バレンタインデーと印象の虚像化

第12話 憂鬱なバレンタイン


 おしどりという名の鳥を聞いたことはあるだろうか。雄と雌が一羽ずつつがっている光景が有名で、仲睦まじい夫婦を「おしどり夫婦」と表現するくらいだ。


 しかし実はその印象に反して、おしどりの雄は雌に子供を産ませると巣を離れて別の雌を探しに行ってしまうのだという。


 実際は仲睦まじいというほどではなくそれどころか一年ごとに相手が違うというのだから、「おしどり夫婦」という言葉も悪い意味になりかねない。


 こんな風にぱっと見の印象からくるイメージが広がって、実際とかけ離れた虚像が出来上がってしまうことはたまにある。


 例えばバレンタインデー。


 現代日本では、女性が男性にチョコレートなどの贈り物をする日として認識されているが、本来は全く違うものだ。


 そもそもはローマ帝国時代に結婚をすると命を惜しみ士気が下がるということで兵士たちの結婚を禁止する法律があったのだが、これに逆らって兵士たちの結婚式を行ったために処刑されてしまった「聖ヴァレンティヌス」の死を悼んだ記念日なのである。


 それが後に西欧で商業主義的なイベントとして意中の相手に贈り物をする行事として広まり日本にまで伝わってしまった。


 本来ならば清廉にして厳粛な聖人が凄惨な死を遂げたことに想いを馳せるべき記念日のはずなのに、企業の戦略に踊らされて「カカオマスバター」と「砂糖」と「粉乳」で出来た「いかにも体に悪そうなカロリーの塊」をおくりつけるイベントに成り下がるなど実に嘆かわしいことではないだろうか。


 そんなことを考えながら僕はため息をつく。


「何だ? 景気の悪い顔しているな」


 隣の明彦が陰鬱な表情で問いかけた。


 とある平日の昼休み。冬空の陽光が窓から差し込んで、廊下を並んで歩く僕らを照らしている。


「別に」と僕はそっけなく返す。


「そう言えばさ。お前、星原からチョコレートはもらえたのか?」


 明彦の質問に僕は重い石を胃の中に詰め込まれたような気分になる。


 そう、昨日は二月十四日。


 バレンタインデーだった。


 そして僕はクラスメイトの星原とこの数か月でそれなりに気持ちを通わせてデートらしいこともするようになり、親密な関係を構築したつもりだったのだ。


 しかし。


「……もらえなかった」

「マジか? てっきりそういう関係かと思っていたのに」

「うん。僕も心のどこかで期待していたんだけどね……」

「何か、まずいことでもやらかしたのか?」

「いや、そういう事じゃあないとは思うんだ。ただ、さ」


 僕は一日前の放課後に、クラス委員の虹村とした会話を思い出す。





「はい、これ」


 穏やかな笑顔を見せながら虹村は僕にチョコレートが入った箱を差し出した。


「ありがとう。……クラスの男子全員の分を用意するのも大変だったんじゃないか?」


 うちのクラス、二年B組では女子一同が男子クラスメイト全員に義理チョコを配ることになっているのだ。いわゆる、もらえない男子を気遣った救済措置である。そして彼女がまとめ役としてチョコレートを配って回っていたというわけだ。


「手作りってわけじゃあないし、値段もお店も大体決まっているんだから大したことないよ。……月ノ下くんにはいろいろお世話になったから別に渡したいところだけど。でも星原さんからももらったんでしょう?」


 肯定することを前提で訊いているのであろう彼女の質問に僕は小さく首を横に振ることしかできなかった。


「え? 何で?」

「いや、何でだろうな。教室で渡すのが気まずいのかな、なんて思ったんだけど。廊下とかにさりげなく一人でいても近づいてくる様子はなかったし。今日は勉強会はないし、これから帰るところだから。……どうももらえないみたいだ」

「あのさあ。月ノ下くん。星原さんに『チョコレート欲しいな』とか何かアピールした?」

「え? そういう事しないともらえないものなのか?」


 一応、付き合っているつもりなのに?


 僕の反応に虹村は呆れたようにため息をつく。


「考えが甘いわよ。チョコレートなだけに」

「そ、そうか?」

「最近じゃあ友チョコとか、女の子同士でチョコレートの交換するくらいだからね。自分たちで消費するのでも結構お金使ったりするんだよ? 男の子がチョコレート欲しいと思っているんだったら、ちゃんと口に出して言わないとわざわざプレゼントなんてしないかもしれないよ?」


 そういうものなのか?


 考えてみると僕は勝手に「星原は僕のためにチョコレートを準備してくれるものだ」と当たり前のように思い込んでいたが、自分の感覚がずれていたのかもしれない。


 愕然とした表情で言葉を失う僕を見て、虹村は肩をすくめてみせる。


「とりあえず、これ私からね。義理だけれど」


 そう言って彼女はもう一つ僕にチョコレートの包みを押し付けて去っていった。






「……まあ、単純に間が悪かっただけ、なのかもしれないな」


 あるいは星原はそういう行事にあまりこだわらない性格ということもあるかもしれないし。


「そうか、お前も何か知らんが大変そうだな」


 明彦は苦笑いしながら僕を見つめ返す。


「そういう明彦はどうだったんだ?」

「お前と同じだよ。……『救済措置』の他は日野崎と虹村から義理をもらっただけだ」

「何だ、そうか」


 僕らは力なく笑って顔を見合わせてからため息をつく。


 とその時。


 廊下の向こうから見覚えのある男子生徒が近づいてくるのが見えた。

面長で髪を短く刈り込んだ、人の良さそうな雰囲気の少年である。ネクタイの色からして一年生のようだ。


「あれ? 確か、君は……料理部の」

「はい、小宮優治です。しばらくぶりです。月ノ下先輩、雲仙先輩」


 数か月前のことだが料理部でケーキが紛失するという事件が起こり、僕と明彦たちで犯人探しをしたことがあったのだ。そして、その時に顔を合わせた料理部員の一人が彼である。


 見た目どおり人当たりの良い優しい少年だったと思うが、その彼は今、困ったように顔をしかめていた。


「実は相談したいことがありまして」

「相談? ……俺たちに?」


 明彦が首をかしげる。


「はい。他に頼れる人もいなくて」

「とりあえず話は聞くけれど。……何があったんだ?」


 僕の言葉に彼はほっと溜息をついてから話を切り出す。


「実は、昨日バレンタインのチョコをもらったんですが」

「はい、解散」

「よし。……昼休みはまだあるし、日向ぼっこできるところでも探すか」


 僕らは回れ右して足早に歩きだした。


「ちょ、ちょっと? 話を聞いてくれるんじゃなかったんですか?」


 呼び止めようとする小宮くんに明彦がホラー映画の殺人鬼のような笑顔で答える。


「消えろ。ぶっ飛ばされんうちにな」

「すみませんなあ。我々、女子から本命チョコをもらえるような天上人のぜいたくな悩みに貸すような耳は持ち合わせていないんですわあ」


 僕は僕で慇懃無礼な愛想笑いを浮かべて応えた。


「そ、そんなあ」

「それで、今年の世界情勢についてだが」

「うん。アメリカ大統領の外交戦略が影響してくるよね」


 なおもすがろうとする彼を無視するように僕らは他の話題を持ち出しながら再び歩き出した。


「聞いてくださいよ。違うんです! 女子と付き合うかどうかとかそういうのを相談したいんじゃあなくて! そのもらったはずのチョコレートが無くなってしまったんです!」

「……ん? 何だって?」

「どういうこと?」


 小宮くんは憔悴した様子で僕らの質問に消え入りそうな声をもらす。


「だから、もらったはずのチョコレートが無くなってしまって。誰からもらったのかもわからなくて困っているんです……」

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