第1話

 ◇◆◇



……………【1st reconstruction】開始。



事象例100322485を元に特異点【勇者】及び【魔王】の継承を開始。


……………

…………………成功。




 ◇◆◇………《day1》




 俺、伏見真昼ふしみまひるの朝は筋トレから始まる。

 自主トレは運動する機会のない大学生が太らないためには必要な事であり、適度な運動は脳の目覚めを促進させるのだからやらない理由はない。


 大学に通う様になって1年と半月以上が経つが、朝の筋トレは俺にとって既に日常の一部、モーニングルーティン、要は日課になっていた。



「さて、腹筋も終わったし次は腕立てを…」



 ベッドの横で汗にまみれながら腹筋を終え、メニュー通りに次の腕立て伏せに進もうとしたところで自分の手の甲に見慣れぬモノを見つけた。



「おいおいおい。なんだよこれ」



 左手の甲に左右対称の黒い紋様がクッキリと浮かんでいる。

 もちろんその紋様に対する覚えなどあるはずもなく、自分の左手が何か得体の知れないものに侵された様に感じて怖気を感じた。


 もしかするとこの紋様は俺が寝ている間の愉快犯による犯行か、あるいは宇宙人がキャトルミューティレーションするターゲットにつけておくマークか、はたまたエッチな気分になってしまう謂わゆる淫紋か疑いもしたが…



「ま、いっか」



 --俺はその思考を他所に放り投げて筋トレを再開した。

 右手の甲に覚えのない紋様があったところで死ぬ訳でもないし、何があっても焦らずただ的確にいつも通りの行動をするからこそルーティンはルーティン足り得るのだ。

 この朝の筋トレによって今日一日の体調や運勢が大きく左右されるのだから、たかが淫紋(仮)が左手の甲に浮かんでいるだけでは筋トレをやめる理由にはならない。



「ついに俺も秘められた力が覚醒する時がきたのか」



 だから俺はそんな軽口を叩きつつ今日も今日とて筋トレに勤しんだ。



 ◇◆



 朝の筋トレを終えた俺はシャワーを浴び、服を着替え、飯をかっ込み、歯を磨き、軽く髪型を整えて祖母の残した木造建築を出る。

 悲しくも祖母は一昨年の夏に他界してしまい、この古き良き和風木造家屋の持ち主が居なくなってしまったのだが、ちょうどその時期に俺が都内の大学に推薦入学する事が決まったため、両親がこの家を相続し大学生になった俺がその管理がてら一人暮らしをする事となった。


 両親は海外を転々と飛び回り日本に帰って来るのは基本的に盆と正月のみだが、そこそこ大きな家で一人暮らしを出来る事は掃除など多少の手間はあっても、自由気ままな生活を思えばかなり都合が良い。

 ただ、一つだけこの家に難点を挙げるとすればそれは……



「毎朝思うけど大学遠すぎ」



 --そう、俺の住む家は都内にあるとは言っても江戸川区の東、一方の大学は西東京のど真ん中にある。

 何を隠そう電車を乗り継いでのこの移動には片道で約2時間を要するのだ。

 乗り継ぎがうまく行けば1時間40分強でその道を辿る事が出来るが、大抵の場合は家を出てから2時間後に大学に着くのがザラであった。


 そんな無情な登校事情だが、その時間が俺にとって退屈な2時間となるかはまた別の話である。



「あらあらあらぁ? そこにいるのはエロ本マスターの伏見くんじゃない」



 人の胸を掻き立てる様な艶やかな声音が平静を装って彼女が来るのを待ち受けていた俺の耳をくすぐる。

 俺に話しかけてきた女性は完全に成熟し完成された欠点のない女性の身体を持ち、艶っぽい黒髪を背中に流して多くの人の目を引きつけながらも尚、堂々と不敵な笑みを浮かべて駅のホームに立っていた。


 俺はそんな美しすぎる女性に弱みを見せまいとあくまで平静を装って慎重に冷静に悪態をつく。



「こんちは。夜叉やしゃセンパイ」

「ふふふ。私と伏見くんの仲なんだから親しみを込めて夜々やや先輩と呼んでも良いのよ?」

「俺は自分の身の程を弁えているので、ミスコンに欠席しても優勝する様なイカれた先輩には舐めた口をきかない様にしてるんです」

「ふふふ。相変わらず伏見くんは生意気ねぇ」



 彼女、夜桜叉夜よざくらさやはそう言ってクスクスと笑う。

 夜叉先輩は俺の一つ上の大学3年生で、同じ大学同じ学部学科にして同じ最寄り駅の一つ上の美人すぎる先輩だ。


 そんなあまりにも目立ちすぎる先輩が何故俺と同じ最寄り駅で毎朝俺にちょっかいをかけてくるのかは分からないが、俺がこの先輩に目を付けられたのは、つまるところ彼女の長い通学時間の暇潰し相手に抜擢されたという事なのだろう。


 まったくもって良い迷惑である。

 本来なら美人な先輩と2時間も過ごせる事を考えれば泣いて喜ぶべき事なのかもしれないが、俺には彼女の美を凌ぐだけの顔も才能も甲斐性も無いのだし、美人と一緒にいて素直に喜べるほど無邪気ではない。



「そういえば、今朝のアメリカのニュースでワニが大量発生して困っているって言っていたわ」

「へぇ、ヤバイっすね」

「これまたそういえば、ワニはお腹を下から持ち上げられると自分に何が起こっているのか理解できなくて身動きが取れなくなるそうよ」

「へぇ、そうなんすか」

「さらにそういえば、今日の私のカバンはワニの革を使っているのよね」

「ふーん」

「もう一度そういえば、今日の私の下着は燃える様な赤よ」



 夜叉先輩がソシャゲのデイリーガチャを回していた俺の耳元で囁く様にそう言う。

 ほらみろ。やっぱりこの先輩は油断も隙もなく俺の心を玩ぼうと虎視眈々と目を光らせていた。

 それこそシマウマを襲うワニの様に。



「おい、ワニさんはどこに行った」

「最後にそういえば、私の今朝の朝食にワニ肉のナゲットが出たわ」

「食べちゃったのかよ」

「ふふ。さぁ、電車が来たから乗るワニよ」

「ワニの語尾はワニなんすか」

「得意技はデスロールワニー」



 揚々と電車に乗り込む夜叉ワニ先輩の後に続いてサラリーマンのひしめく車内に足を踏み入れる。

 ここで先を行く夜叉先輩から離れて車内に乗り込めば彼女の猛攻を避ける事は出来るのだが、それをした時に限って毎回見知らぬOLや女学生に痴漢の冤罪をかけられるため、今日も吊革を掴む夜叉先輩の横に並んだ。

 痴漢冤罪と夜叉先輩に何の因果関係があるかは依然として不明だが、偶然も重なれば必然となり定理となる。

 科学を駆使し発展してきた人類の端くれである俺にも、起こりうるリスクを過去の事象から事前に察知するだけの頭脳はあった。



「そういえば今日は夕方ごろから雨が降るらしいわ」



 夜叉先輩の舌技は尚も続く。

 つい数秒前はガードを崩されかけたが、まだ俺の負けが決まった訳ではない。


 恐怖を恋情と感じる吊り橋効果という一種のジンクスがあるが、それならば恋情を恐怖と感じる逆吊り橋効果もあるはずだ。

 夜叉先輩といて一番最初に感じる感情が恋情であるかは甚だ疑問だが、俺が夜叉先輩に対して恐怖を感じている事は間違いない。


 しかし20歳を目前にして女性が怖いというのも1人の男としてあまりにも情けない。

 つまり、夜叉先輩は俺にとって克服すべき恐怖の対象なのだ。


 だから俺はあくまで平静を装って慎重に冷静に返事を返す。



「それじゃあ、俺は1限だけなんで何の問題も無さそうですね」

「あらそう。1限だけの為に往復4時間もかけて大学に行くなんて伏見くんは真面目ね」

「そういう先輩は何限の授業をとってるんですか?」

「私も1限だけよ」

「……真面目っすね」

「えぇ、そうよ。何せ私は完璧美女ですもの」

「へぇ」



 夜叉先輩が自分で言うように、この人は完璧超人だ。

 成績優秀でスポーツ万能だし、おまけにナンパをするのすら躊躇うような規格外の美人で金も持ってる。

 ただ、夜叉先輩にとってそんな事は誇るまでもない当然の事実であるらしく、先程のセリフもひどく抑揚のない簡素なものだった。



「それよりも伏見くん」

「何すか?」

「凄い汗ね」

「ちょっと怖い人に絡まれまして」

「そう。とても良い匂いがするわ」



 先輩がそう言いながらちょうど先輩の顔の近くにあった俺の右脇の匂いを嗅ごうとしたが、俺は右腕を下げて左手で吊革を掴んでそれを阻止する。

 この人はいきなり電車の中で何をするんだ。

 ほら、目の前に座ってるOLっぽいお姉さんがビックリしちゃってんじゃん。



「あら残念」

「最近はスメルハラスメントっていうのもあるらしいですよ」

「それは強い匂いを周囲に放つ事がいけないってものでしょう? 私がやったのはただのセクハラよ」

「それじゃあ可愛い後輩にセクハラしないでください」

「嫌よ。私の数ある趣味の一つが伏見くんにセクハラする事だもの」



 OLのお姉さんが見ているというのに、今度は俺の腰に背面から手を回して左の脇腹を撫で始める。

 こそばゆさで思わず叫び声が出そうになったが、グッと堪えて先輩の顔を睨みつけた。



「痴漢は犯罪です」

「痴漢っておろかなおとこと書くけれど、女性が主体の行為も痴漢になるのは何故かしらね」

「どうでも良いです。ほら、大人しくしていてください」

「それじゃあ続きは後でにしましょうか」

「嫌です」

「それじゃあここで?」

「………。うるさいぞおろかな女」

「ふふふ、これ以上は嫌われてしまいそうだから今日はここまでにしておくわ」



 先輩がクスクスと笑いながら、俺の腰から手を離して正面を向く。

 その動作の途中で夜叉先輩に微笑みかけられたOLのお姉さんが頰を赤くしていたが、俺はそれに気づいていないふりをして金網棚の上にある広告に目を向けた。


 はぁ、緊張の汗と冷や汗で大量の汗をかいてしまった。



「ねぇ、伏見くん」

「今度は何すか?」

「その右手のタトゥー。クソダサいわね」

「………………。マジで?」

「マジよ。少しセンスを疑うわ」



 ぐはっ!

 俺は美人でお洒落な先輩にクソダサいと言われて精神的なダメージを負った。

 それよって俺のHPは底を尽き、今日も夜叉先輩克服への道は敗北の二文字をマークしてそこで終わった。



 ◇◆



 大学での退屈な授業を乗り切り、学部棟の前で目を光らせていた夜叉先輩の目をかい潜ってどうにか電車に乗れた俺は大学から出た足のままバイトに向かう。

 俺のバイト先は本屋と喫茶店が合体した複合施設だ。


 元々は本屋と喫茶店がただ横並びになっていただけの2店舗だったのだが、壁をぶち抜いて本を買ってすぐに喫茶スペースで本を読める様にしたら客足が伸びたらしいから、商売は分からない。



「さてと、今週はラノベの新刊が出るから適当に並べてポップを書いて後は…」



 バイト先指定のエプロンを身につけつつ、事務所にかけられたカレンダーを眺めながら今日の仕事を確認する。

 そんな俺の元へオカッパ頭の店長がやって来て声をかけてきた。

 ちなみに店長は40代半ばのオッさんである。

 別にいたずらに横柄でもなく特別に有能でもないため、俺の店長への関心はほぼ無いに等しい。



「おはよう伏見くん。今月も可愛いポップお願いね」

「はい。今日も中間集計からで大丈夫ですか?」

「うん。特にキャンペーンとかも無いからそれで大丈夫だよ」

「分かりました。それじゃあそろそろ時間なんで入りますね」

「はいよろしくー。って、あれ? 伏見くんそれ刺青?」



 店長が俺の左手を指差しながらオカッパ頭を撫でつけつつ怪訝な顔でそう言う。

 やば、すっかりこれの事忘れてた。



「いえ、多分違うと思います」

「それじゃあお客様の前に立つ前に落としてもらっても良いかな?」



 俺のバイト先は世田谷区の一等地にあるため、客層は高所得者が多く身だしなみにも色々と決まりが多い。

 もちろん手の甲の刺青など持っての他である。



「すみません。落とせないです」

「落とせないって、それじゃあ困るかなぁ」

「すみません」

「うーん。今日は落とせなくても、1ヶ月ぐらい待てば落ちてたりしない?」

「すみません。それもちょっと分かんないです」



 いつどうやってこの右手の甲にこの紋様がついたのかも分からないのだ。

 もちろん落とす方法なんて知る由も無い。

 今朝もシャワーを浴びた時に色々試してみたけれど、薄くなる事すらなかった。



「うーん。伏見くんは優秀だからこれからも頑張ってもらいたいんだけど、その刺青があったらなぁ」

「や、やっぱりダメですか」

「うん。今日のところは僕が伏見くんの代わりに入るから、その刺青を落とせたら連絡ちょうだい。それまでは…休職って事で」

「……分かりました」



 これはあれか。

 事実上のクビ宣言か。

 目の前が真っ白になるのを感じる。



「あ、エプロンと名札はそこのデスクの上に置いておいてね。それじゃあ僕はこれで」

「はい。お疲れ様です」



 店長が手早くエプロンを結びながら事務所から出て行く。

 なんとなく店長の冷たい態度にムッとしたが、だからと言ってかけてもらいたい言葉もなかった俺は何も言わずにエプロンを外して裏口から事務所を後にした。



「はぁ。これで俺は無職か」



 バイトをクビになっただけで大学生である事には変わりはないため無職とは言えないだろうが、気分的には路頭に迷った場合と同等のショックを受けている気がする。

 公園で死んだ目をして時計を見てはため息をついているオッサンの気持ちが生まれて初めて分かった気がした。


 実際のところバイトをしなくても海外の両親からの仕送りはそれなりだし、貯金もある程度はある。

 元々バイトを始めたのだって人生経験を増やせたら良いなぐらいの気持ちだったので別にバイトをクビになっても何の支障も無いのだ。


 だからこれはあくまで俺の気持ちの問題で、いつまでも落ち込んでいても何の特にもならない。

 生きていればこういう挫折の一つや二つあるだろう。

 こういう時はどうでも良い事にパーっとお金を使って気持ちを切り替えるのが一番なのだ。



「よし。いつまでも落ち込んでいても仕方ないし…」

「エロ本でも買いに行こう!! かしら?」



 左から聞こえた聞き覚えのある声に誘われて俺の首が無意識に回り始める。

 久しぶりに自分の首がギギギと嫌な音を立てるのを聞いた気がした。



「何でここにいるんですか?」

「ふふ。来ちゃった☆」



 夜叉先輩が自分の頰に人差し指を当てながらキャルんと返答する。

 すごく似合わないポーズだが、顔が良すぎて不快ではなかった。

 ただ、不快では無いだけで快いかと言われればそれもまた別の話なのだが…。



「いつも通り伏見くんが無益な時間を過ごすのを見に来たのだけれど、こんなところで何をしているのかしら? あぁ、そのクソダサタトゥーが原因でクビになったのね。それでそのショックを癒すために新しいエロ本を買って家でハッスルしようと。相変わらず残念な変態さんね」

「限りなく正解に近い受け答えを自己完結しないでください。今日は夜叉先輩に構っていられるほど元気じゃないんで、これで失礼します」

「あら? 本当にそれで良いのかしら? 私ならエロ本よりもステキな方法で伏見くんの傷を癒してあげられるわよ?」

「ま、まさか…」



 まさか先輩が直々に俺を癒してくれるというのか?

 俺の傷ついた心を、先輩が、その体で?



「ええ。私もこういった事は初めてだけれど、伏見くんのためなら一肌脱ぐわ」

「ゴクリ」



無意識にノドが鳴る。

その間に先輩は俺のすぐそばまでやって来て俺の両手を掴みながら耳元で囁く様に口を開いた。



「バイト、急にクビになって辛かったわね…」




 夜叉先輩の慈愛に満ちた表情が俺の傷ついた心を温かく包み込んでくれている様な気がしてくる。



「--でも、もう大丈夫よ」

「夜々先輩…」

「ふふ。初めて私をそう呼んでくれたわね」

「先輩、俺は…」

「大丈夫よ。皆まで言わなくても大丈夫。私が新しいアルバイトを紹介してあげるわ」

「……………はい?」

「だから、私が伏見くんの新しい勤め先を紹介してあげるわ」

「あ、あぁぁ。そういう、そういう…ね。えぇ、分かっていましたとも。ええ」

「あら、それとも伏見くんは私とまどろみの契りを交わす方がお望みだったかしら?」

「〜〜っっ! そんな訳ないでしょう! さぁ、バイトですよバイト! 早くその勤め先とやらを紹介してください!」



 ちくしょう、また先輩に俺の純情を弄ばれた。

 大学一年生の時にアダルトショップで大量のエロ本を買っていたのを見られた時から俺はこの先輩に頭を押さえられたままである。



「ふふふ。相変わらず扱いやすい事この上ないわ」

「そういうセリフは俺のいないところで言ってください」



 はぁ、この先輩に勝てる日が本当に来るのだろうか。

 そう思えてしまって仕方のない昼下がりであった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る