第10話 LINE

 梨沙にとっては編集室もステージだった。梨沙は絶えず見られる存在なのだ。だから怒る時も美しく在らねばと思っていた。それは10代から始まったステージキャリアで身に着いた所作であり人生哲学だった。


 梨沙が幼かった頃、後になってそれぞれの年齢を考えてみると、それは梨沙がまだ2~3才の頃の事だったはずなのだが、麗華が祖父の家に「来た日」の事を覚えていた。祖父母と梨沙の両親や親戚たちが奥の間で集まっている間、梨沙は若い家政婦と庭で遊んでいた。


 家政婦が全く熱心に相手をしてくれないので退屈しきっていた梨沙は、早くお話が終わって母が出て来てくれたら良いのにと思って、縁側から見える奥の間の障子をチラチラと見ていた。


 やがて、その障子が開いて和服姿の女性が縁側に出て来たが、梨沙が待ちかねた母ではなかった。年配のその女性は縁側のガラス戸を開け


「梨沙ちゃん、ここへいらっしゃいな」


 と庭の奥にいた梨沙に向かって声をかけ、呼ばれるまま梨沙は駆け寄った。女性は縁側に座り、後ろから出て来た割烹着姿の家政婦が、その膝に赤子を抱かせた。


「梨沙ちゃん、麗華よ」


 年配の女性は、まだ首の座らない赤子の顔を梨沙の方に向けながら言った。


「お祖母ばあちゃま、どこの赤ちゃん?」


「お祖母ばあちゃまの赤ちゃんよ

 梨沙ちゃんの小さい叔母ちゃま」


 幼いながら聡明な梨沙は、祖母のような年齢の女性は普通赤子を産まないと思ったのだが、しかし祖母がこの赤子が祖母のものだと言うなら、そうなのだ。


 その日、祖父の家から帰る道でも、その後にでも麗華の本当の親の事を両親に尋ねた事がなかったのを梨沙は悔やんでいた。梨沙の両親が他界している今となっては、誰に尋ねようと蒸し返したところで真相は聞けないのだった。


 麗華が出自不明だからではなく、茂辺地の件での無茶苦茶ぶりのために、梨沙の城である『START』編集室に麗華には出入りして欲しくなかった。


 だからといって麗華にそう言い渡したところで梨沙の言葉など聞くはずのない相手であり、それは祖父である会長に訴えてみたとしても無駄だろうと虚しい思いを噛み締めていた。


「まあいいわ、お祖父じい様のご健在な間だけなんだし」


 山瀬から渡された茂辺地のネームとUSBメモリを、梨沙は山瀬に差し出した。


「山瀬クン、茂辺地先生の担当はあなたにお願いするわ。あなたのデスクもすぐに用意させます。snsをしてくれている明海ちゃんと一緒に茂辺地先生を売れっ子にしてちょうだいね」


 梨沙の言葉通りに山瀬のデスクが用意されると、その引き出しの1つに茂辺地のネームとUSBメモリを入れた。


 山瀬のデスクの後ろにはこのフロアで最も見晴らしのいい大きな窓があった。山瀬はその窓からの眺めが好きだった。


 しかし山瀬がそのデスクで仕事をする姿はほとんど見られなかった。自分のデスクが在ろうとなかろうと、相変わらず山瀬はスマートフォンを手にして編集室の談話コーナーをウロウロしているのだった。


「副編集長~?」


 と明海が山瀬に声を掛けた。デスクが用意された後に山瀬は正式に辞令を受けたのだった。


「茂辺地先生はいつまで2ページ連載なんですか~?」


「原稿のストックあと何ページありますか?」


「2ページです~」


 このシリーズで続けるにしても新しい原稿が必要だった。


「新シリーズにしましょうか。1度茂辺地先生とLINEで会議しようと思うので、先生に伺って時間を決めてください」


 この体制になってから山瀬に頼まれた明海は、茂辺地とLINEで繋がるようになり、何日かの間にかなり打ち解ける仲になっていた。


 部屋から出ない人らしいと聞いていたが、その理由が結構深刻だという話も聞き出していた。


「茂辺地先生が顔を見せると、誰でもおかしな言動をするようになっちゃうそうです~


 それで~、誰とも会いたくないから、ほとんど部屋から出ないそうなんですよ~」


 最初に、ご挨拶のために茂辺地を訪ねて行くか、あるいは編集室に来てくれるように頼んだ時、茂辺地は絶対にそれはしたくないと頑なに拒んだのだと明海は山瀬に報告した。


「ほう?

 どんな言動をするんでしょう?」


「それ聞いたんですけど~

 その相手によって違うそうなんです~」


「ふ~む

 ただの出不精なのを茂辺地先生流に脚色しているとかもありえますね


 相手じゃなくて茂辺地先生の方が思い込みの激しい方って事も考えられます。茂辺地先生が相手の言動をおかしいんじゃないかと勘繰ってしまうとか


 なんにしても面白いマンガを描く人はやはり感性が鋭いのでしょうねぇ


 でも、無理強いする事もないので、会議などは全てLINEで良いのではないでしょうか」


 深刻な問題だと言うよりも、茂辺地のユニークな側面だと山瀬は思っていた。

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