第1話『痛がる理由』
「いたたっ……」
それまで楽しそうに笑っていた結衣は、突然痛がった様子を見せ、両手で下腹部を押さえる。
「結衣、お腹が痛いのか? 一緒に保健室へ行くか?」
こういうときはすぐに保健室へ行った方がいい。
お腹が痛いってことは……まず考えられるのは食あたりだな。梅雨入りして、蒸し暑くなる日もあるから食べ物が腐りやすくなるし。次に食べ過ぎかな。
あとは……まさか、で、できたのか? 結衣と付き合い始めてから、キスより先の行為をしているし。もしそうなら、やるべきことや考えるべきことがたくさんある。ただ、初めてしたのは10日ほど前だし、こんなに早く分かるものなのだろうか。
俺が色々と考えていると、結衣は「ううん」とかぶりを振り、俺達に笑顔を見せる。
「だ、大丈夫だよ。単なる筋肉痛だから。実は今朝からちょっと痛くて。笑ったからお腹に響いちゃったんだろうね。腰や太ももとかも痛いかな」
「そうだったのか。じゃあ、保健室に行かなくても大丈夫かな」
「うん。とりあえずは大丈夫だよ」
「そっか。ただ、無理はしないで。……それにしても、筋肉痛か。結衣はストレッチを習慣にしているよな。昨日はたくさんしたのか?」
「最近は減ったのですが、中学生のときは、たまにストレッチのし過ぎで筋肉痛になっていたのです」
「そうなんだね。あたしはダイエット以外だと運動を全然しないから、バイトを始めた頃は筋肉痛になったなぁ。あと、前にも話したけど、頻繁に肩凝りが……」
苦笑いをしながらミニトマトを食べる胡桃。まあ、胡桃は……とても大きな胸の持ち主だからな。
俺も運動はあまりしないから、体育の授業の後は筋肉痛になることがあったな。特に苦手な球技をやったときは。
「姫奈ちゃんの言う通り、最近はストレッチのし過ぎで筋肉痛になることは少なくなったよ。ただ、今回筋肉痛になった理由は……た、多分ね……」
頬を赤くして、俺のことをチラチラと見てくる結衣。
「昨日の夜に……お風呂でしたんだ。その……き、気持ちいいことを。一人で。たくさん」
俺達にしか聞こえないような小さな声で、結衣はそう言ったのだ。
言葉を選んでいたけど、結衣が昨日の夜に何をしていたのかすぐに分かった。
胡桃と伊集院さんも分かったのか、頬をほんのりと赤くしていた。俺も頬が熱くなってきている。
「3人の反応からして、私が何をしたのか分かってくれたみたいだね。昨日、私も声で参加した曲が公開されて。姫奈ちゃんと胡桃ちゃん達はもちろん、世界中の人達から私の声についていいっていう感想をもらって。そのことが嬉しくて、感動もしちゃって」
「……結衣、涙を流していたもんな」
その姿が美しかったので、とても鮮明に覚えている。今思い出しても心にくるものがある。誰かの声が入った作品は、昨日公開した『想い』が初めてだったからかな。
「うん。それに、ちゃんと公開できたのが分かったとき、私、出産したみたいだって言ったじゃない」
「言ってた。結衣のボーカルはあの曲では重要な要素だからな」
「ふふっ、結衣らしい発想なのです」
「そうだね。でも、今の2人の話を聞いていると出産も納得できるよ。あの曲は結衣ちゃんの声があることで、温かい雰囲気がより伝わってくるの。凄くいいなって思う」
昨日、公開した直後に、胡桃はメッセージやチャットで感想をくれた。それも嬉しいけど、こうして面と向かって凄くいいと言ってくれるとより嬉しいな。結衣の声について絶賛してくれたからか、結衣もとても嬉しそうな表情に。
「ありがとう、胡桃ちゃん。それで、その……出産って言ったからか、夜になったら興奮してきちゃって。お風呂の順番も私が最後だったし、浴室の中で悠真君のことを想いながら……し、したの。今までの中で一番気持ち良くて。幸せな気持ちにもなれるから何度もしちゃって。だから、今日になってお腹や腰、太ももの辺りが筋肉痛になったんだと思う。あと、右手の人差し指と中指も動かすと、ちょっと痛い……です」
えへっ、とはにかむ結衣。
浴室の中で、一人で色々とする結衣の気持ちは分かるけど、様々なところが筋肉痛になってしまうとは。どんだけしたんだよ。ただ、結衣は俺に告白してから時折、厭らしい言動をしてくるので、彼女らしいとも思える。
結衣が体をあちこち痛めている理由が分かったのはいいとして、そんな彼女にどんな言葉をかければいいのだろうか。
「……な、なるほどな。その……これからはほどほどにしよう」
迷った末にそう言ったけど、果たしてこれが正解だったのだろうか。
「ひ、低田君の言う通りなのです。快感や幸福感を味わえるからたくさんしたい……という気持ちも理解はできるのですが」
「な、何事もほどほどがいいよね! やり過ぎには気を付けないとね!」
伊集院さんと胡桃はそう言うと、うんうんと頷き合っている。そして、再びお弁当を食べ始める。
右手の人差し指と中指に痛みがあると、箸はもちろんのことシャーペンやボールペンを持つのにも支障がありそうだ。さっき、箸を落としたのはお腹だけじゃなくて、右手の人差し指と中指も痛んだからかもしれない。
「結衣、右手を出して。軽くマッサージをするから」
「いいの?」
「もちろんさ。それに、
「そうだったんだ。じゃあ、お願いします」
そう言って、右手を差し出してくる結衣。こうして見てみると、結衣の手って本当に綺麗だな。爪もちゃんと手入れされているし。
俺はさっそく、結衣の右手の人差し指と中指を軽く揉み始める。
「どうだ?」
「うん、気持ちいいよ。お姉様の手を揉んでいただけあって、とても上手だね」
「そう言ってくれて良かった。筋肉痛になったら、軽くマッサージするといいんだ」
「そうなんだね。覚えておくよ」
気持ち良さそうな表情をする結衣。俺と目が合うと結衣はにっこりと笑う。
こうしていると、芹花姉さんの手をマッサージしたことを思い出すなぁ。今年になって、センター試験や個別の試験の前日は肩揉みとセットでやったっけ。今通っている大学に合格したときは、「ユウちゃんのおかげで合格できたよ!」って感謝されたっけ。
あと、指を揉むのってドキドキする。初めてだからかな。
「指を揉まれるのってドキドキするね。初めてだからかな?」
「ははっ、結衣も同じことを考えていたか」
「うん! ……悠真君と同じ気持ちなんだって分かって、よりドキドキしてきた。昨日のお風呂のときよりも気持ち良くなってきたよ。好きな人に触れられて、揉まれるのっていいね。ありがとう」
「……そうか。そう言ってくれると、彼氏として幸せだよ」
結衣のために何かできることがとても嬉しいのだ。家族にマッサージをしたときも「ありがとう」って言われるけど、恋人からの「ありがとう」は格別だ。
「ほっこりする光景なのです」
「そうだね、姫奈ちゃん。ご飯がより美味しくなるね」
胡桃の言う通り、さっきまでよりもお昼ご飯が美味しくなりそうだ。
「……よし、これでどう?」
「……うん! さっきまでと比べて痛みが減ったよ! ありがとう、悠真君」
「どういたしまして」
この様子なら、昼休みと午後の授業も大丈夫そうかな。
「ところで、悠真君。今週末って何か予定は入っているかな。バイトのシフトとか。この前、悠真君の家に泊まりに行ったから、今度は私の家に悠真君が泊まりに来てほしいなって!」
俺が泊まりに来たときのことを想像しているのか、興奮気味に話す結衣。
これまで、結衣の家には何度も行ったことがあるけれど、泊まったことは一度もない。なので、答えはもちろん、
「是非、泊まらせてほしい。予定を確認してみるよ」
机に置いてあるスマホを手に取り、カレンダーアプリで週末の予定を確認する。
「ええと……土曜日はバイトを含めて特に予定はないな。ただ、日曜日は朝9時から昼過ぎまでシフトが入ってる」
「分かった。土曜日はフリーなんだね。ちなみに、金曜日はどうかな?」
「金曜日は午後4時から午後7時まで入ってる」
「なるほどね。……じゃあ、金曜日に泊まりに来ない? それで、土曜日はずっと悠真君と一緒にいたいな」
「分かった。じゃあ、金曜日にバイトが終わったら、結衣の家に泊まりに行くよ」
「うん!」
結衣、とても嬉しそうだな。
今週末は結衣の家でお泊まりか。結衣が俺の家に泊まりに来たときは、一夜を明かすのが初めてだったし、恋人になった初日でもあった。だから、とても思い出深い時間になって。今度のお泊まりでも楽しくて忘れられない時間にしたい。
あと、このお泊まりは今週の頑張る原動力になるな。
「あたしは今までに何度も結衣の家に泊まりに行ったことがあるのですが、結衣の家は素晴らしいのです。いい香りがしますし。もう入ったことがあるかもしれませんが、結衣のベッドもいい匂いがするのですよ。あと、浴室は広いですから、きっと低田君と結衣が一緒に入ってもゆったりできるかと」
「おおっ、そうか。伊集院さんの話を聞いてより楽しみになったよ」
「いつか、あたしも結衣ちゃんの家でお泊まりしたいな」
胡桃は結衣と本当に仲良くなったからな。彼女がお泊まりをするときは、伊集院さんも一緒かもしれない。
広いお風呂も楽しみだけど、結衣のベッドで彼女と一緒に寝るのが一番楽しみだな。この前も、結衣のおかげでぐっすりと眠れた。ただ、結衣のベッドならより結衣を感じながら寝られる気がして。
ただ、結衣のことだから、寝る前のイベントをたっぷりと楽しみそうだ。
「悠真君と一緒にお風呂に入って、それで私のベッドの中で……えへへっ」
結衣、厭らしい笑い声を出している。今の言葉で、何を想像しているのかはだいたい想像できてしまうけど。あと、今のように厭らしく笑うと腹筋に響かないのかな。ずっと笑い続けているぞ。
さっき、痛がった様子で両手をお腹に当てたときは心配したけど、この様子なら大丈夫そうだな。俺が泊まりに行く金曜日までには、きっと治っているだろう。そう思いながら、再びお昼ご飯を食べ始めるのであった。
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