異世界獣医の治療記録 ~魔獣保健衛生所のお仕事~
蒼空チョコ
プロローグ
さて、獣医師の仕事を紹介しよう。
元は軍馬の生産や畜産の発展のために系統化され、生活が豊かになってからは動物病院という愛玩動物のための診療施設が誕生した。
現在では動物自身や動物から人に伝染する病気を防ぐための畜産や衛生分野の獣医師と、動物病院に勤める獣医師が半々とでも思えば大体OKだ。
地区を分割担当しており、各県に数個ずつあるものなのだが、この家畜保健衛生所には『異世界支所』なる妙な名がついていた。
日本に所属しているが、諸々の事情で異世界に配された支所である。
そう、異世界。
物理学的にはほぼ同じながらも魔法というものが存在し、地球の生物を凌駕する動植物が無数に存在する世界だ。
事務所の窓から外を見れば、真昼間だというのに光を少しも反射しない漆黒のオベリスクが見えるし、空にはプテラノドンもかくやというレベルの怪鳥が飛んでいる。
……あんなサイズのものが鳥インフルエンザやウエストナイル熱のような病気を媒介するので定期検査しましょうなどとなった日には辞表を書く。
いや、書いたところで受理されないのはこんな常識外の土地に勤務させられている点でお察しだ。なので、書くのは遺書だろうか。
考えても憂鬱になる。待遇改善のために労働基準法辺りも異世界入りしてもらいたい。
「一刻も早く県庁か他所への異動にこぎつけてやる……」
浅間は小さな野望を胸に、ため息を一つ。
そんな時、デスクに電話よろしく添えられたベル付きの鏡が音を上げた。
これはこの世界における電話だ。複製品のベルを鳴らせばこちらのベルが共鳴し、向こう側で鏡に映った人物の姿と声が届くという代物である。
鏡の下部についているスイッチに触れると、映像が繋がった。
「はい、こちら家畜保健衛生所です」
『こちらは北方防壁の者だ。コトミチ、今度は北域のビーグル山に生息するクアールが何頭も痙攣しているという情報が入った。病性鑑定と治療をしてもらいたい』
相手は地方自治体の役人だ。
彼が語るのは原因の究明と治療の要請である。
それが家畜保健衛生所の基本業務。
家畜の防疫と衛生指導、無獣医地域での診療、あとは畜産における人工授精等の作業。さらに畜産振興の分野まで含めると、飼育法の指導など多岐に渡ってくる。
この異世界では魔法なんてものがある上に人口が少ないため、学術は全般的に発達していない。当然、獣医師なんてものも存在しないため、この事務所に求められる幅も広がっている。
クアールといえば電気系の魔法を使うジャガーとも言うべき種族でまごうことなき猛獣だ。正直言って近寄りがたい。すでに胃がきゅうと収縮しているものの、業務は遂行する。
「症状は痙攣のみですか?」
『いや、嘔吐やめまい、失禁、普段は近寄らない人里への出現などが情報として挙がっている』
「なるほど。発見の日時と第一発見者の名前と合流先、他には――」
その地域で異常事態がなかったかなどの情報収集のほか、現地での対処が判明した時の人員確保の可能性などを一つ一つ確かめていく。
『では、貴殿の活躍に期待する』
「……ハイ、ガンバリマス」
通話は終了して映像が途切れた頃、浅間の営業スマイルは崩れた。
牛豚ならともかく、相手は猛獣。しかもそれが昏倒する事態ときた。恐ろしい伝染病でなければいいなぁと心で祈る。
「とはいえ、ぶつくさ言ってもいられないので準備をしますかね」
浅間は所内を見回す。
正式な職員は自分のみであるものの現地協力員はいる。だが、姿が見えない。
まあ手狭な施設なので探せばすぐに見つかるだろう。
そう思っていたところ、事務室のドアが開いた。
「コトミチさん、お昼出来上がりましたよぉ! ルーを使ってビーフシチューを作らせてもらいました!」
病性鑑定用の記録用紙を準備していたところ、協力員その一が尻でドアを押し開けて入室した。
快活な彼女の名はスクナという。
結わったポニーテールを尻尾みたくご機嫌に揺らしてくるところに浅間は告げる。
「出張が入った。準備をしてすぐに出るぞ」
「えっ」
愕然とした彼女の腹がぎゅうぅと不満を漏らす。ビーフシチューなんて凶悪に食欲をそそる代物を持っているだけに腹の虫は立て続けに鳴いていた。
くっと顔を歪めた彼女は鍋を机に置くと踵を返す。
「すぐにタンブラーに移して、他の食べ物はタッパに入れます!」
「いや、そういう準備じゃなくてさ……」
さっさと出ていってしまった彼女には言葉が届かない。浅間は伸ばしかけた手を下ろして自ら準備を始めた。
まあ、さっさと出るために基本セットは準備されている。
薬品庫に向かった浅間は採血ホルダーや真空採血管、アルコール綿などを籠に集め、あとは病性鑑定用セットを手に取る。
するとそこへもう一人の協力員がやってきた。
「おっと? コトミチ、もしかして出張の予定は入った?」
「ああ、そうだ。ノトラも準備を頼む」
「はいはーい、ただいま! あっ、オベリスクで採取した献体は渡してきたよ。日本からの定期物資はここに置いとくね」
エスニックな衣装に身を包んだ彼女は働き者だ。
人受けよく笑顔を見せると自分の顔が隠れるくらいに積み重ねていた荷物を端に置く。ずしりと音が出るとおり、男が担いでも苦労する重量だが彼女には関係なかった。
それは獣人じみた手足や耳、尾のおかげだ。
見かけは可愛げあるものだが、その実はパワードスーツじみた身体強化の魔法らしい。用を終えるとその外装は霞のように消え、準備のためにパタパタと出ていった。
荷物を揃え、作業着に着替えた浅間はノトラを追って外に出る。
この異世界支所が配された丘からは例のオベリスクを一望できる。
巨大な獣を空から垂らした漆黒で塗り固めたような代物だ。遠目でも見える通り、獣の図体だけでも二十メートルはあるというのだから驚きだろう。
この領域はあの獣が守護する土地らしい。
「あれも治療しないとこの辺り全てが滅ぶとか本当に……」
視野の先にはこの領域をぐるりと囲う岩の壁が見えた。
半径百キロ程度が真っ当な生存領域で、その先は無尽蔵の魔物が蔓延る荒野。あの獣が病死すれば、この土地もいずれは飲まれるというお話だそうだ。
あいたたたと、胃痛を堪えながら浅間は呟く。
困難にも思えるが、なさねばならない。
物的支援はあっても人的支援はない現状だ。そうでもなければ異動も願えないだろう。
ため息を堪えていたところ、浅間はスクナとノトラが追いついたことに気付く。
「よし、まずはクアールの病性鑑定から行くぞ」
千里の道も一歩からという。
浅間もそれに倣い、一歩を踏み出すのだった。
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