断片集 ~森の木漏れ日亭へようこそ前日譚~

海月大和

さすらう弦楽師 1

 するり、するり、と、静かな音が人の隙間を抜けていく。


 落ち着いたリュートの音色が、石畳の敷かれた広場を満たしていた。耳に心地良い調べを奏でているのは一人の若者。円の形をした広場の縁に胡坐をかき、彼は手にした楽器を爪弾いていた。


 夕暮れが近くなり、往来の減ったこの場所には、もう数えるほどの人影しか見えない。少し前までの賑やかさなど、その面影すらなかった。本来ならば主張して然るべき空間にあって、あくまで控えめに、まばらな人通りに染み渡るように、リュートの音は響いている。


 広場を横切る人々も、彼とその音色を風景の一部といった風に扱っていた。時折りはちらと視線を送る者もいたが、さりとて立ち止まることはない。


 そうして暫く経ち。市場の閉まる時間が迫ると、人の姿もほとんど無くなっていった。


 視界に映る人間がもはや一人もいなくなると、彼はふっと演奏を止めた。持っていたリュートに布を巻き、傍らに置いてある木製の入れ物に仕舞う。


 立ち上がった若者は、体の下に敷いていた外套の汚れを払って身に着けると、楽器の入った入れ物を持って、彼が寝泊りしている宿へと向かった。


 ラキという名のその若者は、この町の住人ではない。町や村を転々とする、いわゆる旅人だった。








 木の板を鉄で僅かばかり補強した、無骨な扉を開ける。


 ラキの姿を認めた宿の主人が、にっこり笑っておかえりなさいと挨拶をしてきた。もう5日もこの宿に泊まっているので、向こうにも顔を覚えられている。


「新曲とやらは出来たのかい?」


 預けていた部屋の鍵を差し出しながら、宿の主人はラキに尋ねた。


「いやぁ、さっぱりダメですね。こう、刺激になるようなものでもあればいいんですが」


 ラキは苦笑いと共に鍵を受け取る。


「ふぅむ、刺激ねぇ。この町にゃあんまり派手なものはないから、お客さんみたいな若い人には退屈かもしれないね。強いて言うなら、珍しいお菓子があるくらいかな」

「町の特産だっていうあれですか?」

「そうそう、お客さんも一度食べてみるといいよ。本当に美味しいからさ」

「ええ、そうですね。そうしてみます」

「ああ、それがいい。食事は後で部屋まで持っていくよ」

「ありがとうございます」


 宿の主人との世間話を済ませたラキは、奥にある石の階段を上り、借りている部屋へ戻った。話している内に日が暮れたのか、開け放していた窓の外には薄闇が見えている。石造りの壁は、部屋の暗さと相まって、とても冷たそうである。


 とは言うものの、この地方は気候が穏やかで、夜になってもあまり冷え込まないので、薄い布一枚で事足りる。それは、着の身着のままのラキには非常にありがたいことだった。


 ランプに火を入れて部屋を明るくしたラキは、上着を脱いで椅子にかけた。リュートを机の上に置き、ベッドに浅く腰掛ける。


「ふぅ……」


 旅人であり、リュート弾きであるラキには、決めていることがあった。


 滞在した町ごとに最低でも一つ、曲を作ること。そして曲が出来るまでは次の町へは行かないこと。


 これといってそうする理由があるわけではない。ただ、旅を続ける内に、自然とそうするのがいいと思うようになった。今のところ、この決め事を破ったことはない。


「はぁ……」


 部屋に戻って二度目のため息。嘆息の原因は先ほどの決め事が原因だ。


 全くといっていいほど曲が出来ていないののである。とっかかりさえ掴めない。


 もうあらかた町を見て回ったというのに、何も思い浮かばずにいる。まとまらないというのならまだしも、何も出てこないというのは初めての経験なだけに、ラキはずいぶんと頭を悩ませているのだった。


「仕方が無い。明日はもう一度、町を回ってみようか」


 とりあえずの結論を出した彼はベッドに寝転がり、夕食が来るのを待つことにした。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る