突然こんなこと言ってごめん。でも俺は、本当にミリア嬢のことが好きなんだ。できることなら結婚を申し込みたい。だけどミリア嬢は急には考えられないだろ? だから、俺という人間をもっと知って欲しい。そのために、ミリア嬢の隣にいる権利をくれないか」


 急すぎることはわかっている。マリアンヌと婚約を解消した後、時間を置いてから告白できればよかった。だが卒業まで残り五ヶ月を切っている。悠長なことは言っていられない。


 なによりこの想いを抱えてはいられなかった。ミリアに伝えたかったのだ。本気だとわかってもらうためなら何度でも言う。


 ミリアの顔がくもった。困惑と焦燥となぜか後悔が見て取れる。狼狽うろたえる視線をさまよわせ、唇をかんでいた。


 そんな顔をしないで欲しい。困らせたかったわけではない。それともギルバートのことを考えているのだろうか。

 

 自分に意識を戻して欲しくて、ジョセフはつかんだままのミリアの指先に軽く口づけを落とした。


 唇が触れた瞬間に、ミリアがばっと手を引いた。エドワードには長く許したのに、自分は拒絶されたことにわずかに胸が痛んだ。


 ミリアの顔が真っ赤になった。怒らせた、と思っても遅かった。キスを落とすのは触れる許可に含まれていなかったに違いない。誓ったそばからこれだ。自分は最低のクズ野郎だ。ジョセフはミリアに逃げられた手を胸に握り込んだ。


 謝罪を口にしようとしたが、ミリアの様子がおかしかった。きゅっと口を引き結び、下がった眉の下で涙で濡れたように目がうるんでいる。


 その表情にぐっときた。ぐわっと頭に血が上る。


 抱きしめたい。


 立ち上がり、思わずミリアに手を伸ばすと、ミリアが一歩逃げた。濡れた目でジョセフを見上げ、いやいやをするように首を緩く振っている。


 その仕草にさらにあおられたが、ジョセフは目をつぶり、体に力を入れて衝動を抑えた。これ以上愚行を重ねるわけにはいかない。


 許可だ。許可が必要だ。


「ミリア嬢、その……抱き締めても?」

「っ、ダメですっ!」


 即行で却下された。

 当たり前だ。


 何を馬鹿なことを言っているのだと、頭をかきむしって自分を罵倒してやりたかった。


「まだ返事ももらっていないのにごめん。ミリア嬢が、あまりにもかわいくて……」


 情けない言い訳だった。


 仕切り直すようにミリアの目を見る。


「返事をもらいたい。俺の、恋人になってくれないだろうか?」

「……ごめんなさい」


 ミリアがちょこんと頭を下げた。


 正直、はっきりと断られてほっとした。想定内だ。今のミリアはジョセフのことを好きではない。ギルバートだっているのだ。これで意識してもらえればおんだった。時間がある限り諦めるつもりはない。


「エドの事が好きなのか?」

「それはありません」


 いきなりギルバートのことを聞くには勇気が足りず、まずは乳母兄弟を持ち出した。食い気味の返答だった。あわれ、エドワード。


「なら、他に好きな人がいる?」

「いませんけど……」


 よっしゃーっ! と心の中で叫んだ。ギルバートのことはまたジョセフの早合点だったのかもしれない。香りの謎はあるが、想い人がいないという返答を信じよう。ああ、今すぐミリアの首に顔をうずめて香りの有無を確かめたい。


 もちろんそんな心の内は顔にはおくびにも出さない。


 攻める。攻めるしかない。


 ミリアの顔色をうかがいながら、落とし所を探っていく。ミリアの寛容さに付け入るのは気が引けるが、ここは押すところだ。


「試しに……というのは、ミリア嬢に対して失礼か」

「……そうですね」

「ミリア嬢は、俺のことを嫌っているわけではないんだよな?」

「まあ」

「なら、俺にもまだチャンスはあるわけだ」

「……」


 無言で困った顔を向けられる。可能性は低いことを示しているが、裏返せば、なくはないということでもある。好感度どん底からの再スタートかと思いきや、ジョセフは思っていた以上にミリアに良く思われているらしい。


「ミリア、と呼んでもいいだろうか。俺のことはジェフと呼んでくれると嬉しい」

「だめです。私も呼びません」


 ギルバートには許していたから行けるかと思ったが、拒否された。やはりギルバートは恋人特別なのか。大切な友人とやらの差か。


 しかし、その理由は目立ちたくないからだとミリアが説明した。呼び捨てと愛称はよっぽど親しくなければ許されないが、嫌だとか、そこまで親しくないという理由でないことに内心喝采かっさいを上げた。


「二人きりの時はミリアと呼んでも?」

「まあ……二人のときだけなら。人前でうっかり言ったりしないで下さいね」

「ミリアもジェフって呼んで欲しい」

「そのとき覚えていれば」


 許可が出た。元平民ゆえの気軽さだろうが、笑顔が緩みすぎないよう、ほどよく引き締めるのに苦労する。アルフォンスに気持ち悪いと言われた顔をミリアにさらすわけにはいかない。自分ではだらしなくとも気持ち悪くはないと思うのだが。いや、だらしない顔もさらせない。


 ミリアは嫌なそぶりを見せない。このまま平民の友人に許されるところまでは押し切りたい。


「口調も変えて」

「……要求が多すぎませんか?」

「まずは友達からっていう言葉があるんだろ? よろしく、ミリア」


 ジョセフは握手をするように手を差し出した。


「私、気持ちにこたえられるかわかりませんよ」

「わからないってだけで十分」


 にこりと笑うと、ミリアは面倒くさそうにジョセフを見て、弟をなだめる姉のような顔をした。


「……ああ、もうっ! 友達ですよ?」

「よろしく、ミリア」

「よろしくね、ジェフ」


 ミリアの小さな手はしっかりとジョセフの手を握った。ジェフ、と呼ばれたジョセフが身悶みもだええを耐えていることなど知らずに。


 


 その後始まった茶会は大成功だった。


 量より種類を優先したデザートにミリアは大満足してくれた。特に美味しかった三つを聞き出し、今後の参考とする。エドワードのように手当たり次第に与えればいいというものではない。


 くだけた口調で話すミリアはいつもより楽しそうだった。平民の価値観がわかるジョセフとは話が合う。女性は話の途中でころころと話題を変えるものだが、ジョセフは慣れていたし、ミリアのそれについていくのは楽しかった。


 謝罪を受け入れてもらっただけでなく、友人の地位まで確立してしまった。想定外の成果だ。ミリアは押しに弱そうだ。このままジョセフの想いをぶつけ続け、押して押して押す。友人という地位を可能な限り活用して、ミリアの心を傾かせる。


 ほほを染めてはにかんだミリアが、ジェフ、と呼ぶのを想像して、ジョセフは体を熱くした。

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