川の向こう側

エイドリアン モンク

川の向こう側

 俺の国と、川を挟んだ向こう側の国は、長い間、戦争と停戦を繰り返している。俺は兵士として、国境を流れる川の岸辺を警備している。パトロールをしていると、向こう岸では敵が監視しているのが見える。

「あっ、今日もあの爺さんいるよ」

 先輩の兵士が指さした先の川辺に、一人の老人が立っていた。ここは、以前の停戦で平和の象徴として整備された展望スペースだ。だが、こんな場所に好き好んで来る人なんていない。この老人以外は。

「今日はお前が行って来い」

 先輩に言われて、老人に近づいた。

「あのー、おじいさん、ここで何をしてるんですか?」

「何をしてると思う?」

わからない。俺は首を横に振った。

「私はな、ただ川を見ているだけなんだ」

「ここは危険ですよ」

「危険?一体どこが?こんな老人を撃ってなんになる?」

「それでも奴らは撃ってくるんです。そういう連中なんです」

「そういう連中か……君は向こうの国の人たちと話したことがあるのかな?」

「ありません」

「じゃあ、なんで君は恐れる?私は、向こうの国のことを知ってるぞ。私は昔、貿易の仕事で向こうとこちらを行き来していた。向こうの国の人もこっちの国の人間と何も変わらない。良い人もいれば悪い人間もいる。それは同じだ」

 昔のことを思い出しているのだろうか、老人はしみじみと言った。

「嘘だ……」

老人の言葉に我慢できなかった。

「あんたは間違っている。物事のいい面しか見ようとしない愚か者だ」


 俺が十歳のとき、敵が川の向こうから砲撃してきた。国境の近くに住んでいた俺たち一家は、両親と生まれたばかりの弟と地下室に隠れた。砲弾が撃ち込まれる間、弟はずっと泣き続け、俺は耳を塞ぎ地下室の隅で丸くなっていた。

「ちょっと店の様子を見てくる」

砲撃が止むと、雑貨屋をしていた父親が、自分の店の様子を見に行こうとしていた。母親が止めたが、父親は笑って地下室を出た。それが父親の最期だった。

 葬式の時、棺に入れられる父の姿を見ながら、俺は誓った。

 いつか復讐してやる。

俺は十八歳になると軍隊に入り、その日が来ることを待っている。


「それは気の毒に……私も妻を亡くしている。戦争ではないが、大事な人を失うのは辛い。妻は向こうの国の人間だった。最期の時に言っていたよ。もう一度自分の故郷に行きたかったってな。もしかしたら私は、誰かがこの状況を終わらせることを期待しているのかもしれないな」

「終わらせるさ。あの国を徹底的に叩きのめすんだ。そうすれば、俺たちに従う気になるさ」

 老人は寂しそうにため息をついた。

「それで何が残るんだろうな……」


 僕が軍隊に入ったのは、特別な想いがあったわけじゃない。十八歳になったらこの国では、軍隊に入るか進学するか選ばなければならない。僕は勉強が嫌だったので、軍隊に入ることにした。訓練を終えると、国境の川の警備隊に配属された。毎日、同じルートを歩くつまらない仕事だ。

 黙って歩いていると、故郷にいる家族のことを思い出す。最近学校に入学した歳の離れた弟は元気にしているだろうか。

 怒鳴り声が、物思いにふけっている僕を我に返させた。見ると、展望スペースで、老婆が向こうの国に向かって叫んでいた。

「ちっ、またあの婆さんか」

先輩が無線機を取り出した。

「本部に連絡するから、お前はあの婆さんを止めて来い」

僕は走って老婆の所に行った。

「ちょとやめてください」

「この人殺し」

 老婆は僕の言葉が聞こえていないようだった。僕は仕方なく老婆を羽交い絞めにして、引きずるようにして連れて行った。

「離せ」

年寄りとは思えない力で、老婆は僕を振りほどこうとした。先輩が駆け付けて手助けをしてくれて、なんとか引きずって詰所まで連れて行った。


「あの婆さん、たびたびあそこにやって来てはああいうことをしているんだ」

詰所に戻ると、先輩の兵士が言った。

「なんで人殺しって叫ぶんですか?」

「それは、あの婆さんの息子が戦死したからだろう」

 老婆は、さっきとは打って変わって魂が抜けたようにぼんやりとしている。家族が迎えに来るまで様子を見ていた。

「私じゃない。みんながおかしいのさ」

どれくらい時間が経っただろうか、老婆がつぶやくように言った。

「あの戦争でたくさん死んだのに、忘れろだって?私しゃあ、あの人殺し共がなにをしたか一生忘れないよ」

 しばらくして家族が迎えに来た。家族に連れて行かれる小さな老婆の背中を僕は見送った。


 その晩、詰所の仮眠室で僕は横になっていた。今日はなかなか寝付けず、貴重な仮眠時間の半分以上を天井の木目を見て過ごしている。

 それにしてもと思う。

 人は、一生何かを恨み続けることができるのだろうか?僕にはあの老婆の気持ちが分からない。でも、恨む気持ちがあるから人は何度でも戦争ができるのだろう。

 じゃあもし、人が誰かを恨むことをやめたら戦争は無くなるのだろうか?いや、そんな簡単な話じゃない……もういい加減寝よう。所詮、僕が考えても仕方ないことだ。寝返りを打った。その時、外で音がした

 僕はベッドから体を起こして、耳をすました。何も音がしない。再び音がした。今度は、はっきりと聞こえた。……銃声?

「敵襲だ、起きろ」

先輩の兵士が仮眠室のドアをおもいっきり開けた。僕はベッドから飛び起きると、上着を着て銃を掴んだ。

 まさか、こんな日が来るなんて……


 詰所に警報が鳴り響いた。

「敵襲だ」

上官が叫ぶ。

 いよいよこの日が来た―俺は銃をつかんだ。

 外に出ると、月は雲に隠れていて、辺りは真っ暗だった。すぐに仲間を見失ってしまった。

 辺りを見回そうと、一歩踏み出した瞬間、足が地面につかなかった。バランスを崩した俺は斜面を転げ落ち、ぬかるんだ地面に着地した。どうやら、川の干上がった部分に落ちたらしい。下手に動かない方がいい。このままじっとしていよう。

 その時、何かが近づいてくる気配がした。動物か、あるいは敵か……。俺は銃を構えた。


「ついてないなあ……」

 僕はぼやいた。先輩たちとはぐれたうえに、足を踏み外して川の干上がった部分に落ちてしまった。少し離れた場所で小さな悲鳴が聞こえた。味方が落ちたか、それとも敵か……とにかく確認に行った方がいい。僕は銃を構えて、音のした方へ近づいて行った。

 雲の切れ間から月の光が降り注いできた。辺りを薄っすらと照らし始める。

 目の前に現れたものは……


 俺の目の前に俺と同い年くらいの敵の兵士が立っていた。俺は慌てて銃を構えた。

 今、ここでこいつを殺せば、俺の心の靄は少しは晴れるだろうか?―引き金に指をかけた。

―ほう……じゃあ、君は向こうの国の人たちと話したことがあるのかな?

なんで、こんな時に老人の言葉を思い出すんだ?

―じゃあ、なんで君は恐れる?

俺は恐れていない。やっと敵を殺せるんだ。

 でも、俺が憎んでいるのはこいつじゃない。こいつのいる国だ。一体何がどう違う?

もうぐちゃぐちゃだ。さっきから引き金にかけた指が震える。


 僕は銃を構えながら敵の兵士見た。僕と同じくらいだ。引き金にかかった指が震えている。お互いここで殺しあうことは無い。なんとか穏便に解決できる方法は無いだろうか。

 なんで僕はこいつを助けようとしているのだろう?

ふと、そんな考えが頭をよぎった。僕はこいつのことを知らない。もしかしたら凶暴な奴で、僕を殺せる喜びで震えているのかもしれない。

―私しゃあ、あの人殺し共がなにをしたか一生忘れないよ

そうだ、こいつは人殺し達の血を引いているんだ。

 コワイ。コロサレル。

恐怖で呼吸が荒くなる。背中に汗が伝わった。


パン。また音が聞こえた。


二人はそれを合図に引き金を引いた。


 晴れた日曜、俺は休暇で故郷の村に帰った。俺は多くの人たちに出迎えられた。着ている軍服の胸には、真新しい勲章がつけられていた。この村では俺は英雄扱いだ。

「彼はわが国の誇りです」

 広場で行われた集会で、政治家が俺を横に立たせて言った。

「彼のような優秀な兵士たちがいれば、今度の戦争、我が国が勝利は間違いなし。そして向こうの国に、この愚かな行為の代償を支払わせましょう」

割れんばかりの拍手が起こった。

 あの事件がきっかけで、再び戦争となった。今度は全面戦争だ。まだ戦争が始まって数日だが、数百人の犠牲者が出ている。

 結局、あの夜の音の正体を突き止めることはできなかった。何かの音と銃声を勘違いしたのかもしれない。

 しかし、もはやそんな事はこの国ではどうでもいいことだ。この国は戦争をする大義名分ができた。

「兄ちゃん」

 集会が終わると、小さな弟が俺に近づいてきた。俺は弟抱き上げて、軍服の帽子をかぶせてやった。尊敬のまなざしで俺を見ている。

「すごいね、兄ちゃん」

「……ありがとう」

 なんで長年の願いが叶ったのに、こんなに心が晴れないのだろう……。血を流して倒れているあの兵士の顔が今も頭から消えない。きっと一生忘れないのだろう。

「僕も、将来は兄ちゃんみたいな兵士になるんだ」

 嬉しそうにそう言う弟に、俺は何も答えず静かにほほ笑んだ。


 村はすっかり沈んでいた。国旗のくるまれた棺が教会の中に入っていく。これから、戦死した兵士の葬式が行われる。

「彼の死を無駄にしてはいけない。今こそ川の向こうの野蛮人に我々の怒りを示す時なのです」

棺の前で政治家が叫んだ。参列者はみんなうなずいている。

 亡くなった兵士の両親は悲痛な表情で椅子に座っている。母親は今にも泣き崩れそうだ。その横の小な男の子が立っていた。亡くなった兵士の弟だ。

男の 子は棺の前に近づくと、うつむいてこみ上げてくるものを必死で我慢していたが、しばらくして、覚悟を決めたように顔を上げた。

―僕が兄ちゃんの仇をとる。

 男の子は棺に向かって敬礼した。

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