10.4 「あれは、聖痕だ」

 細かくなって崩れた部分は残像を伴い、軌跡からなる複雑な流線形の集まる一点へと集約してゆき、その一点から裏へ回ってまた別の空間へと広がってゆく。

 断片的な記憶が、その高次の空間を去来する。


(なんだこれは……)


 ミランダはきょろきょろするが、もはや自分が上を見ているのか右を見ているのかも、はっきりしない。

 どの方向にも自分がいて、どの方向の自分とも目線が合うことはない。


(おい! どうなってる! ここはどこだ! クック! クック=ロビン!)


 断片的な、クック=ロビンの記憶が見えた。

 フラッシュバックだ。

 記憶の中で更に記憶が――雪景色を塗り潰す雪崩なだれのように流れ込んでくる。

 ある時は桟橋。

 ある時は船の上。

 ある時は海の中。

 ある時は――洞窟?

 この大男は誰だ?

 この小柄な女は?

 この老境の男は――。

 これは――足? これが? 人間の足だと?

 またある小男には、羽が生えているではないか。

 そしてまたある時――僧形の男が話しかけてくる。


『真実を見せてくれさえすればよいのだ』


 これは。


『私は無欲のソウィユノ』


 ミラ自身の記憶がうずく。

 見たことがある、知っているぞ、とミラは思う。


(なんで、なんであたいの記憶が混じってる――?)


『君に頼みたいことがある』


 違和感があった。

 ミランダは、こんなことを言われた記憶がない。

 場所も、どうやらあの宿無亭やどなしていではないようだ。


『――君の記憶――』


 何を言っているのかは判らない。

 ソウィユノがこちらの眼を覗き込む。


『――永遠にでは――君への罰――』


 全身が総毛立つ。

 見たくない。この男の顔を見たくない。

 ソウィユノは、古い船の扉の前に立って、クック=ロビンに話しかける。


『現在と過去――この扉の封印が破られるまで』


 ――この扉の封印が破られるまで。

 クック=ロビンは目を見開いた。


 そうだ、思い出した――。


 が気付いたのは海岸の岩場だ。

 ここはおかしな高次空間でもなければ、洪水のようなフラッシュバックの中でもない。

 冷たく、硬い岩の上。

 ぎざぎざとした溶岩結晶の上では、何ものすら生きてゆけない。原生生命の絶える場所だ。

 ぜえぜえと自分の呼吸音が聞こえる。

 風の音が低く長く響いた。


(クック、大丈夫か。しっかりしろ)


 ミラの呼びかけに、クック=ロビンは応える。


(ミランダ。大丈夫。思い出した。思い出したんだ)


 傍らに、あの男がいる。

 男の顔が見えた。

 その顔、手、足の右半分に黒いつた――アラベスクパターンのような、幾何学的な、有機的な――模様が入っている。


(刺青――? いや、これは、違う)

(ああ、あのお方が、助けにきてくださった)


 男の右目。

 その眼球内部にさえ、模様は及んでいた。

 男は、クック=ロビンを見下ろし、無表情のまま掌を向けた。

 眼。

 掌には、手首側から伸びたアラベスクパターンが、黒い眼のようになっている。


(――こいつが、勇者の指導者)

(スティグマ)


 聖痕スティグマ

 そう思ったとき、ミランダの足を、足元の岩場に倒れたクック=ロビンが強く掴んだ。

 ヒッ――本能的に、彼女は怯える。

 違う。

 これは今までのクック=ロビンとは違う。


「サー・ミランダ・ヘイムワース、ジェイクス・ジャン・バルゼン、ノヴェル・メーンハイム」


 クック=ロビンが、そう言った。

 それは、彼ではない。彼であって、彼ではない。

 読まれた――とミラは戦慄する。

 ソウィユノがフラッシュバックした。


『これから君の記憶を消す』

『永遠にではない。くまでこれは一時的な措置だ。君への罰でもあるのだ』

『現在と過去、君の記憶はここへ閉じ込めておく。この扉の封印が破られるまでだ』

『何者か、我らに害為す者があのお方を探ろうとすれば君に辿り着く。カナリアだよ。それが何時いつかは判らない。大丈夫、君は現在過去の記憶を失うが、いずれは戻る。そのときはまた尽力してもらうぞ――』


 ソウィユノは、クック=ロビンの眼をこじ開けて、不敵に笑う。


『――高潔のオーシュよ。海と、あのお方の寵愛をけし者よ』



***



 ボーーーーーーー、と低音が大音量で響き、ノヴェルは思わず耳を塞いだ。

 ウウゥオオオォォ、とやはり獣みた低い咆哮が続く。

 低い、などというものではない。

 低く聞こえる瞬間もあるが、大部分は空気の疎密の蠕動ぜんどう、強烈な圧迫感として認識される音波だ。

 ノヴェルは、目の前で起きていることが理解できなかった。

 音の出所は白い異形の男。ミラと共に倒れていた男だ。

 それが目を開け、気付くや否や咆え始めたのだ。

 耳を塞いでもその音波から逃れることはできず、ノヴェルはただ膝をついて、辺りを見渡した。

 洋上の船旅で一度聞いた音だ。

 ――船の汽笛? 海鳴り?

 そのどれでもない。

 これは――。



***



 ランボルギーニは、ブリッジでそれを聴いた。


(――クジラの歌かよ。クライスラーはぶち殺したんだぜ。今更なぜだ)


 クライスラーは時折クック=ロビンに命じてクジラの歌を唄わせていた。

 奴が作曲した、クジラと奴にしかわからんメロディを、クック=ロビンはなぜか解釈し、クジラに伝えることができた。

 水中で音の伝わる速度は、空気中のおよそ三倍。

 それをクジラ同士が伝えることによって、大洋のどこにでも即座にメロディを伝えることができる。

 クライスラーがどこぞで拾ってきた、人とも魔物ともつかぬような異形をクック=ロビンと名付けて飼い始めたとき、ランボルギーニは真っ先に反対した。

 またあの野郎の博愛主義かと思ったわけだ。


「こいつは海に愛されてやがるんだよ」


 野郎はそんなことを言って恍惚としていたが。趣味の悪い野郎だぜまったく。

 クック=ロビンを乗せた分隊が勇者に壊滅させられたとき、生きて戻ったのは彼含めたったの三人だった。彼以外は数日のうちに死亡した。

 それでもランボルギーニは最後までこの男を一端いっぱしの海賊とは認めなかった。

 ――悪運強ぇ野郎だ。大方、北海の海獣と間違えられたんだろうよ。

 だがそんな彼も、クック=ロビンのこの特技には舌を巻いた。

 ある程度であるが、遠く・・の船に伝令ができる・・・・・・ようになったからだ。



***



 ジャックとノートンは、ディオニスの大型船の主甲板でそれを聴いた。

 二人は何の音かも判らず、顔を見合わせた。


「なんだこの音は――皇帝の……術か何かか?」

「いや、なんだろう、海鳴りのような――ん? あれは、なんだ」


 遠くの海を見たノートンが、何かに気付いて指差した。

 空だ。

 ジャックも眼を細める。

 確かに、洋上の空に何かがある。


「――なんだありゃ。何かあるな」


 息を呑む。


「ジャック君、君は視力は確かかね」

「ああ、まぁまぁ良い方だと思ってたが、どうだろうな。自分で思ってるほどじゃ、ないのかもな」


 遠くを見たまま尋ねるノートンに、ジャックも遠くを見たまま、やや呆然と答えた。


「私もしばらくメガネを替えていなくてね。自信がないのだが、人に見えないか?」

「それな。人に見えるんだよ、俺にも」


 はは、とノートンは笑った。


「なんで笑うんだよ。空飛ぶ勇者だっていたんだぞ」

「いやあれは君、君も言ってたが、コケ脅しだったわけだろう?」

「自力で自由にゃ飛べねえってだけで、本当に空を移動してたのは間違いじゃねえよ。だが、ほら、アレはさ、なんかこう……歩いてねえか?」

「歩いてくるように見える……な」


 誰かが歩いてくる。

 空を歩いて、誰かがこちらにやってくる。


「なんかこう、なんだろうな、頭に来てるのかな? 妙に動悸どうきがするぜ。俺達は必死で知恵を絞ってここまで船乗り継いできたのにさ、あいつなんか、歩いてくるわけじゃん」

「理解する。私も変な汗が出てきた。皇帝を見た時とは少し違うな」


 二人はまだ、それが根源的な恐怖であると理解できない。

 空中を歩く人影は、照りつける陽光を反射し、ぎらぎらと輝いている。

 長い鎖のようなものを無数に垂らし、ウェーブのかかった長い髪も風に揺られている。

 魔物ではない。

 だが人間ではあり得ない。

 魔人。


「やべえだろ、逃げるぞ!」

「戻れば隣の船には皇帝だぞ!? どうするんだ!」

「とにかく、身を隠せ! ブリッジの陰へ!」


 二人はブリッジの外壁に身を潜めた。

 軍用船は帆がないぶん、ブリッジは高く造られている。身を隠すには適していた。

 上空を窺がうと魔人はもう、概ね顔が見える距離まで近づいていた。


「なんだありゃ。よく見えないが――顔半分に――変な刺青か?」


 ジャックが振ったが、ノートンは言葉を失ったままだ。


「おい、官僚さんよ! どう見る? おい!」

「――あれは、聖痕だ」

「聖痕?」

「皇家に伝わる古い伝承だ。私も詳しいことは知らん。我々は単に、スティグマと――」


 ドドン、ドドンと立て続けに大砲の音がした。

 少し離れた海上を航行中の軍用船だ。ディオニス船団の右翼、今までで唯一無傷の船だった。

 それが魔人に気付いたのだろう。慌てて砲撃を開始したことが、ポンポンと生じた発射煙で判る。

 四つの砲弾のうち一つが、真っすぐに空中の魔人へと向かう。

 だがその砲弾は、魔人との間に出現した黒い網に巻き取られ霧散し、輝きとなって黒い網目の間に吸い込まれる。

 物理攻撃は効かない。だがああしてはばむということは――。


「当てさえすれば殺せるってことか――」

「あの距離で砲弾を防ぐのだぞ。普通の方法では無理だ。あれも勇者――なのか? オーシュとは全然違う」


 キィィィと、甲高い音がした。

 海上から、黒い茨のようなものが数本生えた。

 砲撃を試みた、軍用船の周辺だ。体長百メートルの中型軍用船の周辺を取り囲むように、茨が生え、伸びてゆく。

 長く長く、軍用船よりも高くまで伸びたそれは、船を包み込もうと先端をもたげ始める。

 包み込もうにも――その茨の触れたところから、船が崩れてゆく。

 一きんのパンを紐で切るように――。

 メキメキという音が響いて、水柱が上がる。

 船は対地時速八十キロで航行中だった。空を悠然と歩く魔人を見ていると感覚が麻痺するが、船団は今も航行中なのだ。

 軍用船は崩壊しつつも進み続け、後ろに流れる残骸、水面を転がる残骸を残して、消えた。

 ほんの十秒もしないうちに、小さな水柱を数本残して、一隻の軍用船が消えてしまった。


「今のは――何だ」

「判らん。ソウィユノの攻撃に似てたが……比べ物にならん」

「あれは――勇者よりも強いということか」

「桁外れだ。たぶんあれが、七勇者の指導者――あの特徴を借りて、仮に『スティグマ』と呼ぶことにしようぜ」


 指導者、スティグマ。

 公式な記録では、これが人の前に姿を現した最初のものである。

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