私はアパートである。
浅葱いろ
「わたし」
私はアパートだ。
アパートとは、複数の独立した住居が一つに集まった、人が居住すべく建てられた建物である。
築五十六年。昭和生まれ。建築当時は、防災を意識した珍しい鉄筋コンクリート造りと、共用ではない個別の水洗トイレ、風呂場がそれぞれの住居に設置されており、外国情緒が取り入られた外観や這入口、螺旋を描く内階段の美しさに、職業婦人や粋な若者たちの憧れの住居であった。
一階に二戸、二階に三戸の全五戸の間取りは、どれも六畳間が二部屋と台所、そこにトイレと風呂場が寄り添ってある。
一世帯に子供が四人も五人も居ることが珍しくなかった時代、少々家族連れには手狭だった。子供が好きな私にとっては残念なことに他ならないが、未来の輝かしい若者たちを育む住まいになれることが、一番の誇りだ。
さて現在、私の中に住んでいるのは四世帯だ。
一階に一人暮らしの男性、二十代。同じく一人暮らしの女性、八十代。二階にまた一人暮らしの女性、三十代。一つの空き部屋を挟んで、三人暮らしの家族、父母と六歳になる男児。私にしては珍しい、家族連れが居を構えていた。
チュン、チュン――。雀が涼やかな鳴き声を聞かせる。厳しかった残暑が落ち着き、過ごし易い秋の到来を感じられる朝だった。
太陽が昇り暫くが経つと、二階の一室の扉が元気よく開け放たれる。
男児だ。軋む扉に目もくれず、吹き抜けの階段にあるステンドガラス越しに朝日を浴びて、男児は元気良く駆け下りていく。扉が、ギイイ――バタンッと閉まる音が響いた。
階段を下りてすぐの短い廊下を抜けると、這入口のホールに郵便ポストはあった。
雨風が凌げるホール内にあったが、長年の湿気に曝されて金属製の集合ポストは錆びついている。ホールはあまり風通しが良くなかった。
一号室――二号室――。
印刷の掠れた印から、男児は一つのポストに目を止める。そこは二号室であった。横に長い投函口から新聞がはみ出している。朝刊だった。新聞を引っこ抜くと、男児は一階にある右手の部屋に向かった。
扉の緑色の塗装は剥げかけている。飾り彫りが入る扉の横、相反して装飾のない丸いボタンを押すと、ブーとブザーが鳴った。
最近、私の隣に新築のアパートが建った。白と黒を基調とした気障なアパートに教えてもらったのだが、近頃のチャイムはピンポンと音を鳴らすらしい。生憎、私には聞き覚えがない。
「あらあら。ありがとうね」
ブザー音から一拍を置いて、扉から顔を出したのは白髪の老婆だった。新聞を受け取ると、老婆は五十円玉を男児に手渡した。小さな手の平に乗った硬貨を確認し、満面の笑みで男児は顔を上げる。
「ありがとう!」
「また明日も頼んだね」
男児が老婆に新聞を届けるのは日課であった。一日五十円、一ヶ月三十一日として千五百五十円。男児は〝あるばいと〟をして、お金を稼いでいるらしい。
「いつもすみません」
二階から様子を見守っていた男児の母親が、柵から身を乗り出して頭を下げる。
男児の母親は身重だった。大きく突き出た腹部が、妊婦であることを隠しようもなく主張している。臨月が近い。男児に弟か妹かが誕生するのも、直のことであった。
「いいんだよ。寧ろ、私が感謝したいくらいさ」
本心からの言葉であろう。一人きりでいる時は浮かない表情が多い老婆は、男児と話す時だけパッと花が咲いたように明るくなる。寂しい一人暮らしだ。賑やかな子供の笑顔は、それだけで元気を与えてくれる。
「ダメだよ、ママ! 座ってて!」
ぷりぷりと怒った様子で男児は言った。男児がお金を稼いでいる理由は、まだ見ぬ弟か妹に、玩具を贈りたいが為だった。
男児が、母の大きなお腹を気遣うのはいつものことだ。「はいはい」と呆れたようにしながらも、母親は幸せそうに笑みをこぼした。
三人の姿がホールになくなると、何処かからか芳ばしい珈琲の香りが漂ってくる。二階で一人暮らしをしている、女性の部屋からだ。
三十と言う女性として大きな節目を迎えた彼女は、自室のテーブルの上に突っ伏していた。昨日の深酒が体の隅々に色濃く残っている。部屋は酒臭に満ちていた。
ここ一ヶ月間、彼女は日々こんな感じだった。毎晩、度数の高い酒を煽っては、二日酔いで気持ち良く朝起きられた試しがない。以前はこんな状態ではなかったのに――自棄酒の電話を盗み聞きして知ったが、どうやら彼女は長年付き合っていた恋人と別れたらしい。
珈琲を沸かす機械が音を鳴らす。這うようにして台所に移動すると、コップに珈琲を上手く注ぐことが出来ず彼女は地団駄を踏んだ。
地団駄を踏まれた床の下、一階の部屋には男が万年床になっている布団の上で眠っていた。
彼の起床はいつも遅い。夜明けまで起きているので、昼過ぎになってやっと起き上がる生活だった。なんでも、彼は〝こんびに〟と言う二十四時間、年中無休の場所で、深夜の〝あるばいと〟をしているらしい。 毎朝、男児が開けるけたたましい扉の開閉音に一瞬だけ目を覚ましたが、直接に文句を言う気概は持ち合わせてはいないらしい。
私も、彼が気の弱い青年で良かったと心底から思う。住人同士の諍いは見たくはない。私の中に住んでいる者同士、仲良く毎日を過ごしてもらいたいものだ。
そんな気弱な青年であったが、別の一面も持っていることを私は知っていた。
あるばいとをする傍ら、彼は芸人の顔を持っているのだ。週に四日程度、相方と呼ばれる彼の知り合いが家を訪れた。私には早口と横文字が多くて理解に難しかったが、芸の打ち合わせに真剣に取り組んでいることが分かる。しかしながら、その努力は今だに実ってはいない。
そうこうしている内に、二階の扉が開いた。男児の家だ。出てきたのは父親であった。作業服に身を包んでいる父親の鞄からは、美味しそうな弁当の匂いが香ってくる。
「じゃあ、行ってくるな」
「いってらっしゃい」
見送りに出た母親が微笑む。その顔と、母親の横に居る男児の顔を順番に見ると、父親は苦笑いを浮かべた。
「本当に頑張らないとな。二人目も産まれることだし」
半年ほど前まで、父親は無職であった。長らく勤めていた会社を、業績悪化を理由に解雇されてしまったのだ。
正社員と契約社員の違いが私には分からなかったが、契約社員だった父親は真っ先に首を切られたのだと言う。私は憤った。妻子、しかも身重の妻を持つ男性の首を切るだなんて、一家丸ごとを路頭に迷わせる所業だ。正社員だか契約社員だか知らないが、従業員の生活も保証ができない会社は、人を長時間の契約で雇用すべきではない。
父親は頑張って職を見つけてきたが、次は派遣社員というもので、やはり不安定な立ち位置らしかった。
気を落とした様子だった父親の肩を、元気付けるように母親は叩くと、明るい笑顔で男児と手を振った。
丁度、二日酔いながらも身支度を終えた彼女が、向かいの扉から顔を出す。彼女も通勤の時間だった。化粧によって目の下にできた濃い隈は隠れていたが、日頃の不摂生で艶の失せた髪の毛は、窶れた印象を拭い去れない。
「……おはようございます」
一見すると、幸せそうな男児の家族を見て、引っ込んでいたはずの彼女の涙が込み上がる。嗚呼、私も結婚するはずだったのに! そんな嘆きが聴こえてきそうだと、私は思った。
潤んだ瞳を眩しい朝日のせいにすると、彼女と父親はそれぞれの職場に向かって歩き出した。
「今日は何して遊ぶ?」
「んーとねえ、人生ゲーム!」
母親と共に家の中に戻った男児は、保育園や幼稚園には通ってはいなかった。
保育園は、基本的に母親も働いていないと入れないらしく、入るにしても保育園自体が空いていないこともあるらしい。私の向かいに建った一軒家に教えてもらった。幼稚園は母親が働いていなくとも入ることが出来るらしいが、無料ではない。男児は、家庭の金銭的事情で、家で過ごしているのだ。
来年は一年生かあ。
ランドセルも買わないとな。
学習机だって必要だし、教科書も買わないといけないよな。
男児が寝静まった夜半に、両親が話しているのを聞いたことがある。その時は、男児の前では明るさを絶やさない母親も、暗い顔をしていた。
築五十六年も経つと、時代は移り変わる。
職業婦人や未来ある若者たちから人気であった私も、廃れてきた。
和と洋が融合する浪漫が存在すると、一部の界隈の者たちに持て囃された時もあったが、建物自体の劣化は歯止めのかけようがなく、また下降する人気と共に、私を貸し出す家賃も下がった。
外観やホール、階段の壁は経年劣化でヒビ割れが目立ち、床に敷き詰められたタイルも割れて剥げているところがある。室内もまた同様で、畳は色褪せていたし、建具の角も丸まっていた。
六畳二間と台所、寄り添うようにあるトイレと風呂場の狭い間取りも、男児の家族には窮屈であろう。男児の存在は私にとってかけがえのないものであったが、これからの成長を思うとこのままではいけないとも思う。だが、私はただのアパートメント。私に出来ることはなかった。
昼が近くなってくると、老婆の部屋から美味しい匂いが漂ってくる。昼食だろう。一日三食、全て細々と自炊をしている老婆の部屋を、どれどれと覗き込む。今日はカレーうどんであった。昨日の昼食は、鍋焼きうどんで、夕食はカレーであった。
老婆は節約に努めている。それは趣味ではなく、少ない年金でやり繰りをしなければならず、必要に迫られた結果だった。
家計簿替わりの大学ノートを眺めて、老婆はよく溜め息を吐く。その少ない家計から男児に小遣いを渡していることから、老婆にとっても男児にもらっている活力はかけがえのないものなのだろうと感じる。販促物を沢山に貰ってしまい勧誘を断りきれず、嫌々ながらに契約してしまった新聞だったが、とっていて良かったと老婆は思う。
老婆には子供が一人いた。老婆の年齢を鑑みるに、子供も既にいい歳の大人になっているのであろうが、何やら事情があって会えていないらしい。角の掛けた古い写真に写る少年の姿を、慈しみを持った目で老婆は眺めるのだ。
子供がどこかで生きているのならば、たった一人の親、たった一人の子、代わりのない親子なのだから、老婆に会いに来てやってほしいと私は長いこと願っている。
老婆がうどんを食べ終えた頃、芸人の彼は重たい体を起こした。
この彼が私の中に住み始めた当初は、早く出て行ってほしいと憤慨したものだった。何せ彼は、私の中に入居して一週間経たずで、部屋を屑かごの状態にした。過去、こんなにも私を汚してくれたものはいない。床は脱ぎ散らかされた服で足の踏み場がなかったし、テーブルの上も台所の流し台も作業台の上も、ゴミでいっぱいになっている。唯一、人が居られるスペースが、年中敷きっぱなしである布団の上だけだ。
私が怒るのも致し方がないことだろう。私は彼のことが嫌いで、迷惑な害虫のようにしか思っていなかったが、今は愛着を芽生えさせていたし、応援してもいる。その理由はやはり、芸事に真剣に取り組んでいる姿を見守ってきたからだろう。
電話が鳴る。これも隣の気障なアパートから教えてもらったが、四角い機械は〝すまーとふぉん〟と言うらしい。私がよく知る黒電話と同じ機能を有し、写真を撮ることや〝いんたーねっと〟も出来る優れものだと言うことだ。
すまーとふぉんを耳に当てると、彼の耳元で声が響いた。聞き覚えがある。相方だ。
「分かってる、分かってる! 十四時には行くよ、オーディションに遅れるわけがないだろ」
おーでぃしょんと言う言葉は、何度か彼と相方から聞いていた。なんでもおーでぃしょんに合格をすると、芸人としての仕事が増え、夢が叶うかも知れないのだ。それにしても、十四時まで一時間と少ししかない。急げ! 急げ! と尻を叩く思いで、私は応援を送った。
十五時。家で遊び飽きた男児が、外に飛び出してくる。
見送りに来た母親が「遠くに行っちゃダメよー!」と声を掛け「全然、お昼寝しなくなったな」と息子の成長を喜んでいるのか悲しんでいるのか、欠伸を噛み殺して戸を閉めた。
階段を駆け下りてホールに出てきた男児は、外へと続く両開きの扉から出て行った。すぐに戻ってくる。ホールのタイルに、何かが落ちていたことに気付いたからだ。
郵便ポストの下辺りに、それはあった。白い、長方形の封筒。手紙であった。宛先を見てみても、生憎なことに男児には漢字が読めない。だが郵便物を届けると、老婆が綻んだ顔で喜び、小遣いをくれることが身に染み付いている。
暫し悩んだあとに、少年は立ち上がった。向かう先は、やはり老婆の家である。聞き親しんだブザーの音が響き、やがて老婆が扉から姿を見せた。
男児が新聞を運んでくれるのは、朝刊だけの約束だ。また何かの勧誘か――警戒しながら扉を開けた老婆は、男児の顔を見ると驚き、予期せぬ来訪に心を弾ませた。
「どうしたんだい? おやつでも食べるかい?」
おやつの単語に誘惑され、気が逸れかけたが、なんとか男児は思い出した。ホールで拾った白い封筒を差し出す。
「これ、おばあちゃんの?」
「ええ、確かに私宛だけども……」
老婆宛だったのは偶然だった。自分の名前が書かれている封筒を男児から受け取ると、裏返して宛名を見る。
老婆は固まった。動かなくなってしまった老婆を、男児と一緒に不思議そうにして私も眺めた。固まっていた老婆の口許が、ふるふると小刻みに震える。
私は何の前兆であるのか、色々な入居者たちの生活を見てきた為、知っていた。込み上がる涙を堪えている顔。今にも泣き出してしまいそうな顔だ。
何があったんだ! 誰からの手紙だったんだ!
とうとう皺くちゃの目尻から大粒の涙を流し始めた老婆を見て、男児と私は狼狽した。
「おばあちゃん、おばあちゃん、痛い? 悲しい?」
男児が老婆の服の裾を引く。涙を拭い、鼻をすすった老婆は、一転して笑顔をこぼした。
「これは悲しい涙じゃなくて、嬉しい涙だよ。本当に君は、幸せを運んできてくれるね」
男児は首を傾げる。
「おばあちゃんの息子からの手紙だよ」
その老婆の言葉を聞いた時、私は柄にもなく両手を振って喜んだ。いや、両手はないのだが、両手を振るほどの勢いで喜んだのである。ずっと離れ離れだったらしい息子と、老婆は連絡が取れたのだ。息子からの手紙には、老婆の孫となる子供の写真が入っていた。
男児の家と老婆の家から夕食の食欲をそそる匂いが立ち始めると、二日酔いで出勤した彼女が帰ってきた。
あれ、早いな――と私は思い、彼女の姿を注意深く窺う。
彼女は仕事を終えると何処かで酒を飲んでくるようで、いつもアルコールの匂いを漂わせていた。そして、出先で散々飲んできたのだろうに、白い袋に沢山の酒を持って帰ってくるのだ。それが今日は、アルコールの匂いもしないし、白い袋も持っていない。
急いで扉の施錠を開けると、勇み足で部屋の中に入っていった。一目散に風呂場へと駆け込み、着ていたスーツを脱いでいく。その時、彼女のすまーとふぉんが鳴った。煩わしそうに、すまーとふぉんを操作する。四角い箱から声が聞こえてきた。これは〝すぴーかーふぉん〟と言うもので、私にも聞き取りやすく助かる。声の主は、いつか彼女が自棄酒電話をしていた友達だ。
『やり直すんだって?』
「そうなの、今日連絡が来て、これから会ってくる!」
『良かったじゃん。あんた未練たらたらだったし』
「今からシャワー浴びるから! こんな顔じゃ会えないし、ごめん、また後で!」
スーツを脱ぎ終えると、彼女はすまーとふぉんを放り投げて蛇口を捻った。彼女は酒に溺れ、昨夜は風呂に入らずに眠ってしまっていたのだ。
未練がましい様子は、友達よりも一番に私が見てきたため、当然の吉報に驚きと喜びが湧き上がる。しかし、事を急ぐ彼女には、友人からの祝福の言葉も今は耳に入らないのだろう。私は静かに〝良かったね〟と笑みをこぼした。
次に帰宅してきたのは、芸人の彼であった。彼は一人ではなく、相方を隣に連れている。彼女が持っていなかった白い袋を持ち、中には酒が入っているようだった。
おーでぃしょんの結果を気にし、人知れずに待っていた私は、二人の様子を見てダメだったのかと肩を落とした。二人は一言も話さないままに部屋に入ると、ゴミを掻き分け、布団に向かい合わせとなって座り込む。
「乾杯」
「乾杯」
「ダメだったな」
「ああ」
沈黙。突然、相方が笑い出し、彼も釣られるように笑い始めた。徐々に大きくなっていく笑い声に、訳が分からずに目を白黒させたのは私だった。
「でも、テレビに出れる!」
どうやら、おーでぃしょんの結果は惨敗だったらしいが、会場に来ていた業界の人の目に留まり、深夜のテレビに僅かながらも出演する話が舞い込んだようだ。
お通夜かと見紛うような二人の沈みように心配したものだったが、私は安堵に胸を撫で下ろす。そして、本日三度目の喜びに心の中で手を叩いたのだった。
男児が寝室で寝入った後、隣の部屋で母親は編み物に勤しんでいた。編むのは小さな帽子と靴下である。お腹に居る子が産まれてくるのは秋も深まった頃、寒い季節を過ごす我が子への愛情が切々と伝わってきた。
編み物の傍らには、内職の道具も揃っている。
編む手を休めて、温くなったお茶で喉を潤した頃、玄関戸が開く音がする。父親が帰ってきたのだ。
帰宅してきた父親は、くたびれている。派遣社員で働く傍ら、正社員として雇ってくれる会社を探しているのだった。父親の帰宅を知った母親が、残してあった料理の温めに台所へと立つ。大根と挽肉の煮物と、青菜のお浸しという質素な食事だ。
暗がりの寝室で男児の寝顔を確認してから、作業服の上着を脱いで、父親は食卓に腰をかける。
「今日、内定をもらったよ」
コトコトと鍋を温めていた母親が、驚いた顔で振り返った。
「今、派遣で行ってるとこ、正社員雇用に切り替えてくれるらしい」
新しく受けた会社からの内定は全滅であったが、派遣として行っていた会社で評価されたのであった。
「日頃から真面目にやっておくもんだなあ」
背凭れに体を預けて、脱力した吐息を長くつく。
鍋にかけていた火を止めると、母親は冷蔵庫の前に走った。中から一本、この家では高級品である缶を出す。酒だ。麦酒を父親に差し出すと、母親は「おめでとう」と屈託のない笑みで言った。笑みの中、瞳が潤んでいる。心から母親が喜んでいることを知れた。
「ありがとう。でも、これからだ。もっと広いところに住んで、子ども部屋も作ってあげないとな」
母親の涙目がうつったようで、父親も涙ぐんで未来を語った。
私も、父と母の二人と、産まれてくる赤ん坊、すやすやと眠っている男児を眺めて、泣きそうな思いであった。良かった、良かった。だが、寂しくもなると思う。こうした喜ばしいことが住人にあった時、私とのお別れが近付いているのである。
男児たちは広い家へ越していくのであろう。
老婆はいつか息子と暮らすのであろう。
彼女も結婚をして巣立って行き、彼も夢を追って新天地へと向かう。
こうやって私は、幾度となく出会いと別れを繰り返してきた。でも、いいのだ。私はアパートだから、旅立って行く住人たちの更なる幸福を願い、新たな住人を受け入れる。
本日、四度目の「おめでとう」を、万歳をして私は叫んだ。
私はアパートである。 浅葱いろ @_tsviet
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