縁側と、カラタチと、丸まるロールパン

浅葱いろ

もふもふうまそー!!

 師走の喧騒を間近に控えて、引っ越しをした。


 築三十年は経っているだろう古い和風建築。青いトタン屋根。平屋造り。三坪に満つか満たないかの狭い庭があって、縁側がある。そこに犬走りがあり、庭木がない代わりにカラタチの生け垣があった。


 カラタチは昔の民家ではよく見られた樹木だ。

 春に白い花を咲かせ、秋に実を付ける。丁度、家の内覧をしたのが秋の中頃で、熟した丸い実を拝むことが出来た。カラタチの実は食用に向かない。だが、果実酒にすると大層美味い。幼い頃、よく母親が作っていた——甘く、瑞々しい香りを鼻腔に入れながら、台所に立っていた遠い日の背中を思い出す。

 そんな目には花、鼻には芳香、口には酒精と楽しませてくれる木だが、カラタチには鋭利な棘があった。手入れが楽ではない。その為に民家からは、徐々にカラタチが姿を消したのだ。


 徳間とくまは、懐かしい樹木がある家の装いを、一目で気に入った。

 カラタチに季節を感じながら、縁側で茶を啜り、気儘な猫を飼う。そういう生活に憧れていて、余生を過ごしたいと思っていた。

 御年六十九の老齢での引っ越しには、不安と周囲の反対があったが、期待を抱いて転居を決めた。


 新居に越してきて数日余り。処分した物が多かったので荷物は少なく、全ての荷解きを済ませた徳間は、縁側に出た。所謂、内縁というもので、縁側の外側にガラス戸があり、居間との境目に障子がある。


 冬に入り、カラタチの木は実を落としている。葉も少なで棘が目立ち、物寂しい印象だ。だが、春には美しい白い花を見せてくれるだろう。アゲハ蝶も飛び交うはずだ。カラタチの葉は、アゲハ蝶の幼虫が好んで食べる。


 垣根の向こうには、隣家の勝手口があった。庭の左手が通りに面していて、取ってつけたようなアルミの柵、兼、引き戸がある。伸縮性で片開きのものだ。

 他には物干し竿しかない庭を楽に一望し、徳間はアルミ柵の前で目を止めた。

 なんだろう? 丸い物体が、柵の前にどんと置いてある。今朝、庭の様子を見た時には、なかったはずだ。

 妻が好んで、朝食に出していたロールパンが頭に浮かんだ。だが、大きさはロールパンの比ではない。サッカーボール二つ分ほどだ。


「……犬?」


 徳間が身を乗り出してよく見ようとすると、縁側の板が軋みを上げた。その小さな音を聞き入れて、丸い物体から三角の形をしたものが、二つ盛り上がる。耳だった。ぴくり、ぴくり。音に反応している。やがて丸い形が崩れて胴体と頭になり、胡乱げな眼差しが徳間に向けられた。


 犬だ。次は疑問なく頷くと、徳間は柵の前で丸まっていた犬をまじまじと見た。

 芝犬か、秋田犬か、ただの雑種か。生憎、犬の種類には造詣が深くなく、分からない。日本犬だということだけが分かり、最初に思い浮かべた通り、犬はロールパンのような毛色をしていた。


 縁側に佇んだまま犬と見合って数秒、居間に設置した炬燵の上で、けたたましい音が鳴った。電話である。犬から意識を逸らしてスマートフォンを手に取ると、徳間は四苦八苦しながら着信に答えた。スマートフォンたる文明の利器に、徳間は一向に慣れる兆しがない。——新しいもの好きの妻は、メールに日記と大分楽しんでいたようだったが……。


「あ、親父? 無事に片付いたか?」


 電話の相手は徳間の息子だった。日曜日の午後で、家族と共に居るのだろう。後ろで孫の「おじいちゃん? 僕も話したい~」と賑やかな声がする。来年、小学二年生になる孫を、徳間は目に入れても痛くないほど可愛がっている。


「問題ないよ。荷物は片付いた。あとは段ボールを捨てるだけさ」

「何か手伝うことないか?」

「大丈夫、大丈夫」


 徳間は苦笑いを浮かべる。

 よく出来た息子に育ってくれた。そして良い嫁を娶ってくれた。息子夫婦は、老いた徳間を何かにつけて気にかけてくれる。だが、引っ越しの際の一悶着があって、徳間は少し気が引けていた。


 徳間は元々、分譲マンションに住んでいた。妻と相談し、息子が幼稚園の頃にローンを組んで買ったものだ。ローンは完済した。住み慣れた持ち家を手離し、家賃を払って借家に移り住むことに、息子夫婦は良い顔をしなかったのである。それはそうだろう。何故に必要のない出費を増やすと言うのか、そうそう他人の理解は得られない。

 徳間は自分の年金で日々の生活が十分に賄えること、退職金が残っていて蓄えがあることを説明し、渋る息子を説得した。

 それに、マンションは築年数が経っていて、徳間が死んだ後に処分させる手間を、息子にかけるのも悪いと思っていたのだった。

 息子夫婦は、別にマイホームを建てている。嫁の趣味だと言う「北欧風」の小洒落た一戸建てだ。


「わざわざ引っ越さなくても別にいいじゃないか、この家で」

「この家に居ると思い出すんだよ」


 それでも「頑固親父め」と顔を顰めていた息子は、その徳間の言葉でやっと口を噤んだ。


 電話口の息子の声に意識が戻る。

「そうか? じゃあ近い内、暇を見つけて遊びに行くから」

「ああ、待ってるよ」

 最後に孫と一言二言を話して、電話を切った。


 居間の片隅に置いた小振りの仏壇を一瞥してから、徳間は再び縁側に出る。

 そろそろと様子を見ると、アルミ柵の前にまだ犬は丸まっていた。

 迷い犬だろうか? 野犬だろうか? 徳間が子どもの頃は、野良犬を空き地や河川敷などでよく見かけたものだったが、近頃はめっきり見なくなった。こういう時は警察か、保健所か、どこに連絡をすればいいのだろう。スマートフォンを片手に徳間は困り果てる。


 犬は苦手だ。昔、野良犬に追いかけられたことがある。まだ徳間が五つか六つの時だ。幼い子どもにとって、体躯の大きい成犬は正に怪獣である。

 お陰で、徳間は猫派なのだ。猫は良い。さほど大きくならないし、吠えない。お手やお座りと言った芸は覚えないが、散歩に連れて行く手間もなかった。体力の落ちた年寄りには、御誂え向きだろう。


 云々と悩んだあと、柵越しならば危険は少ないと判じて、徳間は庭に下りた。

 近付いて見てみると、若い犬ではないようだ。眠たげに伏せ目がちとなった瞳は、うっすらと白濁しており、よくよく観察すれば毛に白髪も混じっている。艶も良くない。正確な年齢は分からなかったが、老犬と表して間違いはなかった。


 首輪をしていることに気付き、徳間は安心した。捨て犬や野犬ではなく、迷い犬のようだ。野犬であったらしかるべきところに電話をしなければならないが、それで殺処分などになったら後味が悪すぎる。——而して、迷い犬の場合はどうすれば良いのだろう。またしても徳間が困惑していると、助け舟が寄ってきた。


「あら、サブじゃあないの」


 隣家の奥さんだった。気圧わずに近寄ってきた足音を聞き入れ、犬は伏せた体制のまま目だけを上げる。

 尻に寄り添っていた尻尾が、お愛想のように揺れた。奥さんの挨拶通り、犬も見知った人物らしい。

 飼い犬なのだから人に慣れていて当然だが、それにしても穏やかな犬だった。老犬だと言うこともあろうが、人が近寄ってきても吠えもせず、興奮して立ち上がることもない。犬——サブに対して、徳間は好感を抱いた。既存の犬への印象も、払拭されていく。


「飼い主を知ってるんですか?」

 小太りな奥さんに徳間が聞く。

「あっ……んー、連絡してみますね」


 絶妙に気まずい表情をして、奥さんは頷いた。

 一時間ほどが経ち、車でサブを迎えに来た男は、この家の大家だった。

 恥ずかしそうにへこへこと頭を下げて、どでんと丸まっているサブを、連れて帰ろうとする。だが、サブは起き上がらなかった。全体重を使って、動くことを拒否している。徳間は呆けながら、サブが無理矢理引き摺られ、車に押し込まれるのを見やった。


 *


 二日後、またしてもアルミ柵の前に、大きなロールパンが置かれていた。サブだ。特徴的な寝姿に、一目で分かる。


 徳間がサブを見つけたのは、ペットショップで、長いこと子猫を吟味してきた帰りのことだった。

 猫の寿命は長く、二十歳を超すものもあると言う。二十年後——徳間は八十九となっている。幸いなことに、徳間は健康体そのものであったが、いつ何が起きるとも知れない。その事を、徳間は今年の初めに痛いほど実感していた。なので、若い子猫を飼うよりも、保健所などで成猫を貰い受けた方がいいだろう。

 そう、徳間のように、サブのように、老い、死を待つ時分の猫を。


 徳間は隣家の呼び鈴を押して奥さんを呼び出すと、ロールパンがまた蹲っていることを伝えた。

 迎えは、この前と同じように一時間ほどで来た。大家の男である。三十半ばから四十手前だろう年齢の大家は、車で一時間程度のところに住んでいるらしい。それは、サブの住処も車で一時間も離れた場所にあると言うことだった。

 大家は絶えず徳間に頭を下げながらも、動こうとしないサブへの苛立ちを隠しもせず、無理矢理に車へと押し込んだ。


 また数日が経つと、アルミ柵の前にロールパンが丸まっていた。

 隣家の奥さんを呼び出すことも、あまり良い印象を抱けない大家に来てもらうことも気が進まず、ほとほと徳間は困り果てた。

 アルミ柵越しに、サブに近寄る。サブは、師走の冷たく硬いアスファルトの上で、北風に晒されながらも穏やかに丸まっていた。その姿は、初めてサブを見つけた時と変わりはしない。


「お前はここで、何をしてるんだ?」


 犬が返答をするわけがないことを知った上で、徳間が問う。柔らかな被毛に埋めた顔から、眠たそうな瞳が見返してきた。


「あらあ……またサブ来たんですか」


 買い物帰りらしい隣家の奥さんが通りかかった。手には重たそうなビニール袋が下げられている。呆れとも、憐れみともとれる声音だった。愛想で振られた尻尾と、徳間の顔を交互に見て、奥さんは逡巡する。


「実はね、サブ、ここに住んでたお爺ちゃんに飼われてたんですよ。お爺ちゃんが亡くなって、息子さんに引き取られたんですけど……あ、いつもサブを迎えに来る人が息子さんね。サブったら、お爺ちゃんのことここで待ってるのかしらねえ……」


 奥さんは、言うか言うまいか躊躇っていたようだったが、話したさが勝ったのか、口を開いてからはペラペラと言葉が出てきた。


 この家の今の住人は、徳間だ。以前、住んでいた人間のことなど、特別に知りたいものではない。その人が亡くなっているというのならば尚更である。そういうことがあって、奥さんは気まずそうにしていたのだろう。徳間は合点がいって、微動だにしないサブを見下ろした。

 ——ああ、こいつは飼い主のことを待っていたのか。

 男が連れて帰ろうとしても、動こうとせずに踏ん張っていたサブの姿が思い出される。


 奥さんからの連絡を受けて、大家が迎えに来た。


「本当に何度も何度も申し訳ありません。ちゃんと出ていかないように柵を設けているんですが……今回は柵を壊して出て行ったみたいで、リードも切れてるし。次はもっと頑丈にして、閉じ込めておきますね。……たく、柵もタダじゃないってのに」


 辟易とした態度をあからさまに出しながら、大家は溜め息を吐いた。徳間は顔を顰める。

 大家が首根っこを掴むように首輪を鷲掴むと、丸まっているサブを勢い良く引き擦ろうとした。きゃん! サブの甲高い鳴き声が響く。


「ちょっと!」


 思わず声を掛けてしまってから、大家の面倒そうな視線を受けて、徳間は息を飲んだ。


 確かに、こんなにも頻繁に、車で一時間も時間をかけて迎えに来るのはしんどいが——サブだって、老いた体に鞭を打ち、この家に歩いて来ているのだ。車で一時間の道なら、老犬の足でどのくらいだろう? 少しは労わるべきではないか? そこまでしても、会いに来たサブを。今は亡き飼い主を、不在の家の前でずっと待っている、老犬サブを。

 徳間は自らを落ち着かせるように、深く息を吐いた。


「良かったら、こちらでサブの面倒を見ますよ。……私も老人の一人暮らしで、動物を飼おうと思ってたところなんです。サブもこの家を気に入ってるみたいですし」


 本当は、猫を飼うのが夢だった。近隣の保健所や保護団体を探していた苦労は、水の泡となる。それでもいいと、徳間は思った。それでも、この健気なサブの忠義を、徳間だけでも支えてあげたい。


 一瞬、驚いた顔をした後に「でもお」と男が思案げに目を伏せた。「悪いですよお」「此処なら脱走することはないと思いますけどお」と繰り返す裏で、まんざらでもないことが見てとれる。それが、なんだかとても憐れだった。

 男からサブへの愛情は、全くと言っていいほど見てとれない。厄介なものを遺されてしまったとの思いが、ありありと伝わってきた。


 *


「あれ? ……親父、猫飼うって言ってなかった?」


 縁側に置いた座布団の上で、我が物顔で寝そべっているロールパンを見つけて、息子も最初は正体が分からなかったようだ。まじまじと観察した後に犬であると知ると、不思議そうに言った。

 息子と共に訪れてきた孫が「犬だ! おっきい!」と駆け寄る。慌てて息子が制止をかけたが「サブは穏やかだから、噛んだりしないよ」と、徳間が促した。


「奇妙な縁があってね、犬にしたんだ」

「静かな犬だな。犬ってもっとキャンキャンしてるもんだと思ってた」


 猫好きの徳間だったが、幼い頃は母が、大人になってからは妻が動物アレルギーを持っていて、今まで飼ったことがなかった。故に、息子も動物とは縁遠い生活をしてきた。


 使い勝手に慣れてきた台所で三人分の茶を淹れて、煎餅や花林糖を茶受けに出す。息子や孫の口には合わないだろう。そう思って、買い置きしていたチョコレートの袋菓子も出した。テレビのリモコンと新聞しかなかった炬燵の上が、一気に所帯染みる。


 徳間が炬燵に潜り込むと同時に、リンの音が響いた。仏壇の前に座り、線香を立てた息子が、リンを鳴らしたのだ。サブを撫で回していた孫も、息子に急かされて仏壇に向かう。


「ほら、婆ちゃんに挨拶しな」


 仏壇に飾られた遺影が、息子と孫に優しく微笑みをかけていた。若い頃の妻の姿だ。


 妻が亡くなったのは、まだ肌寒さが残る今年の春のことだった。それまで健康一筋で病気の一つもしなかったのに、定期の健康診断で病が見つかってからは、命が指の間を擦り抜けていくのが早かった。短い闘病の末、呆気もなく逝ってしまったのだ。


 病床で妻は気丈に笑う。

「遺影はこれがいいわ」

「それは若すぎやせんか?」

「ぜーったいにコレ!」


 同じ歳同士が連れ合って、子を成し、成人まで育てあげて、苦楽を共にしてきた。

 死ぬには早いのではないかと言う歳であったが、徳間も妻も、来たる死別を受け止めるのに、そう時間はかからなかった。長い時間を共に過ごす中で、「別れ」は、ごく自然とお互いに意識してきた部分だったからだ。


「なんつーか……随分、古風だなあ」


 炬燵に向き合って座った息子が、室内を見渡しながらに言う。


「母さんの趣味とは全然違う。親父は、こういうのが好きだったのか?」


 亀裂が入る古い砂壁。青臭さの欠いた煤けた畳に、座布団と仏壇。橙の布団が掛けられた炬燵、縁側と、望む庭に物干し竿。冬のカラタチの木は骨のよう。


「母さんはフランス贔屓だったからなあ」


 妻は洋風のものを好んでいた。その中でもアメリカやイギリスのテイストではなく、フランスが良いと言っていた。何故だか知らない。だが、新婚旅行で訪れたのもフランスであり、徳間の退職金を使って旅行したのも、フランスであった。

 住んでいたマンションは座卓ではなく、ソファにダイニングテーブルで、シャンデリアが天井に垂れ、窓には刺繍の施された白いレースが揺れる。食卓に並んだのは洋食だった。発酵させたキャベツ——酸味が強いザワークラフトの煮込みや、おやつにはカヌレやマカロンと言った、よく分からないものが出された。


 徳間が好んだものとは違かったが、文句はなかった。専業主婦として家に一番長く居る妻が、心地の良い空間を作ればいいと思っていたのだ。だが、その空間を作り上げた主人が居なくなった家で、徳間は絶え間ない身寄りの無さを感じた。皿の一枚を取っても、散らばる小花の装飾から妻の囁きが聴こえてくるようで、寂しさに押し潰されそうになった。


「こらこら、尻尾は引っ張っちゃダメだぞ。サブはお爺ちゃんなんだから優しくしないと」

「お爺ちゃん? サブはお爺ちゃんと一緒だね」


 サブの尻尾に触れていた孫が、無垢な瞳で徳間を見つめる。ああ、そうだね、と相槌を打って、徳間は笑った。


「じゃあ、次は正月かな。いっぱい土産持ってくるから」


 賑やかな孫と息子が帰ってしまうと、家には静寂が満ちる。まだ線香の匂いが漂っていた。


 温くなった茶の入る湯呑みを持ち、座布団をサブの隣に敷くと、徳間も縁側に座った。丁度よく陽射しが降り注いでいる。家の外では十二月の空っ風が荒れていようが、縁側にはぬくぬくとした小春が下りていた。暖かな陽射しに照らされて、静寂ではあったが、それは寂しいものではなく、穏やかな時の流れだ。


 洋物が好みの妻が、珍しくも結婚記念日に贈ってくれた湯呑みを一撫でする。若草色の湯呑みと対になる桜色の湯呑みは、仏壇の前に置かれていた。


「なあ、サブ。終の住処くらい、自分で選んだっていいよなあ……」


 しみじみと徳間が呟くと、サブの耳がぴくり、ぴくりと動いた。重たそうに瞼を開いて、徳間を見上げる。そうして、大きな欠伸を落とした。


 サブは、飼い主がこの世に居ないことを、本当は知っているのではないか、と徳間は思う。

 初めてサブを家に上げた時、サブは迷わずに縁側へと駆けて行って、陽だまりの中で丸くなった。他の部屋に入り、飼い主の姿を探そうともせず、匂いを嗅ぎまわりもしなかったのだ。たかが犬と言っても、生命の最期を利口にも感じ取っているらしい。ならば何故、サブは何度も何度も、長い道のりを歩いてこの家に来たのだろうか。


 サブは死を待つ場所を、自分自身で住み慣れたこの家であると決めているのだ。そう、徳間には思えた。


 加齢により少し白濁してしまっている両目は、されど静かな叡智が宿っているようにも見えた。

 徳間も待っている。

 不意に訪れてくる死を。

 息子や孫の来訪を。

 春に咲く白い花を。

 庭に舞うアゲハ蝶を。

 秋に実る果実を。

 鼻を擽る芳香を。


 いつか死が訪れ、妻に再会するその時を。


「どっちが会いに行くのが早いか、お前と勝負だな」


 サブもまた、再びあの世で飼い主に相見える時を、待っているのだろう。


 念願の猫を飼うことを断念し、サブを迎え入れてから、一日一度の散歩の時間が出来た。健康への適度な運動になるわけであり、互いに再会は遅くなりそうだと徳間は笑う。思い描いていた生活とは多少異なってしまったが、徳間はサブとの暮らしを気に入っていた。

 たった一人で死を待つのみと思っていたのに、思いがけず相棒を得た気分だ。


 朝目覚め、仏壇に手を合わせて、サブと朝食を摂る。気が向くままに散歩に行き、後はゆったりと流れに身を任せて、家の中で過ごす。たまに散歩中に知り合った爺さん仲間が、囲碁や将棋を差しに来て、息子家族が訪れるイベントもある。

 サブが元の飼い主とずっとそうしてきたように、徳間の毎日は穏やかで、凪のようだった。


 茶を一口啜った徳間に、サブが大口を開けて、もう一度欠伸を落とした。


 堪らずに撫で上げ、抱き抱えて柔らかな毛並みにほおを寄せると、サブは陽だまりの香りがした。毎朝嗅いでいた——。トースターで温められたロールパンの匂いにも似ていて、まだ冬だと言うのに、懐かしい幼き頃のカラタチの瑞々しい香りも頭の中で蘇った。

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縁側と、カラタチと、丸まるロールパン 浅葱いろ @_tsviet

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