346.我が眼前の異物を駆除せよ

 アスタルテが無造作に右手を突き出し、左の爪で肘から先を切り裂いた。吹き出した血が芳醇な香りを放つ。甘く、誘う匂いだった。かつて味わった記憶が刺激される。


「うぐっ……これは」


 苦しそうにウラノスが顔を顰める。吸血鬼であるウラノスにとって、始祖の血は抗い難い渇きをもたらす毒だった。あの血を得れば、飛躍的に階級が上がる。魔力量はもちろん、吸血鬼は階級により区別されてきた。始祖に近い血を欲するのは本能なのだ。


 種族が違えど、オレも過去に彼女の血を得ている。喉が渇く感覚に、ごくりと唾を飲んだ。アルシエルも唇を噛み拳を握る姿から、何らかの影響を受けたようだ。くらりとしたオレを支えようと、リリアーナが足を踏み出した。


「オレの前に立つな」


 竜であっても女を盾に生き残る気はない。頷いたリリアーナは素直に斜め後ろに下がった。この位置から飛び出して、攻撃を受け止める自信があるのだろう。


 城の守りはバアルとアナトがいる。オリヴィエラも補佐についているので、リシュヤが保護する子供も問題あるまい。ならば人質を取られる心配なく、好きに暴れて構わない。前回と違い、こちらの戦力は増強した。


「来ます!」


 囮にした己の血をぺろりと舐めて消し、足元に罠を張る。地面に吸わせた血に含ませた毒を、もっとも効果的に敵に吸収させるため、魅了を重ねがけした。


 ちっ、舌打ちして結界を張る。これ以上彼女の血に誘われれば、理性がもたない。アルシエルとウラノスを強制的に後ろに転移させた。目を見開き伸びた牙を己の腕に突き立てて堪えるウラノスは、ほっとした顔で座り込む。気づいた時には結界を張るのも間に合わなかったのだろう。片膝をついたアルシエルも、肩で息をしていた。


 これだけの状況で、まったく影響を受けなかったのがリリアーナだ。同性であっても魅了されるはず……そこで気づいた。彼女も魅了の能力を操る者だ。魅了同士が打ち消し合うのだろう。封じられていても、耐性はある。孔雀が毒蛇を食べても死なないように……それは天性の才能だった。


「甘い匂いするね」


 目が合うと、ぽつりと呟く。魅了そのものに気づいたが、効果は出なかった。命じられた通り前に出ない範囲で、少しだけ距離を詰める。彼女はじっとアスタルテを見つめ、にっこり笑った。


「敵が来た!」


 アスタルテの血がまだ固まらぬ水溜まりに、ぬるりと何かが這い出る。血を吸収しながら、徐々に形を取った。黒い靄が粘液になり、固まって凝り始める。


 強力な魔力を含んだ血を得たことで、黒い神アペプが蘇ろうとしていた。戦うために相手を弱くするのではなく、戦いやすい完全体にしてから叩きのめす。わかりやすいやり方だが、効率は悪い。すべて承知の上でこの方法を選んだ腹心に、オレは一言命じた。


「我が眼前の異物を駆除せよ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る