私の役目
マオレルトン領の人々は、皆、穏やかで、他者を気遣える者達だった。
幼い子供でさえ、仕事に精を出す<商人>を労わり、花を差し出してくれるくらいには。
だが、それはあくまで、自分達の目が届く範囲だけの話。このマオレルトン領が本来持っているポテンシャルを活かしセヴェルハムト帝国そのものを支えようという<広い視野>を持っていないのだ。
少なくともミカにはそう見えた。
加えて、国境を接している隣国が着々と<準備>をしていてもまるで気付こうとしない愚昧さ。
『それが民だけならまだいい。しかしここの連中は、領主を筆頭にしてただの日和見主義者に過ぎん。<いい人>なだけでは今のこの世界では生きてはいけんのだ。
ただのいい人が生きていける世界を目指すのは尊い。いずれはそうなっていくべきだと私も思う。しかしそれは、他者を貪り奪い取ろうとする者を確実に制することが出来るのが大前提だ。飢えた狼の群れがうろつく隣で呑気に眠りこける奴がいるか……!』
そう考えながら、彼女は自身の胸元から、首に下げられた小さな袋を取り出した。財布や小物入れにしては小さすぎるそれは、<お守り>の類と見えた。それをぎゅっと握り締め、思う。
『ヒロキ……私はきっとあなたのいるところへは行けないと思う……でも、私はあなたが眠るこの地を守りたい。どうせあなたのところに行けないなら、せめてそうしたいんだ。
あなたはきっと私を叱るでしょうね。あなたが望んでいたこととは真逆のことをしてる私を……
だけど、今のこの世界であなたの<望み>は実現不可能なんだ。あなたの望みに一番近いこのマオレルトン領さえ、遠からず地獄になると思う。飢えた狼の隣で惰眠を貪ってるんじゃね。
あなたの望みを実現できる世界を目指すためにも、今は血に濡れる必要があるんだよ……
許して欲しいとは言わない。私のしようとしていることを簡単に許すようなあなただったら、私はきっとこんなにあなたを想うことはなかった。
どうかあなたは綺麗なままでいて……血に汚れるのは私の役目……
でも…
でも……
たとえ叱られてもいい…思いっきり頬をひっぱたいてくれてもいい……
あなたの声を聞きたいよ…あなたに触れたいよ……
……ぐ…ぅう……う、ぐぅぅぅ……うぅ……』
豪華な装飾が施されたドレッサーに突っ伏して、ミカは体を震わせた。
しかし、やがてそれが収まると彼女は体を起こして顔を布で拭い、ドレッサーの上に並べられたメイク用具を手に取り、自らに化粧を施していく。
こんこんとドアがノックされ、
「ミカ様、お食事のご用意が整いました」
という侍女の声に、
「分かった」
と振り返った彼女の顔は、いつもの冷たく硬いそれに戻っていたのだった。
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