287.赤の惨劇は序章に過ぎないと知れ

 逃げないと殺される。捕まったら目を抉られる。子供でも女でも容赦しない、あの子供は気持ち悪かった。本能が拒否する類の、強い嫌悪感が全身を硬らせる。


 あんな生き物、いたらいけない。存在すら許されないはず。だって……死んでるでしょ? あなたは生き物じゃないわ。


 非道な行いそのものより、黒衣の子供が纏う魔力が恐かった。アンデッドだって、あんな黒くて重い魔力じゃない。全身の毛が逆立って、恐怖に足腰が言うことを聞かなくなった。逃げろと叫ぶ本能と、時間稼ぎをしたい気持ち……仲間を逃すまで持ち堪えたいのに、近づいた手は赤く汚れていて、その指先は爪が長かった。


 逃げられない私の目に、まっすぐに近づく爪の先は何かぶら下がっていた。さっき殺された仲間の肉かもしれない。引きつった悲鳴が喉に張り付いた。今までのすべての痛みを足しても足りないほどの激痛が目を貫き、ようやく喉が動く。助けてくれと乞う震えた懇願を、くすりと笑った子供は目玉をぐるりと回転させて神経を捻じ切った。


 次に気づいたのは、引きずって逃げようとする仲間の温もりだった。彼もケガをしている。肩の肉が大きく抉られ、獣化できないほど消耗していた。慌てて自力で走り出すと、狼の耳と尻尾を持つ彼は安心したらしい。本性である虎の姿に変化して、彼に跨るよう促した。拒む彼を強引に背中で掬い上げ、全力で走る。

 

 後ろを振り向いてはいけない。ドラゴンの咆哮が聞こえ、やがて何も聞こえなくなっても……振り向いたら闇に捕まってしまうから。


 ――獣人が棲まう集落を襲った悲劇は、守護した赤いドラゴンの死に彩られ『赤の惨劇』と呼ばれる。その悲報が上位魔族の耳に届いたのは、襲撃から3日後の事だった。






 顔馴染みだった水竜からの報せに、黒竜王アルシエルは唸った。逃げ出した獣人は、周囲の集落や別種族へも警告を行なっているらしい。圧倒的強者になす術なく、かつて獣人が救って育てた炎竜が必死に戦ったが……惨殺された話で報告は締め括られた。


 グリュポス国跡地は、現在マルコスアスやマーナガルムの領地だ。魔狼や銀狼が守る場所に逃げてきた犬の獣人は、尻尾と前足に切り傷があった。血だらけの姿で逃げ込んだ彼は、咥えて運んだ幼狼をマルコシアスに預けて休んでいる。他にも様々な獣人が逃げ込み、森は一時騒然とした。


 ようやく落ち着いたと思えば、今度は水竜が竜族としての対応を尋ねに訪れたのだ。彼の話を聞き、獣人に育てられた炎竜を思い出した。魔王軍に勧誘したが、自分を拾った獣人達を守りたいと首を横に振った若者だ。ブレスの威力が強く、羽も大きく立派だった。


 希望通り獣人を守って死んだ彼に黙祷し、アルシエルは顔をあげた。これは魔王サタンに相談すべき事案だ。手遅れになる前に、他の魔族が犠牲になる前に……彼ならば。そんな期待と傲りが目を曇らせる。当事者は気づけない綻びは徐々に広がりつつあった。

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