第2話 六女クロエ


 アトウッド家六女、クロエ・ド・ラ・アトウッドは癖のない黒髪ロングヘアーを可憐な右手で押さえ、屋敷の方向から走ってくる薄紫色の物体に目を向けた。ラベンダーの妖精かと一瞬思ったが、そうではないらしい。


「うそ……ミーリア?」


 今年十歳になった六女クロエは、深紫の瞳を大きく開いた。

 普段から何を話してもぼんやりしている七女ミーリアが弾丸のごとく走ってくる。


 他の家族はどう思っているのか知らないが、ミーリアの愛らしい見た目とのんびりした性格が好ましく、目に入れても痛くないほどに可愛がっていた。クロエにとってミーリアは、魔の巣窟アトウッド家唯一の癒やしだった。


「ハァ……ハァ……クロエ姉さま……」

「ミーリア、そんなにあわててどうしたの?」


 ラベンダーを摘む手を止めて、クロエはミーリアの背中を撫でた。

 アトウッド家の秀才であるクロエは、即座にミーリアの様子が変わっていることに気づいた。

 末っ子をじっと観察する。


 クロエは十歳でありながら読み書き計算ができ、心の機微にも敏い。

 屋敷にある書物では足りず、読んだ内容を自己流で応用させ、日々の生活に使おうとしていた。


 一方、読み書き計算のできない領主アーロン。本当に脳筋アーロンの娘なのか村人が疑いの目を向けるほど、クロエは優秀な女の子であった。


 ミーリアはクロエの温かい手を背中に感じ、呼吸を整え、顔を上げた。


(六女のクロエ姉さま……美人だ。十歳の幼女なのにそこはかとないエロスを感じる。クロエロス姉さまだ……)


 相変わらず自由な脳内のミーリアだった。

 そして、日本人の記憶がある今だからわかる。


 クロエは類まれなる美少女だ。

 周囲の男が放っておかない気品のようなものを感じる。


 そんな美少女のクロエが、ツギハギだらけの作業用ワンピースを着ていると奇妙な気持ちになる。チグハグなコスプレ衣装を見せられているみたいだ。


 クロエが理知的な瞳をミーリアに向けると、優しく両目を細めた。


「私の可愛いミーリア。走っているところを初めて見たわ。さ、あそこにちょうどいい岩があるの。座りましょう。お水もあげるわね」


 黒髪美少女のクロエに手を引かれ、ミーリアは岩に腰を下ろした。

 クロエが竹筒の水筒からコップに水を注いでくれる。

 一口飲むと、だいぶ気持ちが落ち着いてきた。


「クロエ姉さま、ごめんなさい。びっくりさせて」

「いいのよ。それよりもどうしたの? 今日のミーリアはいつもと違うミーリアね?」

「ええっ? そ、そうかなぁ……あはは……いつもどおりダヨ」


 ミーリアの役者への適性は皆無であった。大根である。


 おろおろしているミーリアが可愛いので、クロエは破顔して末っ子のラベンダー色の髪を撫でた。


「ごめんね、お姉ちゃん困らせちゃったわね。ミーリアはいつでもミーリアだもの。あなたの代わりはいないわ」

「うん……ありがとう」


 クロエの優しさに感動して泣きそうになるミーリア。

 日本にいたとき、優しくしてくれたのはお婆ちゃんだけだった。


 そんなお婆ちゃんも寝たきりになって入院してしまい、自分が引っ越した時点で離れ離れになった。高校生活で友達はいなかったし、バイト先で誰かに嫌われるのは精神衛生上もう無理、という状態であったので必要以上に人と接することはなかった。


 そんなボッチ高校時代を思い出していたら、六女クロエのことがとても大切に思えてしまい、つい彼女の腰を両手でぎゅっと抱いた。顔を胸にうずめてみる。


(ラベンダーの香りがする……あと甘いにおい……)


 成長中であるクロエの身体は柔らかかった。


「ミーリア……」


 ミーリアからぎゅっとしてきたことなど今まで一度もなかったので、クロエは最初びっくりして、すぐに胸の奥がキュンとなった。まぁなんて可愛いの、と心の中で歓喜しながら、ついつい頭を撫でる速度が上がってしまう。


 収穫期のラベンダー畑は一面紫色に染まっている。

 風が吹くと、少女のように花が揺れた。


 ミーリアとクロエはしばらく抱き合い、どちらからともなく顔を上げた。


「あの、クロエ姉さま」

「なにかしら?」

「私、色々気づいちゃったんです。あの……アトウッド家は……その……あの……」


 ミーリアはクロエには正直に話そうと思った。


 もちろん転生したことは言わないにせよ、アトウッド家の酷い現状に気づき、それを打破したいと伝えて知恵を貸してほしいと懇願するつもりだ。きっと六女クロエも同じ気持ちだろうと思う。彼女がこの家の現状を鑑みないはずがないと、実際に話をして確信できた。


(どこからどう話せばいいんだろう……。この世界についても知りたいし、魔法についても教えてほしい)


 ――魔法


 この世界には魔法が存在する。


 火を起こしたり水を生み出したり、空を飛んだり雪を降らせたりもできる。

 人間を超越した存在が人間の中には存在し、人々は羨望の眼差しで彼らを魔法使いと呼ぶ。


 世界で魔法を使えるのは一部の人間のみ。適性がなければまったく使えない。数百人に一人の割合と言われており、そこから実用的な魔法を使える者はさらに減る。


 アトウッド家の領地内に魔法使いはいない。


 小さな村が四つと、地方町役場の冴えないバザーのような市場がくっついただけの領地内に、高給取りの魔法使いがいるはずもなかった。


(もし私に魔法使いの素質があったら……すべて解決する。魔物狩りで稼いでもよし、金持ちの専属魔法使いになってもよし、旅の道すがら魔法を使って小銭を稼ぐ気ままな生活もよし……無限の可能性が広がるよ)


「わが家の現実に気づいてしまったのね」


 考えているミーリアの横顔をクロエが覗き込んだ。

 長いまつ毛が向けられ、ミーリアは思考を引き戻された。


 クロエはアトウッド家の現状を思ったのか眉をひそめる。


「お父様はアレだし、アレックス様はアレだもの。あなたが不安になるのは無理もないわ。そろそろあなたには話しておかなければと思っていたところだったの」

「そうなの?」

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