第十五話「不安感の特効薬」

「突然押しかけてごめんね? もしかして、迷惑だったかな……?」


「いや、全然そんなことないよ! 寧ろ、ずっと一人で勉強してて息が詰まりそうだったんだ。丁度いいよ」


 五月十六日、日曜日の昼下がり――萎縮して後ろ頭を掻く政宗を結人は私室へ通した。


 昨日、ローズから結人が勉強に集中しているのは自分のためと聞いた政宗は調査すべく結人の家へ押しかけたのだった。


 政宗は結人の部屋を眺める。以前来た時と変わらない内装。しかし、勉強机の上にはエナジードリンクの缶が並び、目覚まし時計もベッドから移動していた。


 かなり無理して勉強しているのが見て取れ、政宗は心配そうな表情を浮かべる。


「昨日は修司にみっちり教えてもらったみたいだけど、どうなんだ? 苦手は克服できた感じか?」


 結人はやりかけていた問題集を机からテーブルに移動させ、勉強を再開しながら問いかけた。政宗も結人と机を挟んで座り、勉強なのでカバンを開く。


「流石は学年トップクラスの秀才って感じで教え方が上手だったよ。頭がいい人はそういう風に物事を捉えるんだって関心しちゃった」


「そっか。中間テストにその結果が出てくれるといいよな」


「本当だよね! でも、勉強するクセがボクにはないから今回限りかも知れないんだけど」


「そこは大丈夫じゃないか? 修司と同じクラスなんだからまた教えてもらえるだろ」


 結人は少し苛立った口調で言いながら問題集へ回答を記す筆圧を僅かに強める。


(俺、何言ってるんだ……? 自分が気に入らないからって、政宗にそんな言い方する必要ないのに)


 心の中では分かっていても感情が従わず、後悔に愚かさを教授される結人。政宗はそんな彼のいつもと違う態度や口調を不安そうに見つめる。


「……ねぇ、結人くん。どうしてそんなに追い込んだ感じで勉強してるの?」


「ん? あぁ、中間テストで良い成績を取らないとお小遣いカットされちゃうんだよ。だから頑張らないと」


 政宗の方へ顔を向けることなく、手を動かしながら語った結人。そんな彼の横顔を見つめ、政宗は小さく「嘘だよ」と呟く。


 そこから――盛り上がらない会話に気まずさを感じながら政宗も勉強を進めていく。


 途中、分からない問題が出てきて結人に聞こうとするが、彼が纏っている気迫は邪魔を許さないと暗に言っているようで声をかけられなかった。


 そのまま一時間ほど時が流れ――ふとした瞬間だった。


 ばたん、と床に何か重みのあるものが転がる音。物音に反応して問題集から顔を上げた政宗。しかし、視界に結人の姿はなく、机から身を乗り出した政宗は床に彼が倒れているのを目撃する。


「――ゆ、結人くん!?」


 力なくぐったりと倒れ目を閉じている結人を案じて歩み寄る政宗。


 しかし、近付いてみるとあることに気が付く。何らかの病気で倒れたと感じさせるような光景。だが実際は薄っすらと寝息を立てており、居眠りをしてテーブルからずり落ちただけだった。


 何も大事はなく安心する政宗だが――、


「結人くん……君はそんなになるまで何をしてるの? 何と戦ってるの?」


 不意に意識を手放すほどの努力を思って、別の不安感が心の中で渦巻くのだった。


        ○


「…………んっ……俺…………寝てた、のか…………?」


 薄っすらと瞼を開くと窓から差し込む斜陽の輝きが目に触れるのを感じた結人。夕方になった今と最後の記憶で齟齬が生じ、時間が経過したらしいとぼんやり理解した。


(ちょっと楽になった気がする……眠ってしまったのか?)


 意識がはっきりしてきた結人は体が天井を向いていることが気付く。


(今、仰向けで寝てるんだよな? なら床に敷かれたカーペットでも後頭部を預ければそれなりに痛むだろうに)


 結人は仄かな違和感を感じ始めた。しかし、そんな疑問は目を疑うような光景によって答えが明かされる。


「目が覚めた? 随分、無理して勉強してたんだね。よく眠ってたよ?」


「あぁ、政宗。ごめんな。せっかく来てくれたのに俺が寝てちゃ意味ない――って、えぇ!?」


 困ったように笑う政宗を見つめ、その光景がおかしいことに気付く。


(政宗の顔が近い――! 何でこんな至近距離に――!?)


 結人は自分の後頭部が何か柔らかい物の上にあることを理解し、彼は瞬時に全てを悟る。


「ま、政宗……俺、もしかして今――膝まくらしてもらってる……?」


 想像を遥かに超えた事態に混乱する結人。政宗は顔を赤らめ、視線を逸らしつつ、


「……う、うん。は、恥ずかしいから、あんまり意識させないでっ……!」


 ――と、頬を掻きながらボソボソ言った。


 そう、政宗は女の子座りした膝の上に結人の頭を乗せ、彼が眠る姿をずっと見守っていたのだ。まるで戦いに疲れた戦士を癒すように。


 起きてみればそんなシチュエーションの真っ最中だった結人の内心は穏やかではない。


(ひ、膝まくら――! 夢じゃないのか!? 俺、もしかしてまだ眠ってる!?)


 政宗の大きな瞳が眼前に迫っている光景に狼狽しながら、胸に熱いものが込み上がるのを結人は感じた。


 だが、政宗は表情をどこか寂しそうなものへと変え、窓の向こうへと視線を預ける。


「……ごめんね。本当はリリィに変身してやってあげたかったんだけど、結人くんのお母さんが来たら説明つかないから」


「まぁ、この状況でも説明つかない気はするけど……」


「あ、言われてみれば確かにそうだね!」


 ハッとした表情を浮かべ、驚きを見せる政宗。そんな少し抜けたところに結人は気持ちが安らぐのを感じる。


「それにしても思い切ったことしてくれるなぁ。ビックリしたよ」


「頑張ってる結人くんを励ませたらって思ったんだけど……こんな体に膝まくらされるのはやっぱり嫌だよね。ボク、何やってるんだろ」


 眉をハの字にして困った笑みを浮かべ、物悲しい口調で政宗は言った。


 自分のために身を滅ぼす結人に何かをしてあげたくて……咄嗟に出た行動だったのだろう。


 だが、いざ目を覚ました結人がこの状況にどんな気持ちを抱くか?


 それを思って怖くなってしまったであろう政宗の心情。結人はいじらしい政宗の言葉に胸が締め付けられる。


「政宗がしてくれたことだからこそ嬉しい。嫌だなんて思ってないよ」


 穏やかな笑みで語った結人の言葉にきょとんとする政宗。


「本当に? ……本当に結人くんは、ボクだからって言ってくれるの?」


「ああ、もちろんだよ。言ったじゃないか。リリィさんと同じくらい政宗を好きになれそうだって。あれから幾日か経った。俺の気持ちは――あの時のままじゃないんだ」


「それって――」


 息を飲んで言葉を受け止める政宗に、結人は首肯する。


 あの日のすれ違いから導き出した政宗への想いは、奇しくも修司の登場で失われかけた日常に育てられて。


 政宗がどれほど大切で、どれほど切望しているのか――それを知った結人は、あの時より気持ちを深めていた。


「なんか元気出たよ。ありがとう。これならスッキリした気持ちで勉強もできるし、目の前の困難だってぶち壊せそうだよ」


「それ、本当はどうなってるの? お小遣いカットは嘘だよね?」


「うぅ……それは、まぁ嘘だな」


「やっぱり。じゃあさ、結人くんが何のために頑張ってるのか……それが分かる日はくるの?」


 不安そうに問いかけた政宗の言葉で結人は考える。


(政宗に伝わるってことは、修司が告白して……俺が負けた未来ってことか)


 結人は首を横に振るしかなく、不安感に染まった表情を深める政宗。そんな心配を払拭したくて結人は笑みを浮かべる。


「でも大丈夫だよ。必ずいつもどおりの俺に戻る。それは約束するから」


「そっか。……じゃあ、頑張ってね!」


 政宗は目をギュッと閉じて笑い、結人の片手を両方の手で包み込むように握った。


 その瞬間、政宗から伝わる体温が自分と混ざり合うような感覚がし、言葉を越えた気持ちを結人は悟った。


 頭の天辺からつま先までが幸福感で満たされ、ボーっとした感覚の中で高鳴る鼓動が心地よく響く。


(……凄いな。たったこれだけで、何も怖くなくなるのか)


 結人は少し前向きになれた気がしていた。彼女の優しさに触れ、そして体に身を預けて、心は支えを得た。


 支え――それは、愛されている実感。


 今まで結人が投じてきた想いに政宗は少しずつ言葉や行動で答えを示し始めていて。いつぞやの告白を「考える」と言った政宗が少しずつ自分を意識し、想いを傾け始めていると――結人は思えた。


(これは自惚れなのかな? 思い込みなのかな? でも、俺は信じたいし、信じられる。伝わってくる気持ちが全てを物語っている気がするから)


 結人は心の中から一切の不安感を駆逐し、無根拠だが揺るぎない自己肯定を胸に立ち上がり――中間試験、修司との戦いに臨む。

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