第2話「コンバラリア」

 着ていたコートを脱ぎ、俺は一軒の店のドアをくぐった。

 チリリンと響く優しい呼び鈴と、ほろ苦い珈琲の香りが出迎えてくれる。穏やかな気持ちにひたっていた、矢先――


「紅茶らぁ? なに言っれやがる、酒だ、酒ぇ!」


 店内の穏やかな空気が一瞬にしてき乱された。

 フロア中央にあるカウンター席に、中年男がどっかり座っている。ふんぞり返って、そのまま椅子ごと倒れるのではないか。そう思うほどに偉そうな態度だった。

 男は整備士なのだろうか。くたびれた手袋と工具箱が、放り投げるようにカウンターに置いてある。

 常連はもちろん、一度や二度訪れた客だとしても、だいたい顔は憶えている。だが、その男の顔は一向に思い出せない。記憶にないということは、初めて来た客だ。

 何やらわめき散らしているが、呂律ろれつが回っていないところを見ると、相当酔っているらしい。おそらく、酒に酔ってフラフラ歩いていたところに、ちょうど明かりがついていたこの店を見つけて、立ち寄ったといったところか。


「フランちゃん、おかえりなさい」


 入口に近いテーブル席に、常連のアンナ婆ちゃんが座っている。カウンター席の男をチラチラ見ながら、俺に手招きをした。


「婆ちゃん、うるさくてごめんね。ゆっくり本も読めないよね」

「いいのよ、私のことは。でも、他のお客さんがね……かれこれ一時間近く、ああして騒いでいるから」

「そんなに……大丈夫、すぐに対処するから」


 荷物をその場に置き、暴れている男を睨みつけた。

 ここは俺が経営している【古書喫茶コンバラリア】。このホロカの街で唯一、紙の本が読める喫茶店だ。

 〈黒の革命〉と呼ばれた大戦が終結して百数十年。荒廃した大地は未だ蘇ることはなく、世界の大半が乾いた砂漠に覆われている。この【ヒノモト国】――そしてホロカがある北の大地【トーチカ】も例外ではない。


 資源不足から電子化された本が主流になって、高価な紙の本はもはや消えつつある。そんな中で、古書喫茶なんて店を構えていられるのは、大の本好きで収集家だった父さんのおかげだ。

 固定客もついて、ようやく経営も軌道に乗り始めたというのに……。いくら客であっても、さすがに見過ごすわけにはいかない。


「は、離してください!」

「俺は客だぞ? 話の相手をするのも仕事だろう?」


 どう対処すべきか様子を窺っていた矢先、男は従業員のレイリに目をつけた。

 レイリは男性客の人気が非常に高い。銀色に近いプラチナブロンドもトルマリン色の瞳も、透き通るような白い肌も、目が離せなくなるほど惹きつけられる。どうやらそれは、この男のお眼鏡にも適ったらしい。


「あまり、触らないでください!」

「さ、触るなだと? お前ぇ、俺を馬鹿にしてんのかっ」


 拒絶され、男はいっそうレイリに迫った。

 腹を立てて自ら帰ってはくれないかと期待したが、そう思い通りにはいかないらしい。

 他の席にいる客達も不安な様子で見つめている。張り詰めた緊張感はこの店に不要だ。即刻排除するに限る。


「お客様、その手をお放しください」


 言葉は丁寧に、だが態度は強引に。レイリの腕を掴んでいる男の手を、思いっきり叩き払ってやった。男が怯んで手を離した隙に、レイリを素早く背後へ隠した。


「フラン! お帰りなさいっ」

「ただいま、レイリ。妙な人に絡まれたみたいだな」

「おいっ、てめぇは何だ、何様だ!」

「申し遅れました。当店の店主、和泉フランと申します。お客様、大変申し訳ありませんが、他のお客様の迷惑になりますので。どうぞお帰り下さい」

「あぁ?」


 この言葉が癇に障ったらしく、男は声を低めて立ち上がった。

 おそらく威嚇いかくしているつもりなのだろうが、漂う酒の臭いと、真っ直ぐ立っていられないほどフラフラしているせいで、その威力は大分半減している。怖さの欠片すら感じられない。


「ここでのひと時を乱す者は、もはやお客様にあらず。即刻お帰り願います」


 それを合図に、背後にいたレイリ、同じく従業員のコウとロロさんが男を包囲する。ただならぬ空気を感じ、男は確実に怯んだ。

 レイリはともかく、コウとロロさんに関しては初見で圧倒されることは間違いない。

 見惚れるほどの美貌にもかかわらず、身の丈190を超える長身のコウと、60歳とは思えないほど筋骨隆々、真鍮製しんちゅうせいの武骨な眼帯をつけたロロさんに見下ろされて、怯まない者などいるものか。


「当店自慢の従業員です。外まで見送らせますので、お好きな者をお選びください」

「う、うるせぇ! 俺は帰るつもりはねぇっ」


 カッとなり、男は俺に掴みかかろうとした。寸でのところで、横から伸びてきた義手が男の腕を掴まえる。


「そこまでだ、おっさん」


 カウンター越しに身を乗り出しているのは、同じく従業員のリョウジ。ロロさんに負けず劣らずの強面で、声は程よくハスキー。威嚇するには十分だ。

 男はリョウジに睨まれて、ごくりと喉を鳴らした。


「おっさん、ちょっと調子に乗り過ぎだな」

「あぁ? 誰が調子に――」

「うるさいって言ってんの、聞こえねぇのか?」


 語気を強め、手首をクルリと捻った。

 義手の上半分が開き、内蔵された銃が男の鼻先に突きつけられる。強気だった表情も一瞬で青褪あおざめ、強張った。


「お、お前、客に銃向けていいと思ってるのかっ!」

「ん? おかしいな。どこに客がいるんだ? なぁ、フラン」

「どこだろうな。俺には見えないよ」


 レイリ、そしてコウとロロさんに目配せをする。

 さっきまでしおらしくしていたレイリの表情が一変。猛犬かあるいは獅子か。唸り声をあげ、今にも喉笛を噛み切りそうな形相で素早く男の背後に回り込み、腕を捻り上げた。


「いっ! う、腕っ!」

「はい、はい。オジさん、しっかり立って下さいね」

「このクソ野郎がっ。汚い手でわしのレイリに触りやがって!」


 コウは怯んで座り込んだ男の襟元えりもとから服の中に手袋を押し込んでやると、首根っこを掴んで立ち上がらせる。食ってかかろうとする男に、ロロさんが有無を言わさずお姫様抱っこで店の外まで運んでいく。


「リョウジ、警察に連絡を」

「もうしておいたよ。ほら」


 と、リョウジが入口を指差した。ロロさんがドアを蹴り開けた丁度そこへ、2人の警官が駆けつけた。


「またあんたか!」

「この間も、大通りのパン屋で暴れていただろ。何度言ったらわかるんだ……」


 外から聞こえてきたのは警官達の呆れた声だった。どうやらあの男、他の店でも暴れている常習犯だったらしい。


「ああいう人、たまにいるから困るよね」


 うんざりだと言わんばかりに、レイリは溜息をついてカウンターの椅子に凭れた。

 ゆるんだコルセットの紐を結び直し、乱れたスカートを払うように整える。その度に、ヒラヒラと、鮮やかな青いスカートが揺れた。

 そこへコウとロロさんが戻ってきた。余計な体力を使ったと、ロロさんは眼帯の上から右目を揉み解す。


「わしより若い男だってのに。酒に飲まれやがって」

「誰にだって、そういう気分になる時くらいありますよ。まぁ、性質の悪いのは嫌いですが。それよりレイリ、大丈夫でしたか?」


 レイリに駆け寄ったかと思えば、あの男に掴まれた腕に触れ、さも心配そうに肌を撫でる。俺はその手を素早く叩いた。


「痛っ。手荒いですね、フラン。ヤキモチですか?」

「あぁ、そうだよ。勝手に触るな。どさくさに紛れて触ろうって魂胆だろう?」

「おや、残念。バレてしまいましたか」


 コウはフフッと含み笑って小首を傾げた。

 腰まである長い赤毛、胸元の大きく開いたブラウスに革のコルセット。ヒールの高いロングブーツという出で立ちで、長身という点を除けば文句なしの美女。だが、それは見かけだけ。

 中身は正真正銘の男であり、おまけに大の女好き。この容姿に引っかかって、何人の女が餌食になったことか……。

 そんな外見を笠に魂胆をチラつかせていても、レイリはコウに懐いている。容姿が女であるため警戒心が緩むのか、それとも単に相性がいいのか。


「レイリ、本当に大丈夫でしたか?」

「ありがとう、コウ。フランに助けてもらったから平気。でも、あの男の手の感触が残っているから消毒しなきゃ。ねぇ、フラン。消毒して」

「わかった。店が終わるまで我慢な」

「嫌、今がいい」


 そう言って手を差し出した。瞳にうっすらと好奇心をチラつかせてジッと見つめる様は、飼い主がどう反応するか様子をうかがう猫みたいだ。

 仕事中だからと突き放すこともできるが、それができないのが俺の難点。強請られることに滅法弱い。特に、相手がレイリだとなおさらだ。

 差し出された手を取り、手の甲に唇を落とす。軽く触れる程度ではあるが、それでもレイリは満足らしい。ハニかんで、少しだけ身をよじった。


「あいつの感触、消えたか?」

「うん、消えた。本当、ああいう客がいると迷惑だよね。私だけならいいけど、他のお客さんが嫌な思いしちゃうし」


 溜息をつきながら、レイリは店内を見渡した。男はいなくなったものの、一度乱された空気はそう簡単に穏やかにはならない。残っていた客達の表情には、どこか怯えの色が残っている。


「……大変ご迷惑をおかけしました。お詫びと言ってはなんですが、新作のケーキと紅茶をご用意いたします。お帰りの際に持ち帰りください」


 深々と頭を下げると、女性達は嬉しそうにはしゃいでいる。ほんの少しではあったが、再び店内に穏やかな雰囲気が戻ってきた。


「そういうことだから、ケーキの用意よろしくな、リョウジ」


 カウンターの向こうで紅茶を淹れていたリョウジに声をかける。火の点いていない煙管を人差し指と親指で摘まみ、口の端で噛んでニッと口角を上げた。


「了解。特別なの、用意しちゃうよ」

「私、手伝うね。リョウちゃん、どのケーキにするの?」


 レイリがカウンターへ入り、土産の準備を始めたのを横目に、ベストのポケットから懐中時計を取り出す。キンッと、心地よい金属音を響かせてふたが開いた。

 午後9時28分。閉店の時間が近づき、客が1人、また1人と席を立つ。

 びの土産を1人ひとりに渡し、最後の客を見送って、店先に出していた看板の明かりを消した。

 ふと、外がやけに明るいことに気づいて、10メートル先にある、転落防止で張られた鉄柵へ歩み寄り、その隙間から空を見上げた。

 黒い絵の具を吹き流したような夜空に、煌々と輝く満月が浮かんでいる。だが、その姿は立ち昇る蒸気に遮られ、やわらかく輪郭をぼかしていた。


「せっかくの満月なのに。鉄柵と蒸気と、おまけに天空路が邪魔で台無しだな」


 この【蒸気の街ホロカ】は、直径100メートル、深さ300メートルの、地底へ向かって伸びる地下階層型都市。1セクター30階構造で、現在は40のセクターが一つに集まって【ホロカ】という街を形成している。

 吹き抜けになった円柱状のドーナツみたいな街に、15万人ほどの人々が暮らしている。

 ぽっかりと開いた中心部には、下層階へ繋がる昇降機や、十字になった【天空路】と呼ばれる通路がかけられていて、その間を縫うように、各階にある工房や工場から排出される蒸気が、ユラユラと立ち昇る。それがこの街の日常的な光景だ。


「フランちゃん、お疲れ様」


 その声にハッとした。

 振り返ると、アンナ婆ちゃんが店先に立っている。まだ店の中にいたのだと、声をかけられて気づいた。俺は慌てて戻った。


「ごめん、婆ちゃん。まだ中に居たんだね。気づかなくて、明かり消しちゃった」

「いいのよ、気にしなくて。ロロさんと立ち話をしていたから、帰る準備が遅くなってしまったの」


 にこやかに目尻を下げて、婆ちゃんは手にしていたストールを片手で広げた。

 肩にかけようとしていたが、土産として渡したケーキ箱を抱えているせいで、上手くかけられないらしい。代わりに俺が広げ、そっと肩にかけた。


「ありがとう。また明日も来るわ」

「うん、待ってるよ。婆ちゃん、気をつけて」


 アンナ婆ちゃんを見送り、溜息をついて店を見上げる。

 開店から5年。手探りで始めて、最初は上手くいかないこともあった。立ち止まりそうになったことも何度もあったが、アンナ婆ちゃんのように毎日足を運んでくれる常連さんができて、紙の本と、穏やかな時が流れる店の雰囲気と、リョウジが作る菓子の味を気に入ってくれる客が少しずつ増えてきた。

 明日はどんな菓子を出そうか。

 どのブレンドの紅茶を出そうか。

 店を閉め、看板の明かりを消す度に、明日のメニューを考えるのが楽しくなる。


「フラン。看板片付けるだけなのに、時間かかり過ぎだよ」


 呼ばれると同時に、レイリが背後から抱きついてきた。腹に回された腕をそっとでれば、応えるように、背にほおを寄せて甘えてくる。むずがゆいような温かさは、正直心地いい。


「片付け、もう終わったのか?」

「うん。リョウちゃんが、夕食の準備もできたからリビングに来いって」

「わかった。冷めないうちに行こうか」


 俺はレイリを連れ、店に戻った。

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