君なき真冬のエフェメラル

青海野 灰

第一章 死ねない理由

第1話


   ❄ ❄ ❄ ❄ ❄ ❄


「捨てるんなら、私にくれない?」


 まるで弁当のおかずのやり取りでもするような、軽い調子のそのセリフ。

 始めはそれが、自分に向けて言われたものだとは思えなかった。だから、僕はその声に反応しなかった。


「ねえ、聞こえてるんでしょ?」


 少しの苛立ちを含んだようなその言葉でようやく僕は、その女性の声が自分の背中に向けて発せられたものだという可能性に気付く。


 なんせここは、放課後の校舎の屋上。さらには、気候のいい春や秋ならともかく、空気中の冷気が肌を切り裂くように寒いはずの12月の夕暮れ時、外にいることすら嫌になるような時間にわざわざこんな所に来る酔狂者など、僕くらいしかいないはずなのだ。だから、仲睦まじくお弁当のおかずを分け合うような女子グループやカップル達が、いるはずがないし、そんな時間帯でもない。


 僕は振り返り、フェンス越しにその人を見る。見慣れない顔だった。黒のダッフルコートに身を包み、赤と灰のチェック柄のマフラーを口元まで覆うように巻いて。それでも膝上までのスカートからは、何も守る物がない色白の両足が、寒々しく伸びている。ストレートの黒髪は艶やかに肩まで伸び、冬の黄昏時の頼りない夕焼けを反射していた。そこまでは、至って普通の、どこにでもいるような女子高生だ。


 しかし彼女の外見には、一点だけ、強烈な異質さを放つ要素があった。


「……僕に言ったの?」


 たっぷり一分ほどの沈黙の後に出た僕のこの言葉に、その少女は小さく「ふふっ」と笑った。細めたその目尻から、小さな雪の結晶が零れて舞ったように見えたのは、きっと僕の気のせいだ。


「そうよ、あなたに言ったの。他に誰もいないじゃない」

「……そうだね。で、何だって?」

「捨てるならちょうだいって言ったの」


 その言葉は、耳の裏辺りにまだ印象的に残っている。今聞いたのは、その言葉の、意図。


「うん。何を?」

「命を」

「は?」

「人生を。その失われる時間を」


 ……ヤバいやつなのかもしれない。

 自分の心の中にシェルターの壁がメキメキと音をあげて立ち上がっていくのを感じる。関わらないほうがいい、と、脳が警鐘を鳴らしている。


 彼女は美しかった。きっと普通の男なら、すれ違った後に思わず振り返って、その後ろ姿が見えなくなるまでぼーっと見つめてしまうような、そんな魔性めいた美貌を持っている。シルクの如くサラリと流れて光を反射する黒髪。雪のように色白な整った顔に、寒さのせいか少し紅潮した頬と、桃色の唇が瑞々しく乗っている。華奢な体やそこから伸びる腕や足は細く、異性に庇護欲をそそらせる繊細な印象を与える。


 ただ、前述のただ一点の彼女の異質さが、それらの好印象全てを一撃で粉砕するような威力を持っていた。それもまた、僕の心に厚い壁を作らせていく。


「……どういうこと?」


 自然、僕の声にも身構えるような固さが交じる。しかし彼女は、そんなもの気にも止めないように、腕を組んで僕の問いに答えた。


「だってあなた、自殺しようとしてたでしょ?」

「え? ……あぁ」


 僕は彼女から視線を外し、自分の足元を見た。

 僕の視点として、彼女の異質さばかりを語ったが、僕だって傍から見たらさぞかしヤバいやつとして映る事だろう。


 なぜなら、僕が立っている場所は、校舎の屋上の端を囲うように立つ転落防止用フェンスの、その外側なのだから。一歩踏み出せば四階分の高さから、真冬の冷たいコンクリートに向けて真っ逆さまにダイブできる絶好のスポットだ。


「……別に、ここから落ちるつもりはないよ」

「ウソ」

「嘘じゃない」

「じゃあなんでそんな場所に、この寒い中コートも着ないで立ってるの? そこは命を捨てたい人のいる場所でしょう?」


 ここは、命を捨てたい人のいる場所。

 ずしり、と、心の中にその言葉が黒く重い塊として現れるのを感じた。重さのせいで心が軋み、ぎしぎしと音を立てる。


「そう、かも、しれないけど……。でも、僕は飛び降りないよ」

「そんな所で言われても、説得力がないわよ」


 確かにそうかもしれず、反論ができない。僕はひとつ、ため息を零した。


「私、自殺する人って嫌いなの」

「だから違うって」

「綺麗事を言うつもりはないけど、捨てようとするその命や時間は、どんなものよりも貴重で得がたいものだと思うのよ。だから、いらないなら私に寄越しなさい。もらってあげるから」


 腰に手を当ててそう言う彼女は、僕がここから飛び降りるということを信じて疑っていないようだった。でも、その姿には、薄い胸を張る小さな体には、声や表情に表しているような高飛車な様子はなく、微かな震えさえ見て取れた。それが寒さのせいなのか、それ以外の理由なのかは分からないが、僕には彼女が、少し無理をしているように感じられた。自殺しようとしている(と思われている)人を目の前にして、緊張しているのだろうか。

 だから、思わずこんな事を聞いてしまったんだと、僕は考える。


「……君にもらわれると、どうなるんだい?」


 よくぞ聞いたと言わんばかりの表情を浮かべ、その少女は答える。


「あなたは私の為に生きるのよ。投げ捨てようとするその空しい人生に、生きる意味と目的を与えてあげるわ。そして私も、私の為に生きるあなたを、悪いようにはしないから。互助関係。ウィンウィンってやつよ。ほら、いい事しかないでしょ」


 僕は笑った。笑ったのなんて、ひさしぶりだ。

 思い込みの激しい、綺麗だけどちょっと変わった女。それが第一印象。

 でも不思議と、この人の言葉に流されてみたいと、僕は素直に思った。


 どうせ、――


 冷たい風が、彼女の髪を揺らす。

 どうせ、つまらない人生だ。

 少しくらいの時間なら、くれてやってもいいかもしれない。


「……分かったよ。君に、もらわれてみる」


 僕の言葉を受け、その少女はふわりと柔らかく微笑む。


「うん、いい子ね」


 半分しか見えないけれど、僕はそこに、懐かしい誰かの面影を見た気がした。

 半分しか見えない。そうなのだ。それが彼女の放つ強烈な異彩であり、違和感だった。僕の目の前の不思議な美しい少女は、その顔の右半分、対面する僕から見たら左半分を、白い仮面で覆っている。随分前に映画のポスターで見たオペラ座の怪人が付けているような、目元と口周りだけ開いた、何の飾り気もない真っ白のマスク。そこには、何が、隠されているのだろう。


「で、もらわれた僕は、どうすればいいんだい?」

「そうね、色々あるんだけど。まずは、その危ない場所から離れてちょうだい」

「分かった」


 数秒後、フェンスを越えて彼女の立つ屋上のコンクリートを踏みしめた僕を見て、「ああ、そういう事……」と、彼女は微笑んだ。その目尻に、僕はまた雪の結晶が零れるのを見る。


「じゃあ次は、あなたの名前を教えてもらおうかしら」

「海原。海原一帆」

「へえ。すごく雄大な印象を与える名前ね」

「よく言われる」


 名前負けしているとも、よく言われた。壮大な名前の似合わない、小さな男という事なんだろう。


「カズホは、この学校の生徒なの?」

「そうじゃなかったら、こんな所にいないよ」

「……それもそうね。何年生?」

「一応、二年生」


 彼女は「一応って何よ」とクスクスと笑う。そのたびに、彼女の周りで微かな夕焼けを受けてキラリと煌めく粉雪が舞うのは、たぶん気のせいではない、と僕はもう思い始めていた。それはこの子の気配や、存在というものが、冷たい冬の空気を纏っているからなのだろう。冷たくも暖かい、身が引き締まって背筋が伸びるような、凛とした冬の空気。きっと、彼女の名前は――


「私は、六花よ。宮本六花」

「……そうか。冬生まれなんだね」


 僕の言葉に、六花は少し眉を上げた。


「あら、この名前から季節を連想するなんて。博識なのね」

「違った?」

「いいえ」と彼女は首を振る。

「ご明察。一月の真冬生まれよ。六花が雪の結晶の異称だと知ってる人は、高校生ではそんなに多くないと思うわ。大抵は春に咲くような、色とりどりの花をイメージされるんだけど」

「前に知人が教えてくれたんだよ。僕個人の知識じゃない」

「あらそう。でもあなたからは、静かな知性の気配を感じるわ」

「そりゃあどうも」


 恭しくお辞儀をすると、彼女はまたクスクスと笑った。


「カズホは面白い人ね。これから楽しくなりそうだわ」

「宮本さんは――」

「六花でいいわよ。私もカズホって呼ぶんだし」


 彼女は僕の言葉を遮るようにそう言った。


「そうか。六花は、転校生か何かなの?」


 こんな奇特な見た目の生徒がいれば、あまり周囲に興味のない僕でも、知っているはずだった。となれば、転校生か、他校の生徒会か何かが視察に訪れているという可能性が高い。新しく赴任する教師、という年にはとても見えないし。


「ええ、変な時期だけど。保護者の都合ってやつでね、明日からここの生徒になるわ。今日は教師への挨拶と、校舎の下見をしてたのよ」

「なんでそれで屋上なんかに来るんだよ」


 小さく笑いながらそう問うと、六花は当然の事のような声で答えた。


「私、屋上って好きなのよ」

「僕みたいな人の命を拾えるから?」


 彼女は首を振る。その動きで、シルクのような髪がサラサラと音を立てるように感じた。


「そんなのは滅多にないわ。ただ、外の空気や風が好きなの。空の広さもね。それを一番感じられるのが、ここ、というだけ。同じ屋外でも、体育の授業で日常的に行くグラウンドでは感じられない、非日常感と、開放感、空の近さ……。学校の中って、息がつまるじゃない」


 それは僕も同意だった。教室の自席も、冷たい廊下も、広い体育館も、トイレも、音楽室も化学室も、下駄箱も玄関も、息がつまる。圧力を持った空気が、そこに充満しているように感じる。だから僕も、その重い空気から逃げるようにいつも、ここに来る。


 そして、その度に、何度でも、思い出す。手や足に絡みつく重い鎖のように。呪いのように。消えない誓いのように。何度でも、何度でも、何度でも、心を抉る。


 屋上に取り付けられたスピーカーがブブっと雑音を立て、そのすぐ後に、退校を促すチャイムが鳴り響いた。グラウンドにいる生徒に向けたスピーカーがこの屋上の近くの壁に取り付けられているため、少し、うるさい。気付けば二人の周りは、すっかり夜の闇に覆われている。


「あら、もう帰らないとなのね」


 六花はくるりと僕に背を向けるとそう言い、半分振り向いて左顔だけをこちらに向けた。暗闇の中、月の落とす仄かな明かりだけが、彼女の白い頬を浮かび上がらせている。この角度だと、あのおかしな白面が見えない。月明かりの下でただ美しいだけとなった転校生の少女が、ふわりと僕に、微笑んだ。


「じゃあね、カズホ。明日から、よろしくね」

「うん。よろしく」


 胸の内側に感じる不思議な疼きは、今は、目を逸らそう。

 六花はそのまま颯爽と歩き、振り返らないまま、屋上から校舎に入る階段室の扉の影に、消えていった。


 僕は一つ息をついて、フェンスの向こうに広がる夜を見る。

 こうして僕の命は。人生は。時間は。突然現れた謎の転校生、宮本六花の所有物となった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る