みどりちゃんの世界
かどの かゆた
みどりちゃんの世界 上
美術室は、薄暗く、静かだった。
絵の具の香りを胸いっぱいに吸い込んで、私はつるりとした筆の柄を持つ。
白い紙を、薄い水色で染めて、私は空を作るのだ。雲一つ無い青空。瞬きするほど眩しい青の光を、私はここへ閉じ込める。
筆が紙へ触れるか触れないか、といったところで、突然扉が開いた。木製の引き戸の、大きな音。
「今、大丈夫かしら」
扉を開けたのは、美術部の顧問である、松原先生だった。彼女は、たった一人、私が美術の話を出来る人。国語の先生で、私の担任。下手な美術の先生より、ずっと絵に造詣が深い人物。中学二年生の私には良く分からないけれど、大学で美術関係の勉強をしていたとか。
「どうかしましたか?」
私は筆を置いて、先生の方を向いた。先生は扉を開けてはいるものの、部屋へ入っては来ない。顔と肩だけを私に見せて、部屋を覗き込むような体勢である。
「ふふふ」
先生が口角を上げて、わざとらしい笑い方をする。
何か嬉しい発表でもあるのだろうか。
「実はね……なんと! 新入部員が来てくれました!」
「え!」
とくん、と、心臓が跳ねた。
美術部の部員は全学年で二十二名。毎日来る人は、私一人。つまり、残りの二十一名は幽霊部員である。
もし絵を描く仲間が増えるなら、こんなに嬉しいことはなかった。去年の文化祭展示なんて、殆ど私の個展みたいなものだったし。
「ほら、来て来て」
新入部員は先生に手を引かれているようだった。照れ屋な人なのだろうか。
何にせよ、わざわざ先生と一緒に美術室へ来るということは、活動する意欲のある人なのかもしれない。だとすれば、例え誰だろうと大歓迎である。
「……よ、よろ、しく」
新入部員の第一声は、たどたどしい挨拶だった。
「え、あ、先生。新入部員って、みどりちゃん?」
私は頭が真っ白になって、先生の方を見る。先生は微笑みと共に頷いた。
「そうよ」
「えっと、よろしくね」
「……うん」
みどりちゃんは、私の方向を向いていた。
でも、私を見ているかは、怪しい。
いまいちどこを見ているのか分からない瞳。ちょっと気の抜けたような表情。
まさか、新入部員がみどりちゃんだとは思わなかった。本当に、びっくりだ。
みどりちゃんは、クラスで浮いている『変な子』だった。いつもぼーっとしていて、上手にお喋りができなくて、勉強も苦手。そして、すぐ泣く。
彼女はクラスでは笑い者にされていた。
国語の時間。みどりちゃんが小学校で習ったような漢字を読めなかった時、それを笑った男子に、松原先生は「みどりちゃんは頑張っているんだから、笑っちゃ駄目よ」と言った。
でもそれって、凄く難しい。
男子みたいにみどりちゃんをからかいはしないけれど、でも、私も多分、みどりちゃんを見下している節はあると思う。
変な喋り方をされたら笑ってしまうし、そんな自分に幻滅する。みどりちゃんは私にとって、醜い部分を映す鏡のようで。だから、私はみどりちゃんが苦手だった。
「今何をやっていたの?」
考え事をしていた私に、先生が声をかける。
「えっと、水彩画を塗り始めるところでした。この前校庭で撮った写真を絵にしたいなぁと思って」
私は机の上にあった写真をちらと見た。写真には、青空と、緑の葉を揺らす桜の木、外周で通りかかった陸上部が写っている。
「それじゃあ、みどりちゃんも同じの描いてみようか」
「えっ」
私は、思わず声を出してしまった。
「どうかしたの?」
先生が首を傾げて、長い黒髪をさらりと揺らす。
「えっと、急に描き始めるんだなぁって」
私は下手な言い訳をして、目を逸らした。ぶわっと嫌な汗が背中から出てくる。
あぁ、やっぱり私、最低だ。
描けるわけない、って思っちゃった。
私が「みどりちゃんの絵」としてイメージしたのは、幼稚園児が描くような、良く言えば味のある絵だった。
「絵の具ってここにあるのは使って良かったわよね?」
先生は笑顔のまま、みどりちゃんが絵を描く準備を進めている。私の嘘に気付いていない、ということは無いと思うのだけれど。
「え、あ、はい」
私が肯定すると、先生は「これは大丈夫?」「これも?」といちいち確認して、パレットや筆洗いなど、絵を描くため必要な一式を、一つのテーブルに並べた。
みどりちゃんはその間、先生に手渡された写真を手に持っていて。でも結局、見ているのか見ていないのかは分からない。
「さ、みどりちゃん。描けそう?」
準備を終えて、先生がみどりちゃんへ問いかける。
彼女は無言で頷いた。
私はその光景を、ただただ見つめる。先生の態度が妙に自信ありげで、私はみどりちゃんがどんな絵を描くのか、気になってしまったのだ。
みどりちゃんは鉛筆を持って、写真も見ずに、真っ白なスケッチブックに向かった。
そういえば、私はみどりちゃんの絵を見たことがない。美術の授業は、先生の趣味なのか粘土を使ったりすることが多くて、あまり絵を描かないからだ。
「ほら、そんなに見てるとみどりちゃんが緊張しちゃうから、あなたも続きをしてて」
穴が空くほどみどりちゃんを見ていた私を、先生が注意してきた。
「あ、すいません」
確かに、私も自分が絵を描いているところをまじまじ見られたくはない。
出来たものを見ればいいか。
私はもう一度自分のスケッチブックに向き直る。
「よし」
そして再び筆を手に取り、作業に戻った。
描き出すのは、私だけの世界。
絵は自己表現である、というのは、いつか見た本の受け売りだ。それが何気ない日常の一幕を描いたものであっても、本気で人が描いた絵は、その作者の思いが透けて見えるとか。
本当かどうかは別として、そういう考え方って、私は好きだ。絵、特に風景画は、世界の一瞬を切り取る。それも、自分の良いように、自分が見えたように切り取る。
そこが写真と違うところ。写真が写すのはいつでも現実の世界。でも、私が紙に描くのは、私の目を通した世界。つまり、そこは私だけの世界だ。
じゃあ、みどりちゃんはどうなんだろうか。みどりちゃんから見える世界って、どんなだろう。
「ふぅー……」
作業が一段落して、私は深く息を吐いた。
目を閉じて、伸びをして、それから、もう一度自分の絵を見る。
うん、まだ完成ではないけれど、今のところ、結構良い出来だ。
「あれ、先生居ないじゃん」
振り返ると、先生は居なくなっていた。集中していたから、もう一時間ほど経っている。流石に忙しい先生がずっとここに居られるわけはないか。
いや、でもみどりちゃんが何かしらで泣いてしまったら、私だけで対応できる気はしないので、出来れば居てほしかった。
あ。
そうだ。みどりちゃん。
「みどりちゃん?」
私は名前を呼んで、横を見る。
「……みどりちゃん?」
名前を呼ぶのは、二度目。
一度目とは意味が違った。
眼の前の彼女が、本当にみどりちゃんなのか、私は確証が持てなくなったのだ。
だって、あまりにも真剣な表情すぎる。
私は立ち上がって、みどりちゃんの後ろから、彼女のスケッチブックを見た。
「わ……」
鉛筆が、走る。
白い紙の上を、魔法のように、楽しげに、走る。
みどりちゃんの絵は、信じられないくらいに精密だった。まるで写真を鉛筆で印刷したような、そんな感じ。
「すごい!」
私は自分でも驚くほどに大きな声を出した。
「すごいよ、みどりちゃん!」
先生が自信満々だったのは、こういうことだったのか! 私はこの感動をどう表現したものか、無意味に身体を揺らしたり、辺りをキョロキョロ見回したりした。
そのうちみどりちゃんが、私の様子に気付いて振り返る。なんだか不思議そうな表情だ。
「どうやったらそんな風に描けるのか教えて!」
私はみどりちゃんの手を握って、顔を近づけた。いつも何を見ているのか分からなかった瞳が、今は自分に見えない何かを見ているように感じる。
「……えへ」
みどりちゃんはそこまで来てようやく自分が褒められていることに気が付いたのか、軽く笑顔を見せた。
後から先生に聞いた話だと、みどりちゃんには、見た景色をとても正確に覚える力があるんだとか。
でも、それだけじゃない。小さい頃から絵を描くのが好きで、練習していたらしかった。
みどりちゃんと一緒に絵を描けば、私はきっと、もっと上手くなれる。
私は美術部にみどりちゃんを歓迎した。
私の他には、クラスメイトの誰もみどりちゃんが美術部であることを知らなかったし、教室で私と彼女が話すことは無かった。
でも、私は美術室でだけは、みどりちゃんと話すことが出来た。
「小筆が欲しい……とか?」
私は手元にあった小筆を差し出す。
みどりちゃんは無言で頷いて、それを受け取る。
関わってみて分かったのは、みどりちゃんは思っていたよりも色々考えていて、よく見れば表情も結構あるということ。
どうして今まで気が付かなかったのだろう。
不思議。
「うーん……」
私はみどりちゃんの絵と、自分の絵とを見比べてみる。こうして見ると、私の絵は結構デッサンが歪んでいる。
「描き直してみようかな」
横のテーブルには、丁寧に絵の具を混ぜるみどりちゃんがいる。私も、負けるわけにはいかない。
頑張らないと。
それから私達は、数ヶ月間、放課後を共に過ごした。筆洗の水が溢れてみどりちゃんが泣き出したり、二人で外へ写生をしに行ったら男子からからかわれたり、色々なことがあったけれど、それでも、一緒にやってこれた。
そして。
とうとう、文化祭のことを考える季節がやってきた。
「じゃあ、話し合いを始めます!」
松原先生は、黒板にポップな字体で書かれた『ぶんかさい!』という文字を指した。
「えっと、何時も通り美術室に展示で良いんですよね?」
私が聞くと、先生は
「そう。だから、これから二人には展示のための絵を描いてもらわないとね」
と、『てんじ えをかこう!』という文字を黒板に付け足した。
「分かりました」
私がそう言うと、みどりちゃんも、うんうんと私に同意する。
「それと、当日は展示してる時間、美術室に居てもらうからね」
文化祭当日、ステージ発表の合間にある昼休憩の時間に美術室は開放されることになっていた。見に来るのは友達と、一部の保護者。結構人は来ない。
その間、美術部はそこで受付というか、入り口で「どうぞ」と言うだけの役割を担わなければならない。
「それじゃあ、確認終わり! 気合入った絵を期待してるわよ!」
そう言い残して、先生は美術室をあとにした。
「気合の入った絵、ねぇ……」
私は一人呟いて、自分の、真っ白なスケッチブックを見る。当然だけれど、何も描かれていない。
みどりちゃんと過ごして、数ヶ月。
私は、スランプに陥っていた。
何を描いても、みどりちゃんの絵と比べてしまう。
ふと『てんじ えをかこう!』という文字が、視界に入る。
文化祭が、怖い。
自分の絵とみどりちゃんの絵が隣り合って展示されるということが、私には耐えられなかった。
「……ど、どーした、の?」
みどりちゃんが、私の制服の袖をくいと引っ張った。私が絵も描かずボーッとしていたから、気にしてくれたのだろう。
「ありがとう、大丈夫だよ」
そうは言ったけど、内心は穏やかじゃなかった。
私はきっと、みどりちゃんの世界に魅せられてしまったのだと思う。
みどりちゃんは色を塗らせてもすごかった。完成した数枚の絵は、どれも写真のように正確で、写真よりも美しかった。
その美しい世界は、私のちっぽけな世界を砕くには、十分すぎるくらいの力を持っていたのだ。
「どうしよう……」
小さく呟いた。みどりちゃんに聞こえないよう、小さく、小さく。
鉛筆が、筆が、重い。
スケッチブックの向こうに、何も見えてこない。
何かヒントを探そうにも、みどりちゃんはやっぱり、どこを見ているのか分からなくて。説明を求めても、困らせるだけで。
紙に鉛筆が触れると、ざらりとした、嫌な感触がした。自分が紙を汚しているような気さえして、描いては消すのを繰り返す。
「……はぁ」
外はもう、次第に暗くなり始めていた。
今日も、描けなかった。
「……?」
すると、みどりちゃんが私のスケッチブックを覗き込んでいた。不思議そうに、ただただ見ていた。多分彼女は「どうして描けてないんだろう?」と純粋に疑問を持っているんじゃないだろうか。
そう思うと、羞恥と情けなさで、顔が熱くなった。涙が出かかって、止まる。
そのかわり、言葉が溢れてきた。
「……私は」
みどりちゃんがこちらを向く。
「私は、みどりちゃんとは違うよ。全部違う。他には何にも出来ない癖に、何で私が一番欲しい力だけ持ってるの? そんなのってないよ。そんなのって狡いよ」
私は俯いて、みどりちゃんの顔を見ず、言葉を吐いた。
あまりに自分勝手な言葉。
でも、もう、止められない。
「嫌い」
みどりちゃんにも分かる、易しい言葉で、私は彼女を傷つける。
「大嫌い!」
そう言って、私は自分の描いていた白紙の絵をくしゃくしゃにした。
みどりちゃんは私の言葉を理解したのか、単に怒られてショックだったのか、鼻水を垂らして泣いている。
私は荷物を持って走り、一度も立ち止まることなく、逃げるようにして家に帰った。
あんなこと、言いたくなかったのに。
本当に嫌いなのは、情けない自分なのに。
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