第2話

「で、なにか情報はない?」

 情報屋というのはどの街にもいるもので大概にして偏屈だったりどこか歪んでいたりするがいまのところ実害はないのでお互いに良い関係を結んでいると思う。

「あー⋯⋯。難しいとは思うがまあ引き続きあたってみるよ」

「ありがとう」

 いくつかの情報をもらい硬貨と紙幣を数枚渡す。

「そうだジョン。聞いたか?西の方で街が沈んだって話」

「沈んだ?」

「ああ。まぁた政府連中の仕業じゃねえかって話てんだがなにやってんだか。おりゃあ怖くて近づけねぇよ。おかげで商売上がったりだっと、いけねぇいけねぇ」

 政府の統制でも入ったのか最近締め付けが激しい話はちらほらと聞こえてはいた。おおっぴらには言えないがなにかしら不満を抱えてるのも事実だ。それが爆発しないようにと武力に行使し近頃では軍隊が街を闊歩している。その様子を横目で見送ってジョンは注文していた紙袋を受け取った。

 中には小分けにされたスープやパンや付属のクリームが入っている。

 それを持って数軒隣の階段を降りて途中の露店で瓶詰めの飲料水を受け取ると隣の路地を抜けて駅前に出る。

 列車が到着して吐き出された旅行客をカモにいくつかの行商人がたむろしている。そこには布を張った移動式の小さな露店があって中を覗き込むと割と若めの男が顔を出した。

 一瞬だけ顔を嫌そうに歪めてから顔に笑みを貼り付ける。

「なにか御用でしょうか。クイン長官」

「西の方で街が沈んだらしいんだけど、あなたなにか知ってる?あとできればあなたのところの冷蔵庫を使いたいんだけれど」

「それは、命令ですか?」

「そう受け取ってもらっても構わない」

 渋々了承して男はカウンターを開けて通れるだけの場所をつくって、差し出された手を支えに露店内に入る。

 外の暑さとはちがい店内はひんやりとしていて微かに花のにおいがした。棚にはいくつもの乾燥した薬草のようなものが瓶越しに見えた。

「こちらです」

 靴を脱いで片手に抱えて板間に入って後をついていく。天井からは花の束がいくつも吊るされていた。その下を歩いていくと開けた場所に出る。真正面には扉が開け放されて雨が打ち込んでいたがそれを右に折れて階段を下っていく。壁に嵌め込まれた窓から差し込まれた陽射しは赤みがかっていた。それからまた廊下を進んで行く。突き当たりの扉を潜って中に入っていくと冷蔵庫があった。

 あとはお好きにお使いください。言い置いて男は部屋を出て行こうとしたので言葉を投げかけた。

「ねえ、頼みがあるんだけれど、あなた子供の面倒は見れる?」

「恐れながら、それは引き受けられません」

「まあそれはそうよね」

「⋯⋯⋯⋯その予定が?」

「私じゃないわよ。試しに訊いてみただけだから気にしないで」

「そうですか」

 では私は店で待機しております。と部屋を出ていった。

 備え付けの紙に名前といくつかの番号を書き込んで冷蔵庫に入れて閉める。それから数秒待って開くといくつかの紙幣の束があらわれた。そのひとつを懐に入れて来た道を戻っていく。

「クイン長官。西の街に関しては情報は上がっておりません」

「そう、ありがとう」

 カウンターを飛び越えると「ご利用ありがとうございます。またのお越しをお待ちしております」言葉と共に風があたりを包み先程まで露店があった場所にはなにも無くなっていた。

 踵を返して駅前の大通りを抜けて行く途中で近道をしようと路地に入ったのが悪かった。

 つけられている。

 そう気づいたのは自身の足音に重なるように近づいて来る足音に気づいた時だった。

 角を曲がったところで壁に張り付いて待って、走ってきた足音の腕を捻り上げた。油断していたからか男からは悲鳴があがる。その顔には見覚えがあった。駅前にいた行商人のひとりだ。

「痛てててて、腕が」

「なにつけてきてんのよ」

「う、腕が、腕が」

 悶絶する男の腕を回し込み関節が外れるようにさらに締め上げる。

「あんた、私だからよかったものの。他にもこんなことしてるとかないわよね」

「痛い痛い痛いーごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい、うぅごめんなさっ、はなしてくだ、うう」

 大の男が大涙をこぼして泣きはじめたのに引いて緩めてあげた。

「で?私になにか用があったんでしょ?」

「⋯⋯お、俺はただついて行きたくて」

「やっぱりただの不審者じゃないの」間髪入れず今度こそ腕の関節を外した。

 骨のずれる音とともに

「っ、」

 男が前のめりに倒れ込もうとした腕をさらに捻り上げてやった。

 そこで近くを歩いていた隊員がこちらに気づいてぎょっとするような顔を向けてきたので「ごめんなさい、この人に襲われそうになって」と言うと間の抜けた声を返された。

 それはそうだ。

 男が泣いて懇願しているのに襲われてなんて苦しい言い訳に見えても仕方がない。

「ひとまず、ちょっと離れて」

 指示に従ってはなれると「君、大丈夫?」なんて声さえかけている。

「う、ううぅ、ありがとうござ、うう」

 男の方に。

 まるでこちらが悪者だ。

「この人が私の」

「あー、ちょっと君は黙ってて」

 なんて間延びした声を返されて横柄な隊員にげんなりした。

 明らかに私被害者なんですけど。

「ごめんね、なにがあったか話してくれる?」

「この人がいきなり俺の腕を締め上げて」

 それはあなたが私の後をついてきたから。

「俺はただこの人についていきたかっただけなのに、」

 泣きじゃくる合間を熱心に聞いていた隊員はそこですべてを悟ったらしくすべてを引き受けてくれた。






「いいの、あれ。見た感じあんまり良くない感じだったけど」

 路地を抜けた先でメロジットが声をかけてきた。

「あんなの可愛いものよ。それより見てたなら助けなさいよ」

「俺がやるよりあんたがやる方があの隊員のこれからにとって有効かと思って」

「まあ腕一本で済んであいつは幸運だったわね」

 紙袋をメロジットに押し付けて車の後ろに乗り込む。

「疲れちゃったから運転よろしく〜」

 シートを倒すと寝転べるほどの空間ができる。幸いなことにトルシュカは前に座っていたのでバックを枕にしてブランケットをかぶって暫しの休息に入ることにした。



 *



 仕方なく運転席に身体を押し込んで道沿いに車を走らせていく。車の往来が規制されて街の中は歩いている人の方が多く歩行者優先のため車が待たされる時間の方が長い。

 それを知ってか街の半分にも到達していなかったが後ろで寝転んだジョンは寝息を立て横に座るトルシュカも満腹感からか眠りに入っていた。

 連れてきたはいいものの正直なところ迷っていた。政府にあずけるとしてこんな子供があんな戦いの前線にいてはいけないような気がしていたからだ。

 俺とジョンは選択してここにいるわけだが、こいつはすきでこの場所にいるんじゃないことがわかる。

 この先の選択肢を広げてやるのが先決なのではないか。

 それの受け入れ先は、と逡巡してあるひとつの場所に思い至って気が重くなった。

 できるなら関わりたくはなかったがそれがトルシュカにとっては最適だろう。

 ジョンからは投げやりな返事があくびとともに返ってきて行き先は変更された。






 いくつかの街を通り過ぎいくつかの線路を横切って南下していくと巨大な岩が積み重なった壁が現れる。それに沿って行くと大量の岩が積み上がっているその脇に車一台が通れる程の車幅が口を広げている。車を滑り込ませた暗闇を車のライトで照らしながら進んで行く。湿り気を帯びた風が車内にたまった熱気を運び出し体温を下げて行く。

 あまり長いものではないらしくそれも数十メートルで終わりを迎えた。

 抜け穴から出ると先程までとうって変わって緑豊かな平原が広がっていた。

「全然変わってないわね」

 いつの間に起きていたのか座席と座席の間から顔を出してきて、ちょっとは自分のために使ったってばちは当たらないのに。と呟いて頭を引っ込めた。

 岩肌に沿うように進んでいくとやがてラジオ塔が見えて来た。それをラジオ塔と呼んでいいのか。中央にそびえる鉄塔の骨組みは螺旋状に渦を巻き高さを上げその周りを四方向から一際大きい骨組みで支えている形だ。ここからは見えないが、ラジオ塔を中心に街が形成されている。岩壁が街の周囲を囲み風が吹き込まない地形の為荒野の真ん中でも作物が実るんだろう。気候が高い地域ではあるが地下の水脈から水を汲み上げれば生活にも困らない。住民は地下へと住む場所を広げ、コンクリートを流し込み住居区域を造りあげていく。その結果屋上には最も陽があたり自然と庭園が出来上がる。居住区にあたる地下内部へと光が差し込むように中心にはラジウム夜鉱街でラジオ塔が建設され吸収した光を地下深くまで放っていて夜鉱街に眠る鉱石で造った鉄塔はこの街の生活の歯車となっている。多種多様な人が立ち寄るようになってからは技術も発展し様々なものが持ち込まれるようになった。とかなんとかどこかで聞いたがいまもあのラジオ塔があるのだから大元は変わっていないのだろう。

 砂利道はやがてコンクリートに変わり車体から身体に伝わる振動が緩やかになったところで車をわきに移動させ声をかける。悪態を吐いてはいたが前方を指し示すと大儀そうに身体を起こした。前方には通行禁止の看板が掲げられていた。

「まあ今時車での移動手段なんてめずらしいから。道があるだけまだましな方だろ」

「悪かったわね時代遅れで」

 べつにそこまでは言っていないがと思いつつ助手席に声をかける。

「トルシュカ、起きろ」

「⋯⋯ここは?」

「サウスコーストのはずれ」

「首都じゃないの?」

「ああ」

 後部から出たジョンが扉を閉めて前方にやってくる。通行禁止の脇には人ひとりぶんほどが入れる煉瓦造りの小さな建物が建っていてその窓口から間延びした声の男が顔を出した。些か反応の鈍そうな男といくらか言葉を交わしている。同じように外に出たトルシュカは思い出したように振り返って「メロジットは?」と訊ねてきた。

「いい。俺は車を見張っとく」

「トルシュカー?」

「ほら、行ってこい」

 頷いてからかけて行った後ろ姿が木々の向こうへと消えてから車の屋根を後ろに倒して先程までジョンがいた場所へと寝転んだ。四角にくりぬかれた空との間で光に照らされて煌めいているのが差さり目を細めた。透明な液体を通して青空が透けてみえていて中では尾鰭を揺らめかせて空クジラが揺蕩っている。

(⋯⋯もうそんな時期か)

 東から流れ込んだ雲がしばらく停滞し数ヶ月程雨が続くこの地域には空クジラをよく見かける。それを阻むように巨体内に水を溜め込み容量を満たすと頭から吹き出してその地に恵みの雨をもたらすため空クジラが上空に滞在する街は作物がよく育つといわれている。基本的に空クジラは上空で泳いでいるが空中に水分が足りない時期には時折こうやって地上に降りてきて腹を満たしている。そうして雨季が終わると天高く帰っていくという。緑に溢れた場所は近場にはあまりない。つまりこのあたりの空クジラはここに集まるわけだ。生活が成り立つのも必然といえる。

「あの〜」

 間延びした声が聞こえ身体を起こすと先程ジョンと会話をしていた男が窓の近くに立っていた。

「ここは通行の邪魔になるので、あちらへ移動をお願いします」

「車で街に入れるのか?」

「いいえ。いやぁ車が来るなんてはじめてのことだったので忘れちゃって。悪いことしちゃったなぁ」

 どこが通行の邪魔になるのかと思いつつも呑気に笑っている男を横目に運転席に戻るとエンジンをかけて指示に従った。



 *



 ラジオ配信をはじめた最初のジュリエッタ・バーンズは迫害を受けて命からがらこの地に行き着いて来たという。

 岩壁が街の周囲を囲み風が吹き込まない地形の為植物が育ち難い荒野の真ん中でも作物が実り多少気候が高い地域ではあるが地下を通る水脈から水を汲み上げれば生きていく分には困らない。旅に困った商人を助けたところ人から人へと話が伝わりそれから同じような境遇の人々が集まりひとつの街へと発展していったのがこの街のはじまりだと言われている。

「俺は車で寝てる」

 要約するとメロジットはそう言って車に残ってしまったのでトルシュカを連れて階段を登っていくが久しぶりに訪れたからか少しばかり街並みが変わっていて入り組んでる地形を時折立ち止まっては脳内の記憶と照らし合わせながら進んで行く。年季が入りところどころ崩れてはいたが大本は変わらず緩やかに坂が重なって編成されている。地質状横には広げられず縦に増築して行った結果、平原の中心でそびえ立つラジオ塔が街のシンボルとなっていた。鉄筋造りて構築されその最上階からはあらゆる情報が発信されている。ちょうどいま流れてきたのはがそれだ。

 ジュリエッタ・バーンズ。

 普通の気象喚起番組だが、その中にはおおよその街の情報や依頼状況などいくつかの情報が含まれていて(なかには政府にとって不都合な理由も多数存在しおおっぴらにはできない為こうして紛れこませて配信しているとか)それを頼りに街へ行き情報屋から情報をもらい依頼を完了すれば報酬をもらう。

 闇市場ではあるが旅の資金が底をつきかけた時こうして駄賃を稼ぐ者も多い。その為かこの地には比較的人が寄り付き易いと聞くが街を行き交うのはあまり見慣れない顔ぶれだった。手を広げたのかお茶を飲んでいる行商人の姿がちらほらと見える。ある意味ここはすべての中心地だ。あらゆるものが集まる。それを知っている人の前にはなにものにも変えられない場所なのだろう。

 鉄骨で覆われた骨組み全体の7割を地下の住居街に差し込むラジオ塔は上部が住居になっていてロープが渡され昇降機が設けられていた。少しの浮遊感を伴って階数が上がる。目的地に着き扉が開くと目もくれず中央に設置された螺旋階段を上がっていく。階上には壁に嵌め込まれた機械と書類や書物で足の踏み場もなかった。

「ジュリエッタ!いるんでしょ。私、ジョンよ」

 乱雑に散らばった積み上がったその中でなにかの崩れる音と聞き慣れた声が名前を呼んだ。

「ジョン〜?」

 視線を向けると山積みの本の間から頭を出した色素の薄い頭を見つけた。

「ほら掴まって。また飲んでたのね」

 口角を上げて綺麗に笑うジュリエッタは髪を腕へと巻きつかせて引っ張ってきた。バランスを崩して同じように本の中へと突っ伏す。

「ふふ、本当にジョンだ〜」

 抗議の声を上げれば嬉しそうに笑った。

「はぁ〜い。よく来たわねぇ」

 語尾に妙に色の付いた彼女はジュリエッタ・バーンズ。ラジオの配信者でラジオ塔の住人だ。

「あらぁ〜?可愛い坊やじゃない」

 腰まで伸びた髪はゆるやかに波を打ち空色の瞳をぱちくりと開いてこちらとトルシュカとを交互に見ると「なに、ジョン、子供産んだの」「ちがう」ジュリエッタの頭を目掛けて手刀を振り下ろす。

「いったーい。なによ、ぶつことないじゃない」

「この飲兵衛。さっさと目を覚ませ」

「メロー、ジョンがいじめるぅ。あれ?メローは?とうとう捨てられたの?」

「ジュ〜リ〜エッ〜ター!」

「もう、わかったわよぅ」

 空の酒瓶を抱えてはだけた胸元を引き寄せて身体を屈めて顔をのぞきこんでいたがそれを嫌がるようにトルシュカは隠れてしまった。

「あなた、名前は?」

 膝をついて身を屈みトルシュカと目線を合わせる。

「⋯⋯トルシュカ」

「トルシュカ。素敵な名前ね。それに、賢い」

 言葉に反応してトルシュカが喉を鳴らした。

 大丈夫、とって食べたりしないわ。と笑って声を投げ返して「あたしはここに於いて13番目のジュリエッタ・バーンズよ。よろしくねトルシュカ」差し出したジュリエッタの手におずおずと手を伸ばしてトルシュカが手を重ねていた。






「トルシュカこっち」

 板間を進んで一通り使い方を教えて自身も隣の扉を潜り浴室へと入っていく。

 この街には地下水脈が通りポンプで組み上げた水を温めて使う。それは貴重なもので他ではあまり見かけない。それもこの地の恩恵にはいるだろうか。湯船には香草や花が浮かんでいて浴室内には爽やかな香りで満たされている。全身を洗い湯船に浸かる頃には心身共に癒されていた。

 髪を乾かしてお風呂からあがると食卓には豪勢な食事が並んでいてその横の水道からコップに水を注ぎ水分を補給していく。

「それにしてもジョンがここに来るなんてどういった風の吹き回しかしら」

「だって、それがあなたの依頼だったでしょ」

「あら、ばれてたの」意外というように瞬きをして食卓を整えていく。

「子供を救って報酬を受け取ってもその後子供をどうするのかも書いていない依頼をするのはジュリエッタ、あなたくらいだわ。私たちがここに連れてくるとわかっていて依頼したでしょう」

「さあ」

「あなた、どうしてトルシュカのことを知っていたの」

「⋯⋯さあ、どうしてかしら。そういえばトルシュカ、遅いわねぇ」

「話を逸らさないで」

「いいの?彼が湯船で溺れでもしてたら危ないんじゃない?」

 追求するのをやめて踵を返しトルシュカの入っている扉をノックする。

「トルシュカー」

 再度扉をノックするが返事はない。

「開けるわよ」

 シャワーは出しっぱなしで、立ち込めた蒸気の中にトルシュカはいなかったが視界の隅に人ひとりが擦り抜けられそうな四角い格子が嵌められているのが目についた。近づいてみると僅かに扉が開いていた。

 あいつ、逃げたわね。

「緊急脱出用のシュート、使われちゃったのねえ」

 覗いてみると筒状の布が続いている。

「ジョンの顔が怖かったからかしら。って冗談よ」

「これってどこに通じてるの」

「第3区よ」

「第3区って<扉>がある区域じゃない」

「緊急脱出を想定してつくってあるんだもの第3区につづいているのは当然よ」

「ジュリエッタ、」

「<扉>はこっちでなんとかしておくわ。後を追って」

「ありがとう」

 ジュリエッタの声を背中に受けて飛び込む、というより重力よろしく落ちていく。

 第3区には出入口に続く<扉>がある。

 それは行商人などが使うもので僻地にあるこの場所へのひとつの通行手段として使われている。一度ラジオ塔を訪れた者は通行証として鍵を受け取ることができる。

 それが第3区にある<扉>の鍵だ。

 いくつも設置されていて行きたい場所へと行ける仕組みになっている<扉>はその鍵を使った者のみが往来を許されている。

 つまり、もし、万が一なんらかのタイミングでトルシュカが扉を潜ったとしたら探しようがない。

 あの子、どうして逃げたのかしら。

 話が急すぎたかと考えあぐねているうちにシュートから放り出され体勢を整えて立ち上がる。

 第3区は売り買いがされる場所として作られた闇市場だ。普通では手に入らないものを見つけられる場所を提供することでこの街はお金を循環している。骨董品や布、薬品や乾物が並べられた喧騒の間を縫っていく。毛や鱗に覆われた者や頭が時計であったり腕が機械であったり。買い手も売り手も種族様々だ。この中にトルシュカが飛び込んだならばそこかしこで騒ぎになっていてもおかしくない。はやく見つけないと。

 先に<扉>に行ってみよう。と思い立った先の一画に人垣ができていた。

「俺じゃなくて、こいつ」

 中からは聞き覚えのある声が聞こえて引き寄せられるように群衆を割って入っていく。だいぶ嗄れた老人と見慣れた少年が対峙していた。先程の声はこの少年のものだろう。その少年の腕の先を辿っていくと薄汚れた男がいた。一点に視線が集中して縮み上がった男は慌ててトルシュカの手をすり抜けて行ったのを屈強な男たちが声を上げて追っていく。

「お前かー!」「待てー!」「この野郎」

 男たちは逃すまいと男に飛びかかって積み上がっていき1番下敷きになった男は文字通り動けないでいた。その周りを屈強な男たちが取り囲んで群衆の関心はそちらに移っていきその間を縫って少年を背中に隠すように立ち塞がる。

「ごめんなさいね、この子私の連れなの。ちょっと迷子になってて」

「いや、それはべつに⋯⋯って、なんだジョンじゃねぇか。おめぇここでなにしてんだ」

 顔を合わせた老人には見覚えがあった。顔に深い皺を浮かべていたが昔よりも刻まれた皺が深くなっていた気がした。

「あんたこそなにしてんのよ」

「そりゃあ決まってんだろ。これだよこれ」にんまりと笑って小指を立てた。

「あんたも懲りないわね。その内刺されるわよ」

「それが男ってもんだろ」

 馬鹿な男と思いつつトルシュカに手をかして身体を起こしてから「見せ物じゃないわよ〜散って散って」群衆を追い払うように声を上げた。

 トルシュカが服の埃を払っていると老人が頭を下げていた。

「さっきは悪かったな。てっきり泥棒かと」

「⋯⋯誤解が解けたなら俺はそれでいい」

「お前ジョンと旅してるんだろ、今度奢らしてくれ。じゃあ俺はこいつを引き渡してくるからまたな」

 縛り上げられ縮み上がった薄汚れた男は諦めたようで項垂れていた。

「一体なにがあったのよ」

「べつに」

 なんでもなくはなさそうだったか案外気にしていなさそうだったのでそれ以上訊かないでおいた。

「さあ帰るわよ」

 そこで思い出したように逃げようと踵を返したトルシュカの腕を捕まえる。

「私から逃げるなんて良い度胸じゃない」

「は、はなせ」

「なに、どうしたのよ」

「あの人、なんで俺を探してたんだ」

「あの人?ああジュリエッタ?私が知るわけないでしょ。でもトルシュカ、あなたには心当たりがあるみたいね」

 話す気はない、か。

 体を固くしたトルシュカはおもむろに袖をめくり上げたところには縦線が並んでいた。その印には見覚えがあった。

「俺の名前は、アレックス・ジェナード」

 ジェナードの姓は北でよく聞く名前だ。

 その大陸の持ち主の名を冠していたからだ。ジェナードには妻と子供がいたが彼は家庭外にも子供をつくった。それに憤慨したジェナード夫人はひとり残らず殺して回ったという。語り継がれる与太話に尾鰭がついたものだとメロジットは取り合ってくれなかったが案外そうでもないらしい。

「あなた、生き残りなの?」

 ジェナードは生前妻と子供、そしてその他の家庭にも平等に遺産を残した。ジェナード夫人が怒り狂うに至ったのはそういった理由からだった。その遺産を受け継ぐ目印として身体のどこかにこの印があるらしくそれを見つけるべく賞金までかけられたとか。

「俺はなにもいらない。ただ平穏に生きていたいだけなのになんで。金ならやるのに」

 野次馬心で話を聞いていたことを心中で謝罪しつつ、そこまで聞いてから疑問が浮かんだ。

 ジュリエッタはお金には興味がない。

 やろうと思えば自身で生み出せるからだ。

 それにこの街の歴史からいえばたぶんジュリエッタはトルシュカを受け入れはしても追い出すことはないと思う。

「もしかしてジュリエッタがあんたを突き出すと思ってる?」「そんなことしないわよ。失礼な子供ね」間髪入れずトルシュカがうなずくよりもはやく答えた声にその場を飛び退いた。

「あんたもなに驚いてるのよ」

「いや、だって、驚くでしょ」

「で、トルシュカ。あんた殺されると思ったの?」

 居心地が悪そうに目を逸らして答えはしないトルシュカにジュリエッタがため息をついた。

「馬鹿ねぇ。そんなことするわけないじゃない。面倒くさい」と言い置いてからおもしろいことを思いついたようににやりと笑って口を開いた。

「あ、そうだ。面倒くさいついでにジェナードだっけ?その夫人どうにかしてあげましょうか?」

「どうにかって?」

「それは殺すに決まってるじゃない」

「や、だ」

「なんでよ。あんた殺されそうになったんでしょ」

「それはそうだけど嫌だ」

「命を狙われなくなるのよ?」

「⋯⋯たぶん、返ってくるから。した分の報いは、返ってくるから。だから嫌だ」

 たどたどしくもそれだけいうと俯いていた顔を上げてジュリエッタを見据えていた。

「ふぅん、そう。まああんたがいいならいいんじゃない」

 満足したもしくはそれ以上興味がないと言うように追求するのをやめた。

「待ってくれ。なんで俺の名前知ってたんだ」

 ふっ、と息を吐いてから「ここではね、秘密なんてないのよ」妖艶に微笑むジュリエッタに背筋が伸びたのを隠すようにジョンは声をあげた。

「話はついたわね。帰りましょう」

「掴まって」とジュリエッタ。

「落ちないでね」とジョン。

 ジュリエッタに飛び乗っていく。

「へ、あ、うわ、うう浮いてる」

「トルシュカ、うるさい。だから言ったじゃない」

「まさか飛ぶなんて思わないだろ」

「あんまりうるさいとふたりとも落とすわよ〜」

 緩やかに放った声に含まれた殺気に口を噤んだ。



 *



 私は寄るところがあるから。

 途中で降りてしまったジョンを見つめると「大丈夫よ、またあとでね」と頭を撫でられて少しだけ安心できた気がした。

「少しだけ案内するわね、掴まって」

 答えるよりも先に速度を上げて建物の間を垂直に登っていく背中から落ちないように肩にしがみついた。風が身体を後ろへと引き剥がそうとするのを目をぎゅっと瞑って掴んだ手に力を込める。

「トルシュカ、もういいわ」

 おそるおそる目を開く。

 ジュリエッタの肩越しに見えたのは真っ黒な壁だった。

「この子は空クジラ。可愛いでしょう」

 視点を広げてみると壁の一部と目があった。

 背中の一点から水を名一杯高く振り上げて雨を降らしてその中を縦横無尽かな飛び回ったと思ったら方向を変え地中へと突っ込んでいく。緑色の草原にみえるけどこのままつっこんだらどうなるかトルシュカでもわかる。

「わーぶつかるぶつかる!」

 声を上げてみるもジュリエッタは聞いているのかいないのか反応はなく内臓がふわっと浮くような感覚に腹の底から泡立つような昂揚感があった。直前で身体を捻って着地するとあたりに風が舞う。

「どう?飛ぶのも悪くないでしょ?」

 よろよろになりながらジュリエッタの背中から降りると手が熱を持っていてほどよい疲労感に頷くことしかできなかった。

「今度は地上を案内するわね。ここは第1区。1番上で主に住居区となってるわ」

 さあ行きましょう。差し出された手によって立ち上がる。草原だと思っていたのは畑だったのだと手を引かれ降りた階段によってわかった。

 ぬかるんだ靴底には泥がついて重力が増したようだった。階段の縁に靴底を付けて泥を削ぎ落としていく。

 階段と隣の建物は密着していて薄暗さに目眩がした。3階分程階段を降り終える頃には明るさが増えた。

 建物をぎっしり挟んだストリートには人がそれなりにいてその間で色を反射する石が点々と突き刺さっていた。天を仰ぎ見ると不思議と暗さは変わらない。

「あれは夜行街の鉱石。北の街で取れる鉱石で光を吸収して暗闇を明るく照らしてくれるわ。同じ鉱石でラジオ塔もできてるから夜になったら光るわよ」

「ジュリエッター!」

 ストリートに響き渡る声は建物の2階から手を振っている女からだった。

 ジュリエッタが顔を向けると女は嬉しそうに顔をくしゃりと崩して笑った。

「今日も綺麗ね!眼福だわ」

「ありがとう」

 人々が声をかけるたびにジュリエッタは律儀に答えていく。

「13番目、また頼むよ」

「こちらこそ」

「13番目?」

「名前を代々受け継いでるのよ」

「じゃあ、受け継ぐ前の本当の名前は?」

「さぁ。とうの昔に忘れちゃったわ」

 本当にそうだろうか。なんとなくちがうような気がした。でも口にはしなかった。訊かれたくないような気がしたから。

「ここで採れるものにはわずかに魔力が込められていて魔力は生気の源になり身体にできた傷の治りがはやい。トルシュカ、あなたの傷もすぐ良くなるはずよ」

 聞き慣れない言葉にジュリエッタを仰ぎ見る。

 それは本だけの話じゃないのか。

 トルシュカもまだ小さい頃読んでもらったことがある。魔法や魔術や魔力で世界を救う話だ。

「ここではあなたが1番普通の部類に入るんでしょうね」

 普通。

 確かにすれちがう人は人と呼べるものかはわからなかった。全身液体であったり顔に花が嵌め込まれていたり口の間から牙が見えたり。はたまた顔だけ獣であったり。小さいドラゴンが飛んでいたり。人形が歩いていたり。その中にいる自分自身が浮いているように思えた。

「ここには様々なものが集まるからね」

「じゃ、じゃあ、ここにいたら魔法を使えるようになる?」

「う〜ん。それは無理ね」

 ばっさりと切り捨てられて肩を落とす。

 わかってはいた。あれは子供騙しで「魔法は勉強しないと」「ほんと?」ジュリエッタの言葉に食い気味に詰め寄る。

「ええ」

「じゃあ、俺も魔法が使えるようになる?」

「ええ」

 ガッツポーズで喜びを噛み締める。

 魔法が使えるなんて本の世界に飛び込んだみたいだ。足取りが軽くなる。今だったらなんだってできそうに思えてくる。

 ジュリエッタは枠の縁に登っていく。

「これは秘密ね。怒られるから」

 ステップを踏んで歌うように踊るジュリエッタ。

 その先に見覚えのある車が目にとまった。

 中を覗き込むと誰も乗っていなかったけど車の中で食べたあとのゴミが紙袋に詰め込まれていた。

 あいつ、逃げたわね。と言ったジュリエッタの声が耳に届いた。



 *



 名前を呼ばれたような気がして顔をあげると会いたくなかった奴だった。

「その顔は何よ。その顔は」

 答える代わりに飲み物を呑み下す。

 椅子の上に紙袋を積み上げていくジュリエッタと脚の長い椅子に格闘しながら座るトルシュカ。

「マスターいつものお願い。あとジュースも」

 氷を含んで口の中で転がす。

「なぁに席を立とうとしてるのかしらメロジット?」

「いや、俺用ないし」

「旧知の仲じゃない。一緒にお酒を飲んでもいいでしょ」

 椅子に腰を下ろす。

「願ってもないのになんであたしの周りにはこうも厄介なのが集まるのかしら」

 俺に言われても。

「あんたはあんたで難儀なもんを抱えてるようだしね」

 自身の中を切り開いて覗き見られたような気持ち悪さから居心地が悪くなってグラスを煽って残りの氷を含む。

「まああたしには関係ないけど。じゃああたしはちょっと呼ばれてるからあとはあんたがお願いね」

「なんで俺が」

「メロジット、あなた、あたしに貸しがあるでしょう?」

 わずかに頰が引き攣ったのがトルシュカの瞳に映っていた。

「わかった」

「じゃあまたあとで会いましょう」

 マスターと言葉を交わすと帰っていった。

「ここまでやってあげたんだから文句言わない」

「なにか買ってもらった?」

「服と靴」

 こんな時どう声をかけていいのか自分には備わっていなかったので考えあぐねてはみたがやはりそれらしい答えは出てこなかったので考えるのをやめた。

「じゃあ他に必要なものはないな」

 店を出てラジオ塔に向かって歩く。

 第1区域は坂が緩やかに続いているがその下を通る第2区域は階段が複雑に形成されており目的地へと比較的はやく着くことができる。

 風呂に入れて食事を済ませトルシュカが寝静まった頃にジョンとジュリエッタが酔いどれになって戻ってきたが酒瓶やグラスを持って上の階へと登って行ったのを見送っていく。

 あいつらまだ飲むつもりか。

 しばらくしてから2階へと上がるとベッドからシーツを剥いでジョンとジュリエッタにかけていく。

 自身もそのひとつをとってはみたが階下に降りてソファに身を埋めた。



 *



 瞼にあたる眩しから逃げるように寝返りを打ったら埋めた顔にあたるふかふか具合に違和感を感じて目を開けた。ぼやけた視界に見慣れない部屋。光に吸い寄せられベット脇の窓枠に手をかける。眼下には草原が広がっていてその中には人々が収穫をしているようだった。窓を開けて朝の空気を室内に取り込んでいると人がドラゴンに乗って飛んでいた。赤いドラゴンだった。こちらに気づいたドラゴンは「ラジオウィークリーで〜す。良い1日を〜」と言って新聞を放って寄越した。お礼を言うと答えるように羽ばたきて窓を揺らして行ってしまった。広げて見ると聞いたこともない国々の内情が書かれている。それを抱えてベットを降りて部屋の扉を潜ると窓辺に置かれたソファにメロジットが寝ていた。声をかけようか迷っているとどこかからか話し声が聞こえてきた。聞こえてきた声を追って階段を登っていく。上階には空き瓶を抱えたジョンが寝ていた。その奥には髪を結んだジュリエッタが椅子に座っていて壁一面に嵌め込まれた機械に向かって話しているように見える。なんとなく邪魔をしちゃいけないような気がしてその場に腰をおろした。

 耳に心地良くて眠ってしまいそうだった。

「ジュリエッタ?」伸びを始めたところを見計らって声をかける。

「⋯⋯あーばれちゃった」

 振り返ったのは男の人だった。

 ジュリエッタに似てはいたがガタイも昨日より大きくみえるしなにより胸がなかった。

 胸が、なかった。

 悲鳴に似た声が自身の口からもれたのを塞ぎにかかる男に抵抗するように腕を突き出すとそれが胸元にあたって胸がないことに混乱して慌てて引っ込めるのを3回繰り返しているとジョンが目を覚ました。

「もう、なに。騒がしいわね」

「ジョン、助けて、ジュリエッタが男に」

「あー待って待ってあたしよあたし。あたしがジュリエッタ」

「⋯⋯なに言ってるのそれもジュリエッタでしょ」






「落ち着いた?」

 こくりと頷く。

「てっきり聞いてるとばかり思っていたわ」

「えっと、どっちがジュリエッタ?」

「そうよね、疑問に思うわよね。まあもうこの口調が板についちゃったから違和感はあるかもしれないけれどあたしは男よ。でも今日は外には出られないわね」

「どうして?」

「この姿では出たくないの」

 その言葉通りその日は外に出ることはなかった。

「そうだ、あたしの代わりに街を見てきてくれる?」

「メロー。ついでにお願い」

「はいはい」

「あれ、君昨日の」

「ジュリエッタは?」

「今日は体調が悪いんだと」

「大丈夫なの?」

「寝てれば治る」

「じゃあジュリエッタによろしく伝えて」

「ん」

 慣れたように応えていくメロジットについていく。

「メロジットは知ってた?」

「まあ付き合いが長いからな」

「ふぅん」

「あいつ日によって性別が変わるんだよ」

 日によって性別が変わるなんて実際この目で見るまで理解できなかった。

「たぶん寝てるだろうからこれ届けてやって」

 渡された紙袋を受け取ってジュリエッタの足を見る

 ジュリエッタ?

 ベットの上でシーツに包まって蹲っていた。

「ジュリエッタ?」

「ああ、トルシュカ」

 昨日まで知っていたジュリエッタとは体型を除いてもまるでちがってみえた。

「大丈夫?」

「あたし、すきじゃないの。この姿」

「どうして」

「思い出してしまうから」

 だから自身に対して執着がないのかと府に落ちた。

「どうして」

「さあ」

「ジュリエッタはどうしてジュリエッタをしてるの?」

「そうねぇ。街のみんなを助ける役目、かな。それがあたしの役目だから」

「じゃあ、ジュリエッタが辛い時は誰が助けるの?」




 *




「は?」

 真っ直ぐに見つめられて言葉に詰まった。

「ジュリエッタは誰が助けるの?」

「あーいや、あたしはべつに」

 そんなことを言われると思わなくて言葉に詰まってしまった。だってそれがジュリエッタ・バーンズだったから。魔法で記憶をいじって長におさまって、本当は、嫌だった。結婚だってしたかった。「俺」でいる時よりも長く生きて諦めてしまった。だから、期待をしてしまいそうでこの顔を見るのは嫌だった。

「わかった。じゃあ俺が助けるよ。ジュリエッタが辛い時は俺が助ける」

 真剣な顔をしているトルシュカに思わず吹き出してしまってから訂正する。

「なんだ。笑わなくたってっ」

「ちがうちがう、昔同じことを言った人がいたのを思い出して」

 あの時はなんと答えただろか。

「そうね、助けてくれたら嬉しいな。あたしと一緒にいてくれる?」



 *




 最初のジュリエッタ・バーンズがはじまったのは、私がまだグランジと旅をしている時だった。似たような境遇だと思ったのか匿って世話をしてくれたのが最初の記憶だったと思う。

「ちがうでしょ、ジョン。あなたたちふたりがこの街の食糧を根こそぎ掻っ払っていったから、私たちは自給自足を始めたの。間違った見聞を広めないでちょうだい」

「ちゃんとお礼はしてるつもりだけど」

「盗品じゃない。あんなものどう売れっていうのよ」

「商人にでも売り捌けばいい話でしょ」

「そこから足が付くのは嫌よ。みんなを危険に晒したくはないの」

「危険ねぇ」

 含みがある言い方をした。

「ジュリエッタぁ」甘さを含んだ声が降ってきた。この前建物から手を振っていた女の人だ。よく見たら頰が赤く吐息はアルコールが含まれている。

「酷いじゃない。私と結婚するって言ったじゃない」

「はいはい、酔っ払いはあっちに行って」

 引き剥がされていった。

「まったく。この子くらいよ。あんな風にあたしに話しかけるのは」

 髪を撫でる表情にはどこか嬉しさが見えた。

「13代目、すみません。こいつ酒飲むといつもこうで俺が連れて行きますんで」「いい。あたしがやるわ」断って彼女を抱き上げた。

 宴会を抜けてジュリエッタの後をついていく。

 外は室内の熱気とはちがいひんやりとしていた。

 薄暗い中を見えているように路地を曲がり階段をのぼり廊下を進んで扉の前に立つとジュリエッタが目で示してきた。

「鉢をどけてくれる?」

 そこに置かれていた鍵を取って鍵穴に差し込んでいく。

「ありがとう。ここで待ってて」

 少しするとジュリエッタが出てきた。

 鍵をかけ元の場所へと戻していく。

 来た道を戻っていくと見上げた建物の隙間でラジオ塔が光を放っていた。

 本当に光るんだ。

 ジュリエッタに教えようと見上げたジュリエッタの顔は浮かない表情をしていた。

「⋯⋯ジュリエッタ?」

「あ、ごめんなに?どうかした?」

「ジュリエッタこそどうかしたの?」

「あー⋯⋯」

「話したら楽になるよ。ここには俺しかいないから」

「あーえっと、あの、ね。あの子とね、結婚するはずだったの。記憶も書き換えたのに彼女と関わる頻度が増えるのはどうしてかしらね。ただ、あの子の幸せを願ってるわ。ただそれだけなのに。これが彼女の記憶を書き換えた業なのかしらね」

 悲しげに笑うジュリエッタにトルシュカはどう答えたらいいかわからなかった。でもとても胸が痛くてジュリエッタの手を握る手に力を込めた。

「ごめんなさいね、へんな話を聞かせちゃったわね。ここはある意味すべての情報が集まるわ。だから、あなたにはぴったりだと思うのよ」

 それはなんとなくここにいることが決まっているような言葉に思えてどう答えたらいいのかわからなかった。

「あたしはここを出ることは叶わないから話を聞くのは好きよ。いつかあなたからあなたの話が聞けたら嬉しいわ」

「ジュリエッタ〜」

 ジョンが建物の外へと出てきていジュリエッタに管を巻いてだいぶ酔っているようにみえた。

「はいはい」



 *



 ラジオ塔がいつからあったのか聞いたことはなかった。それが当たり前だったから。

「ジョン、あんた知ってる?」

「なんで私が」

「だってあなたくらいじゃない知ってるのは」

「ジュリエッタが話してよ」

「偶には自分以外の人から聞きたいー」

 期待するような眼差しを向けられて助けを求めたメロジットには「そういえば聞いたことないな」と言われて仕方なく話すことにした。

「そうね、昔聞いたのは」

「ここはもともと国境だったのよ」

「国境?」

「誰の土地でもないってこと」

「どちらにしてもうやむやにしたかったんでしょ。そこを勝手に拝借したって話」

「へー」

「それだけ?」

「それだけよ。真実は平凡なの」






「で?話していない話があるでしょ」

「なにが」

「どれほどの付き合いだと思ってるの」

「あー、まあ」

「本当に聞きたい?」

「ええ」

「先住民がいたらしいわ」

「いた?そんな話は一言も」

「誰かの幸せは犠牲の上に成り立っている。そういうことよ」




 *




 氷がグラスの中で揺れた。

 板間の上に引かれた柄の絨毯に足を伸ばしていると階下からは灯りと喧騒がきこえてくる。

「あら、あなたが注いでくれるなんて」

 壁にはいくつもの精密機器が嵌め込まれていた。時折性別問わず声が聴こえてくる。それが妙に心地いい。どうやらいくつかの回線を盗聴しているらしくいくつもの訛りが含まれていた。まああれだけの依頼をしているんだからこれくらいは当たり前だと思った。

「べつに、ただ、自衛のためよ」

「ふぅん」

 なにも言っていないのだがいくらか感じるところがあるらしい。

「なによ、意味有り気ね」

「べつに、ただ、あんまり広げると足元掬われるぞ」

「あんたに言われなくったって」「お前が扱ってんのがどういうものなのか理解しておけって言ってんだ。お前がどうなろうがどうでもいいとしてお前が抱えてる奴らがどうなるか考えろ」

 あーくそ。だから来たくなかったんだ。と口籠ったのが聞こえた。

「そういえば、あの子、どうするつもり?」

 これ以上話すつもりはないと言わんばかりに話を逸らされた。こっちも良い方に向かう話ではないのでジュリエッタの話に乗る。

「あなた、面倒をみれるの?おおかたここに来たのはあの子を預ける為でしょ」

「だってそれがあなたの依頼だったでしょう」ジョンが代わりに答える。

「トルシュカは?」「寝たわ」

「なんだ、初めからばれてたの」

「なにが街を救ってほしいよ。あんたの場合救ってほしかったのはあの子でしょ。わざわざ連れて来てあげたんだから感謝してよね」

「はいはい感謝してるわジョン」

「できれば幸せに生きてほしい、ただそれだけ」

「簡単に言ってくれるわね。まあ、あの子が私くらいになった時に少しでもいい環境であってほしいと願ってるわ」

 ジュリエッタの言葉には曖昧な、行末がわかっているような、悲しみが込められているような、そんな空気感が込められている気がした。

 なにか言った方がいいのかと考えもしてみたがそれはそれで安っぽいような気がしてやめた。



 *



 目を覚ますとふたりがいないことに気づいた。

 死屍累々をかき分けて外に出ると建物の隙間は青さに光が灯り始めていた。

 置いていかれた!

 履くものもそこそこに駆け出す。

 ここに来た時の道順を頭におこしてくだっていく。

 見慣れた車が見えて息を吐き出した。

 よかった、まだいた。

「トルシュカ、あんたなにしてるの」

 気づいたジョンが声をかけてきた。

「もう、行くの?」

「ええ」

 じゃあ俺も。と歩き出したら腕がなにかに引っかかった。

 ジュリエッタだった。

 行っては駄目だと言うように首を振っている。

「あら、ジュリエッタも見送ってくれるの?」

 も?

「それは俺も見送りってこと?」頭に疑問が浮かぶ。

「ええそうよ」

「ふたりは?」



 *




「私たちは旅を続けるわ」

「俺も、ジョンとメロジットと一緒に行きたい」

 絞り出した声に唇をぎゅっと結んで俯いていた。駄目だとわかっていても、たぶん彼が初めて口にしたわがままかもしれない。

「あんたは戦力不足」

 それでも彼を旅に同行させるわけにはいかない。

「でも」それでも食い下がろうとするトルシュカ。

「でもじゃない。子供は邪魔なの。あんたを抱えて旅をできる自信はない」

 握り込んだ手の力が強まったようにみえて名前を呼んだものの続く言葉は出て来ず目を合わせようとしないトルシュカに「ここでたくさんの知識を蓄えてその上でその時どうしたいか決めればいい」メロジットがフォローをいれる。

「じゃあその時には一緒に旅をしてもいいの?」

 少し考えて「勝手にしたら。あんたの人生だもの」と言ったジョンに嬉しそうにトルシュカは頷いていた。

「じゃあね、トルシュカ」






「ずいぶんと離れ難そうだったな」

「まあ、情も湧くわよ」

 車のミラーには遠慮がちに手を振るトルシュカと対照的に嬉しそうに手を振るジュリエッタの姿があった。

「トルシュカ、もし政府に入ってきたらどうするんだ」

「ジュリエッタがいるから大丈夫でしょ。あの子がなにを選択するかはわからないわ。でも、生きていれば道筋なんてものはどうにでもできるものだから」

「それもそうか」

 どことなく納得してメロジットは次の街に着くまで暫しの眠りにつくことにした。

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