「乳房」
抱きかかえていた娘をベッドにおろす。露出した乳房を授乳しやすいように切れ込みが入った服の中にしまいこんだ。なんだかどっと疲れてしまった。
これでもう一週間ほど、私の娘は私の授乳を拒否している。乳首に口を付けるものの、すぐに口を離してしまうのだ。
原因はよくわからない。ネットで色々調べて対処法を試してみたが、どれもうまくいかなかった。仕方なく、哺乳瓶を使ってミルクを与えている。娘は哺乳瓶なら問題なくミルクを飲むことができた。
「あー。ニップルコンフュージョンかもしれませんね」
心配して医者に行くとそう言われた。
「吸う力が弱い赤ちゃんにとって、哺乳瓶で吸うほうがお母さんのおっぱいを吸うよりも楽なんですよ。よくある話です」
動物としての肉体よりも、人工的に飲みやすくデザインされたゴムの塊の方が好まれるなんて皮肉な話に思った。もしすべての赤ちゃんが乳首を吸うことをやめ、哺乳瓶でミルクを飲むようになったなら、私の乳房の真ん中にあるこの二つの突起は何のためにあるんだろう。そんな妄想が頭をよぎった。
数年前、私の乳房を夢中で貪った男がいた。旦那とは別の男だった。確か、パート先の先輩だった。どうしてそんな関係になったかは正直よく覚えていない。確固たる意志を持ってこの男と寝たわけではない。ただ、何となくそういう雰囲気になっただけだ。
今振り返ればくだらない男だった。いい歳して、何人の女と寝たかが自分のステータスになると信じて疑わない男だった。
男は私の乳首を吸い、乱暴に乳房を揉んだ。「〇〇ちゃん、最高だよ。俺、胸大きい子好きなんだ」そんなセリフを言われたような気もする。今思えばぞっとするような気分の悪いセリフだ。私の乳房を好んで吸うのが娘でなく、この男だなんて、笑えない。
夫とは最近一度もしていない。時間が合わないこともあるが、何よりそういう対象に見えなくなってしまった。多分、夫もそうなのだろう。もしかすると夫の方も浮気をしているかもしれないが、私が咎める筋合いもないし、何よりどうでもよかった。夫の稼ぎはそれなりで、つつましくも家族三人で暮らしていくには十分だった。家事を押し付けるようなこともない。生きていくためのパートナーとしては何の問題もないと思う。
「なあ、お前、浮気しただろ」
夫がそう私に詰め寄ってきた時、私が感じたのは後悔や罪の意識ではなく、「今更?」という失望に似た感情だった。夫は全部を知っていて、敢えて無視しているものとばかり思っていた。何も知らないその姿はいっそ滑稽にさえ思えた。夫からしてみればお門違いの失望だっただろう。私は彼に謝罪し、二度とそんなことはしないと誓った。どのみちもうする気はなかった。
授乳用の服から乳房を出す。今日も、娘は私の授乳を拒否していた。そうなる事を見越してすでに哺乳瓶は用意してあるし、粉ミルクも溶かして温めてある。
しかし、今日はなぜか娘が乳首を口にしないことに強い憤りを感じた。乳首から顔をそらす娘の顔が憎たらしく思えた。
何としても母乳を飲ませるため、小さく脆い娘の唇に私の少し長めの乳首を何度もこすらせ、無駄に大きい乳房を押し付けた。
それでも娘はかたくなに乳首を口にしなかった。
私の中で何かがはじけるような音がした。
「ねえ、あんた。私の事が嫌いなんでしょ? 汚いって思ってるでしょ?」
一度口にすると止まらなかった。だが、娘は何も言わなかった。泣くこともなく、静かに私のことを見つめている。
「あの男にこの胸揉ませたから、吸わせたから、だから私の胸に口を付けたがらないんでしょ?」
娘は何も言わない。
「言っとくけどね。このくらいの事よくある話なんだからね。夫以外の男に抱かれたことない女なんて、ほとんどいないんだから。みんなわけわかんない男と寝たことくらい普通にあるの」
娘は何も言わない。
「ていうか、なんで私だけのせいなの? 結婚してるってわかっていながら私を抱いたあの男の方が悪いでしょ! それに、私に寂しい思いをさせた旦那だって責任は有るわよ!! どうして私だけを責めるの?!」
娘は何も言わない。
「あんただってね。大きくなったらわかるわよ。私と同じ気持ちになるに決まってる。私の言っていることが分かるはずなの! 私は汚れてない! 私は普通なの!」
娘は何も言わない。
「ねえ、分かってよ……私は悪くないの……」
私は絞り出すように言った。
しかし、娘は何も言わず、じっとこちらを見るだけだった。
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