正しく書けない日本の若者

韮崎旭

正しく書けない日本の若者

 何がこうなったのか、叔父は怠業が常態化した職場の事務机でシュトーレンを切り分けながらつぶやいた。悲しくてならないとでも言いたげな哀愁と庭園がにじみ出るパッとしないおじの後ろ姿には、つぶさに撮影して映像作品にしたいような映像作品向けの憂いがまとわれていた。私だってこんな井戸を掘りたいわけではないんだ、確かに若いころは青年海外協力隊などで活動しておくと今後の生涯で有益だし、雇用制度の網の目にもよりよく引っかかるから、善処だと感じることも少なくなかった。しかし叔父はいつも落第寸前の成績で酒もたばこもばくちもしないので、絶対に青年海外協力隊のような場所にはなじめないと思った。あれはボランティアの皮をかぶった狗肉であり、アル中の自堕落組織だという強い思い込みがあったせいもある。でも何よりいやだったのは、閑散としたカウンター、殺風景な彩の事務室、死相だと顔貌を見ることに関するど素人でもわかるようなやつれて、濁り、生気の無い、表情に乏しい事務員たち……が作り上げる手の打ちようがない誰だろうがさじを投げたくなる、ことによると自身の心身の健康の最低限の保持のために速やかにその場を離れたくなる、関係受付窓口の事務室(事務所?)に蔓延するよどんだ雰囲気だった。こんな場所に通い続けたら、どんな意欲溢れる、活気のあるボランティア志望者であろうが、その志望をへし折られるに違いないと、ボランティアへの関心・興味・経験がまるでない学生時代の叔父は考えたようだった。大体、金をはらって労働するだけでもばからしいのに、無償でボランティアをするなんて、絶対に労災保険が下りないに違いないと決めつけた。労災保険の下りない職場ではろくでもないことばかりが起きた。浮浪者同然の修理工が、バカ高い工賃を請求しながらとってつけたような工事をしたりだとか、その場にいる人間の全てが、沈黙は美徳であるなどという思想信条のような確固たる理念もないまま、何の意図も気概も意欲もはつらつとした発想力も気力もないことが原因の、二酸化炭素中毒一歩手前のような重苦しく陰惨な沈黙に沈んでいたりだとか、トラックで小学校の投稿の行列につっこむだとか、てんかんの診断書のせいで就労の際に不当な差別を受け障害者雇用っでやとわれたはいいものの、サルでもゴミでもできるあきれた単純作業に従事させられたりだとか、そういう見るに堪えない無残な出来事が関東地方の都市部の主要路線の人身事故よりも11月のインフルエンザ罹患率よりも多くおこるに違いないのだった。少なくとも叔父はそう信じていたし、こんなことなら小汚い畜生の相手など、と自身の潔癖症に関して(とはいえ部屋は缶チューハイの飲みさしや飲み終えたものや、開封したのかどうかも分からなくなっている無数のペットボトル飲料で脚の踏み場もないほど散らかっていたのだが)あきらめたり冷めた気分で接したりしないで、獣医学部でも受験するのだった、と常に落第寸前の成績を取り続けている若かりし叔父は考えたようだった。別に、獣医として社会に貢献しようなんて考えはみじんもなかったが。本当に毛頭、全く、絶無に、そんな気はなかった。ペットを飼って気軽に、または得意げに動物病院に連れてくる人間なんて絶対に商業主義や消費中心の娯楽に洗脳されスポイルされたブルジョワジーのすることだから、共産主義者ではない叔父(わかかりし)にもそれがいまわしいことだとわかった。気軽にペットを飼うなんて明らかに生命に対する冒とくだと叔父のなけなしの倫理観がわめいていた。でも叔父には多分、道ばたで人を殺したり強姦したりしてはいけない程度の倫理観しかなかったし(道ばたでなくてもヒトを強姦してはいけない程度の認識はあったらしいのだが)、おかげで叔父は職業訓練の場で、であろうが求職の際にであろうが、適性検査で破滅的な結果をたたき出していたし、しかしそれは見え透いた設問に対しても自分を偽らない叔父のなけなしの道徳心と潔癖症の産物だったのだから、叔父はやはり道徳的なんだろうと思う。でも、私はその叔父は知らなくて、知っている叔父などどこにもいなかった。それでも自分を偽って適性検査で良好な結果をたたき出し、その実泥酔した女性に暴行や淫行を働いて警察沙汰になる人間よりも叔父は誠実だったし無害だと思う。夜が暗いのは、人間が明るい身にさらされ続けたらきっと自身の善進に耐え切れずに良心の呵責から大規模大量自殺が起こるからに違いないと考えた。他人なんてみんな肉塊だと思っていたし、動物に関しても少しもあいらしいとかいとおしいとか思わず、ただただ汚らしい毛皮が喚き散らして景観としても音像としても最悪で、みんな食肉加工か廃棄処分されたらいいと考えていたのは叔父に関して、間違いがないことだろうと思う。でもそうはいってもやはり、ボランティアの精神は死ぬほど理解できなかったし、助けてほしというなら、毎時毎分毎秒たすけてほしいくらいの強度のうつ状態を叔父は一貫して保持、というか所持していたので、記述に引きずられるまでもなく絶対に誠実な回答は産業医にかかることさえ困難にしたし、それがために叔父のうつ状態はいっそう慢性的になり、遷延化し、手の付けられないふやけたパン生地のような日常生活に酒を飲んであいまいになってゆく嘔吐であったり、暴言であったりする記憶だけがその場や叔父を支配していた。なぜなら彼は落第寸前の落第寸前学生で、自堕落で、記憶があいまいで、自暴自棄で、アル中に関しても一歩手前だったからだ。どうせ生きていてもろくなことがないのに、なんで死んでいてもろくなことがあると思うんだろう、そう思いながら、今度こそは育てて花を観賞して、灰色で塗りつぶされた腐敗し、停滞し、沈降し、淀んだ生活にかすかな明るさを添えようと思ってベランダで栽培していたトマトは、課題、睡眠、飲酒、意識の無の状態、課題、アルバイトの検品、課題、喫煙、こんにゃく、課題、痛飲、などの隙間にどうしてもその世話の居場所を見つけることができないで枯れた。というか育て始めた頃は愛らしいとも思えたが、それが植物である前に生物であると認識するに至り、何とも汚らわしく、うとましい、いやな心地がしてきたから、だんだんと、ただ見たり、意識の壇上に登らせることですらおぞましくおっくうになってきて、放置しているという事実を認めることすら嫌で、もう一切をこの植物に関して放棄して、ゴミ捨て場に捨ててしまおうと何度も考えたのだが、プランターに触ることすら不潔極まりない醜悪な所業に思えてきて、気が付いたころに計れてしまっていたトマトの植木鉢の土中にいる微生物の数を考えるにますます憎たらしくなり、おかげでベランダで喫煙する習慣もなくなってゆき、喫煙所でタバコを吸うようになったのだが、喫煙所というのが彼の住居からやや離れた場所にあるのにもかかわらず喫煙所でタバコを吸いたいがために、といってバイクを運転するのも不快だしばからしいほどの近場でもあったので、そもそも二輪車の運転免許をも所持していないことを計算に入れないにせよ、喫煙所まで歩くことが度重なったので運動不足と不摂生が続いていた落第寸前学生の叔父の健康は、田場港を吸いたがるに当たって、いくばくかの改善を見たらしかった。とはいうものの、喫煙所で誰かと交流を持つでもなく、人間が全滅してくれたらいいのにと思いながら漠然と無言でひたすらタバコを吸い、飽きたらかえって睡眠改善薬を過料摂取して(睡眠導入薬ではなかった、それというのも、叔父は精神科を受診することをめんどうがって先送りにし続け、とうとう在学中には一度も受診しなかったためだ。)意識をあいまいにしたり、叔父はしていた。そうはいっても、精神科にかかるべきであったのは確実に叔父なのであって、彼の隣人ではなかった。隣人のことなんて知ったことではなかった。早々に野垂れ死んで隣室が空き部屋になればよいと考えた。だいたい、隣人なんてどうせアルバイトとサークルと学業と恋愛沙汰を掛け持ちして、要領よく授業をさぼり、要領よく友人と提携して、当人にとっては最小限の努力で最大限の結果(試験の評価等)を出したつもりでいて、青年海外協力隊なんかもまんざらじゃなさそうな顔をしながらカンボジアか香港とか台湾とかシンガポールとか旅行して、ついでに短期留学して留学した俺えらいみたいないい気分にひたって、その効率よく講義をさぼることがいかにハイコストで面倒なことで、自分みたいな人間からしたら絶対にお行儀よく出席して自分でノートを取り、そもそも友人がいないので友人に頼ることなどなく、自力で試験やレポート課題を行った方がはるかに楽で「コスパがいい」かなんで考えもしない奴に違いがなかったので、もう早く自分の認識できる世界からいなくなってほしかった。そんなことを考えている間に世界はどんどん狭くなり、ゴミ屋敷状態の荒廃を目前にせざるを得ない日々が続き、何もしていないのにすべてがうっとうしく、そうしてますます「ボランティアなんて、絶対にろくなものではない。なぜなら俺には善意がないからだ」という意志だけを克明かつ明確にしてゆく作業がはかどって仕方がなくなるのだった。でもパスタをゆでることすらかったるいから、何もしないで「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーフォーゲル」みたいな書名の続きものを、来週は精神科に行こう、予約だけでも取らなくては、そうだ、来週は予約を取りに精神科に行こう! 予約が取れればいくら俺だってにっちもさっちも逃げ道がなくなって、精神科に、予約した日時に行けるはずだ、確かに未来の俺は予約した俺を裏切るかもしれないけれど、でも予約したという事実は月面探査並みに大きな一歩だ、ていうか月面探査なんてどうせガセなので、基本的に精神科に予約を入れることはよいことなので、予約さえ取れれば日々はばら色になるはずだ!


 などと考えていたことももう遠い昔の話だとか思いながらわびしい気分でシュトーレンを切っている。

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