痛み

「……」


折れた前歯と裂けた口内の痛みにただただ耐えていたミカは、牢の中の環境に意識を向ける余裕がなかった。


だがそのおかげで、はっきり言ってまっとうな神経では数分と耐えられないようなそれを気にせずにすんだのかもしれない。


ウルフェンスをはじめとしてそれなりに人格者の多いように思えるルパードソン家ではあったものの、その歴史の中ではあまり表に出せないような行いもあったのだろう。その辺りの<負の遺産>がこの地下牢なのだと思われる。


燭台に立てられた蝋燭の灯が辛うじて届くだけの暗い空間だが、それだけでも、石で組まれた壁や床に得体の知れない染みが残されていることが察せられた。明るいところで見ればそれこそ吐き気を催すような環境だろう。


皮肉にも、痛みに耐える間にこの異様さにも慣らされていったのかもしれない。


なお、外の光がまったく届かないものの、遠くの方からかすかな物音が届いてくることで、人が活動していることを伝えてくる。


それにより、


静寂に包まれている=深夜。


人が絶え間なく動いている気配がする=昼間。


だと推測できた。


そして人の気配がしている間に、一回、食事が運ばれてきた。


「おらよ」


看守としてここに配されたであろう元兵士と思しき若い男が、面倒くさそうに檻越しにパンを投げて寄越す。


バゲットと呼ばれる硬いパンに良く似たそれは不規則に刎ねて、ミカが蹲っていた場所とは反対側に転がった。


それを見届けると男は早々に立ち去ってしまう。


水は、檻の前に桶が置かれていてそこに入っているものを手で掬って飲むのだが、前歯が折れて剥き出しになった歯髄と裂けた口内にしみるのでほとんど唇を湿らせる程度しか飲めなかった。


そんな状態なので硬いパンなどそれこそ食べられそうにない。


なのでミカは、普通なら絶対に食べようとは思わないであろう不潔な床に転がったパンを拾って取り敢えず自分の衣服にくるんでおいた。今は無理でも食べられるようになってから食べるためだ。


明らかに一日以上経ってから初めて与えられた食事なので、毎日必ずもらえるとは限らないだろうと予測しての対応だった。そしてミカの予測は的中する。


剥き出しになった歯髄がもたらす痛みに加え、裂けた口内は口内炎も併発し、ミカを責め苛む。


その後、少なくとも二回、静寂と僅かな人の気配というサイクルを繰り返す間、誰も訪れなかったのだ。食事の提供も水の交換もない。


なお、食べられなくとも、人体は出すものは出す。それはどうやら、牢の隅に置かれた桶にしろということのようだったので、ミカは素直にそうした。


若い女性としては耐えられないようなその仕打ちにも、彼女は何も言わなかったのだった。


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