第12話 回想

 おだやかな春の夕べ、セルヴィウスはセシルにリュートを聴かせていた。

 夜着姿の二人の間には、寝台の上で寄り添いながらも、いつものように秘めやかな空気はない。セルヴィウスが弦を弾きながらセシルを見下ろすと、彼女は体を丸めて寝そべりながら歌を口ずさんでいた。

 セシルは、今日はずいぶんと顔色がいい。夕餉もよく食べていたし、日中も起き上がってメティスと菓子を楽しんでいたと聞いている。

 セシルにとって忌むべき場所に触れたために、もう自分の顔を見るのも嫌がるかもしれないと思っていた。けれどどうやら、あの夜のことは覚えていないようだった。セシルの体内からこぼれた水草は霧のように消えてしまったし、セルヴィウスもまるで夢でも見たような気分だった。

「兄上、もっと弾いてください」

 手を止めたセルヴィウスに、セシルが袖を引いてねだる。

「そうだな。ならば、懐かしい恋唄を」

 セルヴィウスは不遇だった幼少の頃、後宮に出入りしていた楽師に習ってリュートを覚えた。他に与えられた学もなかったので、真剣に学んだ。王子でなければ今すぐ弟子に欲しいのですがと、楽師は繰り返しこぼしていた。

 一方でセシルは正妃の産んだ唯一の姫だった。王と正妃の夫婦仲は冷え切っていたが、美しく危ういセシルを、父王は常に側に置きたがった。

 父王は後宮に来るたびセシルを呼び、膝に乗せて遊ばせていたが、奇妙な癖があった。もう八歳になるセシルに、指しゃぶりをさせるのだ。他の姉妹姫は笑い声もうるさいと遠ざけていたのに、セシルが泣くと可愛い子だと相好を崩した。

 それが父の愛でないと気づいてしまったのは、セルヴィウスが十歳のときだった。

 その頃父王は飽食がたたってひどく太り、歩くにも従者の助けが必要だった。それでも父王に買われる少女奴隷も、彼女らから生まれる弟妹も増えていた。

 あるとき兄王子にそそのかされて、父王の寝所を覗き見た。そこでセルヴィウスは世にもおぞましい光景を目にすることになった。

 自分の子どもほどの、まだ恋も知らないような年頃の奴隷の少女たちを三人侍らせ、父王は彼女らに体を舐めさせていた。尻の穴や、既に力を持つのも億劫になっている男性自身さえ。否と言えば罰を受けるのか、少女たちは咳きこみながら体液を飲み込んでいた。

 その内の一人が、指しゃぶりをしていた。父王がうなずくと、少女は足を開いて寝そべり、その濡れた指を自らの体内に入れて動かす様を見せる。今までどんなに刺激を与えても反応しなかった父王の男性が膨れ上がった。

 やがてその少女は父王の上にまたがってまだ未熟な花の中に男性を押し込めると、苦悶の声をもらしながら体を揺さぶった。

 父王は動こうともしなかったから、少女はただ体内の異物に苦しみ、汗を流しながら腰を振るしかなかった。

 半刻ほどもその苦痛と屈辱の時は続き、ようやく父王の体がぶるりと震えた。

 全部飲み込め、セシル。父王は確かにそう言った。

 精を吐き出す瞬間、逃れられないように少女の腰を強く掴んで引き寄せる。自らを抜いた後にこぼれた精も、すべて体内に塗り込めるように少女に命じた。

 父王は泣きながら精をすくって塗り込む少女に、冷ややかに言う。お前は一人産めばよい。そうしたら余所に売ってやろう。あれが子を産めるようになれば用済みだ。

 セルヴィウスの体が震えだしていた。泣いている少女は、セシルに似ていた。他の二人も、よくよく思い返せば後宮に買われてくる少女奴隷の多くが、セシルに通じる面立ちをしていた。

 ふいに父王は少女から目を離して笑む。

 やはりあれが一番だな。動物のように毎年産ませてやろう。道は広がり、汚物を垂れ流すようになるだろう。

 セシル、可愛い我が娘よ。父王の言葉に、セルヴィウスはもう嘔気が耐えられなかった。

 寝所から逃げ出し、庭でうずくまって吐いた。目の前が点滅し、世界の何もかもが醜く見えた。

――兄上、どうしたの?

 そのときセルヴィウスをみつけ、隣に座ったセシルだけが綺麗な存在だった。

 汚れたセルヴィウスの口元を手で拭って、あどけなく首を傾げてのぞきこんだ顔。ほとんど弟妹にも忘れられている自分を、いつも兄上、兄上と呼んで追いかけた無邪気な妹。

 このときまで、セルヴィウスは王子としての自分などどうでもよかった。そのうち後宮を抜け出して、楽師か、いよいよとなれば夜盗にでもなろうと思っていた。それくらいしか自分に生きる手立てはなかったし、そうして生きていくのに不満もなかった。

 でもそれでは駄目だ。それでは、セシルはいずれ寝所の少女奴隷たちと同じことをさせられる。

 この綺麗な生き物を汚物にまみれさせるくらいなら……あのおぞましい老人を消すくらい、大したことではないだろう?

 瞬間、セルヴィウスの目の前は晴れ渡り、後には清々しいくらいにまっすぐな道が広がっていた。彼は笑ってうなずいた。

――俺は大丈夫だよ、セシル。何も心配要らない。

 その夜、セルヴィウスが初めて学んだ生きるすべは、大事なもの以外を目の前から消していく方法だった。

 一つ一つ、セルヴィウスは選び、それ以外を消していった。乳母のつてを使ってル・シッド公国に留学して学を得て、帰国してからは淡々とクーデターの準備を整えた。父王の首を自らはねたときさえ、次に首をはねるべき兄王子の顔を思い浮かべていて、何の感慨もなかった。

「兄上、どうされたのですか?」

 恋唄を終えてセシルをみつめているセルヴィウスに、現在のセシルが問いかける。

 セルヴィウスは目を細めてほほえむと、セシルの頬に手を触れて言う。

「そなたのことを考えていた」

 冗談だと思ったらしく、セシルもくすくすと笑う。

「そろそろ手が疲れたのでしょう? 素直にそうおっしゃってください」

 違うのだがなと、セルヴィウスはリュートを置きながら苦笑する。

 皇帝の地位に憧れも執着もなかったが、機嫌よく寝そべるセシルを間近で見ていられるのだから、案外悪くなかったと思う。

 セルヴィウスもセシルの傍らに体を横たえて、頬杖をつきながら彼女を見下ろす。

「菓子は美味しかったか」

「はい。南方の貴族の姫が召し上がるのだそうですね。初めて食べました。兄上は召し上がりましたか?」

「私はまだ。そなたがそう言うなら、私も口にしてみよう」

「はい! きっと驚かれますよ」

 セシルは目を輝かせて話す。久しぶりにこぼれる笑い声に、セルヴィウスは安堵する。

 子どもの頃はよく、セシルと二人で夜シーツにもぐって他愛ない話をしていた。セシルが元気よく話しているのを聞いていると、これで十分ではないかと内心ため息をつく。

 セルヴィウスの中には兄以外に男が同居しているために、セシルに触れ、その体温を感じることを求めた。それは禁忌ではなく、ただの愛だと思っていた。

 だが気づいてしまった。セシルが自分に見ているものは違うのだ。セシルは自分に体温を求めてはいない。たとえばリュートの音色、甘い菓子。男ではなく、兄。

 セシルの垣間見えた心は、セルヴィウスにとっては切ない心持ちもする。けれど、それはいろんなものをふるいにかけていっても最後に残る、セシルという存在の中心なのだった。

「セシル」

 心地よく眠りに誘われているセシルに、セルヴィウスは問いかける。

「アレン公子に嫁ぐ気はないか?」

 その言葉を聞いたときのセシルは、少し不思議な反応を示した。

 まぶたを上げて、セルヴィウスを見上げる。喜ぶのとも、嫌がるのとも違う。

「……はい」

 来るべきときが来たというように、こくんと素直にうなずく。

「無理強いするつもりはない。別の相手でもよいし、そなたが嫁ぐのを望まぬのならずっと後宮にいても構わない」

 セシルはゆっくりと首を横に振って、確かめるように告げた。

「アレン公子に嫁ぎます」

「良いのか?」

 セルヴィウスはまた少し、視界が悪くなった気がした。やっと丘の上に立ったのに、セシルの前にカーテンが引かれて輪郭が薄くなったような思いがした。

「嬉しいです」

 セシルはほほえんで、セルヴィウスの手を頬に当てた。けれどその横顔は、寂しそうに見えた。

 言葉に迷ったセルヴィウスに、セシルは問う。

「お願いしたいことがあるのですが、聞いてくださいますか?」

「何だ?」

「ルイジアナ様が後宮入りされるまでは、ここに残らせてもらえませんか」

 そこでなぜルイジアナの名前が出たのか、セルヴィウスにはわからなかった。

 元よりセシルの代わりに子を産ませるために召す姫だ。だが、セシルの言葉の意味はそれとは違うように思える。

「……もちろん、構わぬが」

 セシルはそれを聞いて、安心したように目を閉じる。

「セシル?」

 微笑みながら頬に涙をこぼして、セシルは眠りに落ちていった。

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