第13話 盃

 宴の最終日、客人の前に姿を現したセシルは今までとは違って見えた。

 この地域に古くから伝わる樹液で染めた、はしばみ色のドレスをまとっていた。それは今までの白いドレスに比べるとひどく地味であったのに、豊かに波打つ金髪とそっと寄り添い、まるでセシルを黄金の枝葉をちりばめた宝石の樹のように見せていた。

 セルヴィウスに手を引かれて、自分の足で天幕から歩みだしたセシルは、客人の前で衣擦れの音もなく礼を取ると、ふわりとドレスの裾を流して坐す。誰よりも皇帝に通じる高貴な仕草に、客人は声もなくみつめていることしかできなかった。

 宴が始まってからも、セシルの変化は如実だった。今まで一切声を聞かせなかったセシルが、皇帝のささやきに相槌を打ち、時には風の音のような笑い声をこぼす。さすがに皇帝の前で直接子弟に声をかけることはないが、子弟の言葉に、小さくうなずくようになった。皇帝もそれを黙認していた。

 子弟たちはにわかに色めきだった。もしかしたら、皇帝は月の姫宮を降嫁させるおつもりなのではないか。もちろん皇帝の妹姫への寵愛の程は知れ渡っている。けれど既婚者となった婦人の方が、愛に自由となるのがこの社交界だ。月の姫宮に夫をあてがい、その上でご自分との関係を続けさせようとお思いなのだ。

 いや、少し肌が染まり、お元気そうに見える。月の姫宮はまた皇帝の御子をご懐妊なのだ。姫宮がご成婚されていれば、その御子は嫡子となる。皇帝は自らの御子に嫡子の身分を与えた上で、いずれ手元に引き取るつもりなのだろう。

 そういった皇帝の計算に乗れば我が一族の出世は保証されている。何より皇帝と離れて暮らすのであれば、月の姫宮に触れる口実もできる。

 皇帝しか受け入れたことがない体内に男を受け入れるとなれば、美しい姫はその屈辱にもだえるだろうか。それとも皇帝を狂わせたほどのみだらな体は、新しい男を喜んで飲み込むだろうか。

 セシルに欲望の入り混じる熱いまなざしが注がれる中、セシルはその中にある侮蔑にも気づいていた。

 セルヴィウスがセシルに近づける者を厳選しているために、セシルに対して悪意のある言葉がかけられることはない。けれどセシルは、自分を取り巻く人々の感情に敏感だった。その目に映る色の方が言葉より、感情をあからさまに伝えていた。

「寒いのか?」

 心の殻から踏み出したために、悪意も痛むほど感じる。睫毛を震わせたセシルに、セルヴィウスが低めた声で問う。

 セシルは首を横に振って悲しみを飲み込むと、そっと頭上を示す。

「いいえ。それよりごらんください、兄上。りんごの花がもう……」

 陽光の差す中、つぼみが綻び、白い花びらがこぼれてきそうだった。

 セルヴィウスは優しく言葉を返す。

「そなたは知らなかったのだな。この庭にりんごの花は無いのだ」

「ああ……ごめんなさい。見間違えてしまいました」

 セシルはうなずいて、柔らかくほほえむ。

 セシルの眼前には、視界を覆うほどのりんごの花が見えていた。甘い香りが満ちて、セシルを抱いていた。

 セルヴィウスの言葉の方が正しいのも、セシルはわかっていた。セシルはメティスを訪ねたとき、この木が切られたときを見ている。りんごの花は滅びた隣国の象徴で、セルヴィウスが隣国を滅ぼしたときにメティスが切らせたのだ。

 ただ、確かめたかったのだ。命の無い世界にセルヴィウスが呼ばれていないかと。セルヴィウスが見えていないと知って、セシルは心からの安堵を感じた。

「りんごの花が好きか? ではそなたの庭に植えて育てさせよう」

「月の庭は、じきに私のものではなくなります。新しい主の御心に沿うように」

「あの宮と庭はずっとそなたのものだ」

 セルヴィウスは蒼い瞳にセシルだけを映して告げる。

「いつでも戻って来てよいのだ。そなたが動けぬなら迎えに行こう。そなたを害するものは私が退けよう」

 はらりとセシルの肩を滑ったショールを手に取って、セルヴィウスはそれに口づける。

「……だから、時々でよい。私を求めてくれ、セシル」

 笑みもこぼせず、目を伏せてつぶやいたセルヴィウスと、セシルは同じ表情をしていた。

(兄上、私には命の無い世界の方が近いのです)

 言葉には出せずに、セシルは哀しい思いで目を伏せる。

(このままでは、何も生み出すことなく終わっていくのです)

 幼い日から、血と汗と汚物ばかり流していた自分の体が、セシルは厭わしかった。

 父王が自分に動物のように精を注ぎ、子を産ませようとしていたのも、その目の色で伝わっていた。けれどセシルはそれでいいと思っていた。自分の体はそれくらいしか役に立つまい。おそらく自分は数度の出産には耐えられないだろうから、父王を満足させられるのはほんの数年だろうと思ったくらいだった。

 そんな自分と、セルヴィウスは違っていた。命の輝きに満ちていた。

 何かを切り捨ててでも前に進む意思、生き抜こうとする強さ。いつも眩しくて、セシルにとって一番美しい存在だった。

 彼が病弱で何の役にも立たない自分を、二十三歳まで長らえさせてくれた理由がわからなかった。セシルのことを愛しいと告げ、求めるのが、どうしても理解できなかった。

 ずっとわからなかったが、他国に嫁ぐことで、やっと一つだけセルヴィウスに与えることが出来る気がするのだ。

「私が子を産んだら、兄上のお役に……」

 言いかけて、セシルは口をつぐんだ。セルヴィウスには既に四人の皇子がいる。自分のような病弱な母から生まれた子が、格別セルヴィウスの力になれるとは思えない。

「そなたの身の方が大事だ。子のことは心配せずともよい」

 けれどセルヴィウスには聞こえていたようだった。彼は苦い笑みを刻む。

「だが私とて想像したことなら何度もあるのだ。胸がつぶれるほど愛おしいに違いないのだろう」

 目を見張ったセシルに、セルヴィウスは告げる。

「一目見たら、後宮に幽閉してしまうであろうと」

「男児かもしれません」

「であれば、争いの火種になる」

 セシルが不安げに瞳を揺らすと、セルヴィウスは首を横に振る。

「……冗談だ。そのようなことにはならぬ。決して」

 春が祝福するように草木の香りを漂わせ、花びらが舞い落ちる。周囲から欲望の目で見られようと、セシルはセルヴィウスの隣に座っているのが心地よかった。このまま眠りについて息絶えてもいいような気がした。

 ふいにセルヴィウスの目が何かを捉え、鋭さを帯びる。セシルが視線の先を追うと、客人の中から一人の女性が進み出てきた。

「ご温情に痛み入ります、陛下」

 それはもう十年顔を合わせていない、セシルの母だった。

 父王を玉座から下ろしたとき、セルヴィウスは彼女も廃位に追い込んだ。国費を使い込み、父王の愛妾たちをいじめ抜いた彼女を後宮から追い出すのは、セルヴィウスが苦心した他の様々な変革に比べればずいぶんたやすかった。

 父王に溺愛されていたセシルも、幼い頃、吹雪の夜に母の命令で庭木に縛り付けられたことがあるらしい。ただセシルには、母とその虐待が結びつかなかった。母はいつもセシルに無関心で、ほとんど言葉を交わしたこともない。本当に母が彼女なのかも、実感がわかなかった。

「姫宮も、お元気そうで」

 力無い目でセシルを見やる。母はまだ四十代のはずだが、それより一回りも老けて見えた。化粧もほとんどせず、とうに流行が過ぎた型の古いドレスをまとっていた。

 母は廃位後すぐに再婚したらしいが、じきに病を得て実家に戻ったと聞いていた。今目の前で膝をついている女性を見ると、それも無理らしからぬように思える。

「私は遠いところに発つことになりました」

 はっとセシルは息を呑む。彼女の後ろに、セルヴィウスにそっくりの青年が立っていた。

 けれどセルヴィウスは彼が見えていないようだった。青年は一歩歩み寄って、母の肩に手を触れる。

「せめてお別れを、と」

 母は従者から酒杯を受け取って、セシルに勧める。セルヴィウスが不愉快そうに目をすがめて言った。

「結構。セシルは酒が飲めぬのだ」

「私をお疑いですか?」

 母は杯に自ら酒を注ぎ、それを一気に飲み干す。黒髪の青年はそっと母の手に自分の手を重ねた。

「さあ、姫宮」

 そのときセシルは、青年の目に閃くものを見ていた。セシルと口元が呼ぶ。

 セシルは引き寄せられるように、青年の手から杯を受け取った。セルヴィウスが止める前に、一口喉に通す。

 焼けつくような強い酒が喉を伝っていった。

「ふふ……あははは!」

 瞬間、母は狂人のように笑い出す。セシルを指さし、侮辱の言葉を浴びせる。

「後宮の娼婦め。王の子など産ませはしない」

 セルヴィウスは顔色を変えて、セシルの手から杯を叩き落とす。

「何を飲ませた! セシル、吐き出せ!」

「ははは!」

 母は高らかに笑って、口から血を吐き出す。

 セシルは体内を走る激痛のような悪意を感じながら、ぐらりと倒れた。

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