微笑みを数える日~恋獄~
猫柳蝉丸
本編
「おはよう、パパ」
爽やかな朝の陽射しと柔らかい言葉に目を細める。
静謐な空気、温かな陽光、今日も清々しい一日が始まるのだ。
心を躍らせながら、僕はカーテンを開いた菫に慈しみの眼差しを向けた。
「おはよう、菫。今日も元気いっぱいだね」
「当たり前だよ、だって今日は特別な日なんだもん」
「そうだね、お誕生日おめでとう、菫」
「えへへ、ありがとう、パパ」
無邪気に微笑む菫。
去年までの菫からはとても考えられない笑顔。
今までの菫の誕生日には見られなかったかけがえのない笑顔だ。
当然だ。去年の誕生日までろくに一緒に過ごしてあげられなかったのだから。やはりこの田舎への移住を決めてよかった。菫のこんな嬉しそうな微笑みを見られるのだ。この笑顔だけは何物にも代えられない。
「それでお誕生日プレゼントは何が貰えるのかなあ、パパ?」
また菫が意地悪く微笑む。去年まで誕生日プレゼントも貰えなかった事を言っているのだろう。それに対して僕は苦笑してみせるしかない。
「そうだな……、パパのキスなんてどうだろう?」
「もう、そんなのがお誕生日プレゼントになるわけないでしょ。だって……」
眉を八の字に曲げた菫が僕の頬に唇を寄せ、重ねる。
お返しに僕も菫の頬にキスをしてあげると、菫は満面の笑顔を浮かべてくれた。
「パパとのキスなんて毎日してるもん。もっと特別な事をプレゼントにしてくれなきゃ」
「それはそうだね。失礼しました、お姫様。それはそうとお誕生日プレゼントをねだる僕のお姫様は今日で何歳になったのかな?」
「忘れちゃったの? 花も恥じらう十六歳よ、パパ」
「覚えているよ、菫の口から聞きたかっただけさ」
「それで、どう? 十六歳になった娘の姿を見る気分は?」
「嬉しいよ。よく育ってくれたって意味でも、美人になったなって意味でも」
お世辞でなく本気で僕がそう言うと、菫は頬を赤く染めて微笑んだ。
やはり褒められ慣れていないらしい。僕自身、これまであまり褒めてあげられなかったからね……。と自省する。菫が十六歳になったのがいいきっかけだ。これからはもっともっと何気無い事でも褒めてあげられる父親になろう。
「そうだ、パパ。お腹空いてない?」
赤面を誤魔化すためか菫が露骨に話題を逸らした。
そんなところも微笑ましい。僕は目を細めて答えてあげる事にした。目が覚めたばかりでお腹が空いているのも確かではあるし。
「そうだね、空いているかな。今日の朝ごはんは何なんだい?」
「自信作よ、パパ。菫のお誕生日なんだもん、今日くらい腕を振るっちゃってもいいよね」
「勿論さ、菫の誕生日なんだから。うん、どんな朝ごはんか楽しみだな」
「じゃあ、ちょっと待っててね、パパ。菫、今から朝ごはん持って来ちゃうから」
「楽しみに待ってるよ」
僕が言うと、頷いた菫は色鮮やかな笑顔を浮かべて寝室から出て行った。
よっぽどの自信作なんだろう。
僕は楽しみに思いながら、首を捻って窓の外を流れる雲を眺める事にした。
流れる雲を眺めるなんて、こんな生活を送るようになるまで出来なかった事だ。
菫が朝ごはんを持って来てくれるまで、存分に雲の流れを楽しむとしよう。
●
菫の用意してくれた朝ごはんは確かに絶品だった。
ショートケーキ、タンドリーチキン、ピザ、オレンジジュース。誕生日と言うよりクリスマスパーティーみたいだったけれど、何だって構わない。菫が腕を振るって作ってくれたって事が大切なんだ。これもまた去年までは出来ていなかった事だった。
「ごちそうさま、菫。とても美味しかったよ」
「えへへ、そうでしょ?」
菫が僕の口の周りをナプキンで拭いながら艶っぽく微笑む。
その笑顔を目にして思い出す、ふと。
百合子は……、僕の妻だった百合子は、どんな微笑みを浮かべていたのだっけ。
あまりにも遠い過去ですぐには思い出せない。
百合子は菫を産んですぐに病気で亡くなってしまった。
優しい妻だったと思う。尽くされるより尽くしたい性質の、一回り年上の妻だった。
僕は妻に尽くされていた。年上の負い目もあったのかもしれない。過剰とも思えるほどに妻は僕に尽くしてくれた。嫌ではなかったけれど妙な気分だった。誰かに尽くす事で幸福を感じる人間が実在する事が不可思議だった。誰かに必要とされる喜びを感じていたかったのだろうか。
菫はその百合子の性質を強く引き継いでいるように思う。
そうでなければ十六歳にもなって朝に父親を起こしたりしないだろうし、父親の朝ごはんの用意をして、それらを食べ終わった後の父親の口元をナプキンで拭いたりもしないだろう。誰かに尽くしたい、誰かの役に立ちたいのだ、菫は。
僕はそれを分かってあげられなかった。ただ一人残された男親だから、何の不自由もさせないためにお金を稼ぐ事こそが娘のために出来る唯一の事だと思っていた。そう信じ込もうとしていた。
だからこそ、一年前に菫に泣かれて気付いたのだ、僕の犯してしまった間違いに。
僕に出来る事はお金を残す事でなく、菫と一緒に居てあげる事だったのだ。それこそ菫が望んでいる事だったのだ。僕はそれを分かっていなかった。十五年も。聞けば菫は学校でも浮いた存在になってしまっているらしかった。いじめを受けているというわけではない。必要以上に尽くす菫の態度をクラスメイト達は気味悪く思っているようだった。成人した僕ですら百合子の態度を奇妙に思っていたのだから、若年の菫のクラスメイト達にとっては異物でしかなかったのだろう。
だから、僕が受け止めてあげなければ、と思った。
僕は菫に対して親としての責務を果たせていなかった。手遅れにはしたくなかった。それで早期退職してこののどかな田舎に引っ越したのだ。菫との時間をもっと作ってあげるために。菫の性質が異常でないと知らせてあげるために。
菫の笑顔をずっと見ているために。
「パパ? どうしたの?」
僕が黙り込んでいたのを不自然に思ったのだろう。菫が首を傾げて僕に訊ねた。
僕は軽く微笑むと菫の頭に自分の頭を寄せてあげた。
「少しね、昔の事を思い出していたんだよ」
「菫のお誕生日だから?」
「一年に一度の大切な記念日だからね、昔を思い出しちゃうのは仕方ないだろう?」
「そうかも。それでどんな事を思い出してたの、パパ?」
「それより先に訊かせてほしい、菫」
「いいよ、何なの?」
「菫は今、幸せかい?」
「うん、すごく幸せだよ、パパ」
即答だった。即答だったのを見るに菫の本心なのだろう。
優しい微笑みを浮かべて、菫は僕の頭を胸の中に抱き締めてくれた。
「パパとこんな風に過ごせるようになるなんて思ってなかったんだもん。菫ね、パパとずっともっと早くこんな風になりたかったんだよ? パパと毎日一緒で、パパと笑って、パパの身の回りのお世話をしてあげたりして、ずっとそんな風になりたかったの。だから、今は本当にすごく幸せなんだ。菫ね、パパと一緒で本当に幸せよ」
「よかった」
僕が呟くと、菫は僕の顔中にキスの雨を降らせてくれた。
菫の悪い癖だ。嫌ではないけれど、後始末が大変になってしまう。
五分くらいの豪雨がやっと去ると、困ったように菫が微笑んだ。
「ご、ごめんね、パパ。菫、今日もやり過ぎちゃったみたい」
「いいさ、今日は菫のお誕生日なんだから。これくらい何でもないよ」
「えへへ、ありがとう、パパ。でも……」
「でも?」
「流石にこのままじゃ駄目だよね。後片付けは後にして、お風呂に入っちゃわない? 菫が汚しちゃった分、しっかり洗ってあげるね」
「ひょっとしてそれを狙って僕の顔にキスの雨を降らせたのかい?」
「それはどうかなあ?」
菫が誤魔化して笑ったけれど、僕の予想に間違えはないはずだった。
でも、いい。今日は菫のお誕生日なんだ。存分に好きにさせてあげる事にしよう。
菫は誰かに尽くす事をこそ心から幸福に感じる娘なのだから。
「それじゃあお風呂に入ろうか、菫」
「うんっ!」
僕の言葉に菫が晴れやかな笑顔を見せてくれた。
●
「大好きだよ、パパ……」
菫が笑顔を浮かべて寝言を呟く。
お風呂から上がって僕の身体を拭き終えると、菫はスイッチが切れたように僕のベッドの上で眠りに就いてしまった。よっぽど気合を入れてお誕生日の朝ごはんを作ったのだろう。お風呂の中でしっかり僕の身体を洗ってくれたのもあって、眠くなってしまったらしい。早過ぎるお昼寝だけれど別に構わない。そういう事が出来るようになるために、僕と菫はこの屋敷に移り住んできたのだから。
「本当によかった……」
思わず呟いてしまう。
僕は今まで菫のために何もしてあげられなかった。
お誕生日を祝って一緒に笑い合う事すら出来ていなかった。
だから、これでよかった、と思う。これまで菫にしてあげられなかった分まで、百合子にしてあげられなかった分まで、菫の好きなように生きてあげさせたい。好きなように僕に尽くしてあげさせたい。僕は心からそれを願っている。
僕はこれからも菫と二人で生きていく。幸いにも貯蓄はそれなりに残っている。慎ましく過ごせば、菫がお婆ちゃんになるまでくらいはこのお屋敷で普通に生活出来るはずだ。勿論、菫がそれを望めばだけれど。
微笑んで腕を伸ばして菫の頭を撫でてあげようとして、不意に思い出す。
いけないいけない、またやってしまった。
僕の両腕と両脚はこのお屋敷に移り住んですぐに切り落としたじゃないか。
幻肢痛とは違うとは思うけれど、腕があった頃の長年の癖が抜けなくて困ってしまう。一年やそこらでは慣れないという事なのだろう。まあいい。時間はまだまだある。その内に両腕と両脚が無い生活にも慣れられるはずだ。
自分で四肢を切断した時、菫が驚いた顔をしながら微笑んでいるのを僕は見逃さなかった。それで僕の考えは間違っていなかったのだと安心出来た。海外で自ら四肢切断してパートナーに全てをお世話してもらうというカップルの話を何処かで見た時、これだと思ったのだ。誰かに尽くさざるを得ない性質を持って生まれた菫に、思う存分尽くさせてあげる一番の方法がこれだと思えたのだ。
誰かに尽くされて誰かから必要とされないと生きていけない人間が居るように、誰かに尽くして誰かから必要とされないと生きていけない人間も居る。それが百合子であり、それが僕の娘の菫だった。菫は誰かに尽くさないと生きていけない娘だった。だからこそ、僕が菫に出来る最大の愛情表現がこれだった。
この一年過ごして、その考えが間違っていなかった事を強く実感した。
その証拠に、菫はこれまでの人生で一番幸せそうにしている。笑顔を見せてくれる。
僕はこれからも菫に尽くされて生きていく。両腕と両脚が無い僕は菫に毎食食べさせてもらい、排泄の世話をしてもらい、お風呂に入らせてもらい、身の回りの全ての世話をしてもらう。溜まった性欲の解消も。勿論、近親相姦をするわけにはいかないから、それなりの方法で解消してもらうだけだけれど。菫はそれを望んでいる。僕もそれを望んでいる。
それで菫は微笑みを、心からの笑顔を浮かべられる。
僕はその笑顔の数を一つ一つ数えて、噛み締めながら菫に尽くされて生きる。
それが、僕達の最愛の形だ。
そうして生きていこう、菫と。二人きりで、僕が恋しいほど望んだ菫の笑顔と共に。
「お誕生日おめでとう、菫。これからも、よろしくね」
改めて菫を祝福し、僕も菫の胸の中に頭を抱えられて眠りに就くため目を閉じる。
微笑みを数える日~恋獄~ 猫柳蝉丸 @necosemimaru
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