みどりちゃんの世界 下

 みどりちゃんを泣かせた日から一週間、私は美術室へ行っていない。

 どうせ行っても何も描くことは出来ないだろうし、みどりちゃんに会うのが怖かった。会って、これ以上みどりちゃんを傷つけるのが、怖い。

 嫌いだなんて言ったことを、私は次の日も、その次の日も、ずっと後悔していた。みどりちゃんは酷い事をされても、それを先生に訴えられない。詳細に伝えられない。

 私が未だに先生から何も言われていないのは、きっとそういうことだと私は理解している。


「それじゃあ、今日も教科書を読んでいきましょうか」


 松原先生は、教壇に立って笑顔で授業をしている。

 先生は、急に部活へ来なくなった私を、どう思っているのだろうか。みどりちゃんと私の画力の差を考えれば、理由なんてとっても分かりやすいと思う。

 でも、先生は何も言わなかった。


「次は、みどりちゃん、読んでくれる?」


 たまたま教科書を読み上げる順番がみどりちゃんに当たっただけなのに、私はびくりと反応してしまった。幸い、私の方を誰も見てはいない。


「は、はい」


 みどりちゃんは吃りながら返事をする。

 私が泣かせてしまってから、みどりちゃんは明らかに元気が無かった。多分皆には何時も通りに見えるだろうけど、私には分かる。笑顔が少ないのだ。


「こ、こん、こんにち、は」


 みどりちゃんはゆっくりと、ゆっくりと教科書を読み上げる。クラスのやんちゃな男子達が、くすくす笑いだした。女子も口では「やめなよー」と言いながらニヤついている。

 私は笑う気にはならなかった。

 代わりに、酷く安心した。

 みどりちゃんは、確かに絵は凄いけれど、多分それ以外で言ったら、私はちゃんと勝っている。

 私は皆と一緒に、普通に生活出来る。だから、笑われることも馬鹿にされることもない。

 天は二物を与えず、という言葉を思い出した。もしみどりちゃんが、絵が上手いだけじゃなく人気者だったら、私は自分の何も無さに絶望して、死んでしまうかもしれない。

 みどりちゃんが変な子で、良かった。

 相手が何もかも違う人間なら、幾ら差が有っても諦めがつく気がする。


「……私、最低だなぁ」


 そこまで考えて、私は口の中だけでそう呟いた。

 誰にも聞かせるつもりのない、呟きだった。ただ自分を責めるだけの、非生産的な口の使い方だった。

 でも、みどりちゃんはこんな使い方さえ出来ない。

 上手に喋れないこと、ぼーっとしていること。笑っちゃいけないのは誰でも分かる。絵が上手すぎることも含め、特別扱いされることをみどりちゃんが望んでいないのも、分かる。

 分かるけど、やっぱり、あまりに違いすぎるのだ。才能も、考え方も、きっと世界の見方すら、私とみどりちゃんは違っているだろう。

 私達は共有できるものが、少なすぎる。


「どうかしたの?」


 突然目の前に松原先生の顔が出てきて、私はひどく驚いた。


「わっ、先生!?」


 慌てて辺りを見回すと、既に授業は終わっている。私一人だけが、白紙のノートを広げてぼーっとしていた。


「集中、出来てなかったみたいね」


 松原先生がそのノートを見て、笑う。

 しまった、授業中ずっと考え事をしていたのがバレた。これは流石に温厚な松原先生も怒るんじゃないだろうか。


「すいませんでした。ちょっと、考え事をしちゃって、その……すいません」


 私が必死で謝ると、先生はゆっくりと私の手に触れた。


「その考え事っていうのは……美術部、のことで、良いのかしら」


 松原先生はしゃがんで、席に座る私と同じ目線になった。真っ直ぐな瞳。一切の逃げや誤魔化しが通用しないのではないかと思うほど、先生の表情は真剣だった。


「……はい」


 私が頷くと、先生は立ち上がる。


「ちょっと、二人でお話しない? 放課後、職員室に来てもらえるかしら」


「分かりました」


 軽く震えた声で、私は返事をする。

きっと先生は私を心配してくれているのだろう。私がみどりちゃんを傷付けたとは、露程にも思っていないんじゃないだろうか。

 みどりちゃんが無理なら、私のしたことは私によってしか語られることがない。

 覚悟を決めよう。先生に相談すれば、何か解決策を教えてもらえるかもしれない。






 放課後、職員室に行くと、先生は私の手を取り、美術室へと連れて行った。みどりちゃんと会うのは嫌だったけれど、逃げるわけにもいかないので、そのまま着いていく。

 しかし、美術室にみどりちゃんは居なかった。


「今日は委員会だから、みどりちゃんは遅いわよ」


 私の心を見透かしたように、松原先生が言う。


「そう、ですか」


 安心したような、残念なような。冷静になって美術室を見ると、景色は一週間前と殆ど変わらなかった。

変わっているのは、隅の一角が白い布で覆われていることくらいだろうか。


「みどりちゃんと、何かあったの?」


 静かな美術室に、松原先生の高い声が響く。

 私は正直に話をするために、深呼吸をした。絵の具の匂い。みどりちゃんは、一週間、一人きりで絵を描いていたのだろうか。


「私、みどりちゃんに酷いことを言っちゃいました。嫌いだって、言っちゃいました」


 自分でも声が震えているのがわかった。悪いことをしたのは自分なのに、傷付けたのは私の方なのに、どうして私が泣きそうになっているのだろう。


「本当に、貴方はみどりちゃんが嫌いなの?」


 先生は優しげに、穏やかな声で私に尋ねた。


「いえ、嫌いじゃ、ないです」


「じゃあ、どうしてそんな事を言ったの?」


 どうして。それは、難しい質問だった。みどりちゃんの才能に嫉妬したから、というのも一つの答えである。

でも、それだけじゃ、なかった。


「私と」


 何とか言葉を紡ごうとしたら、益々声が震えて、今にも涙が溢れそうになる。


「私とみどりちゃんは、全部、全部違うから。みどりちゃんの目を通して、私は世界を見られないから。一緒に居るのが、辛くなったんです。自分の才能の無さ、嫌なところ、恥ずかしい部分、その全部が、みどりちゃんといると、鏡みたいに見えてくるから」


 松原先生は黙って私の話を聞いている。何も言わずに頷いて、ただ、私の纏まりのない話を咀嚼して、理解しようとしてくれているのだ。


「変わった子だし、絵の天才だし、きっと私は、一生かかってもみどりちゃんとは分かり合えないんじゃないかって、そう思います」


 スカートの裾をぎゅっと握りしめて、私は、自分の思っていることを、全部話した。

 怒られるから言わないでおこうと考えていたことまで、全部言ってしまった。みどりちゃんみたいな子を特別扱いするのは、本当はとてもいけないことなのに。


「確かに、私もみどりちゃんと仲良しになるのには、随分苦労したわ」


 しかし松原先生は、私を叱りつけるようなことはしなかった。


「みどりちゃんは、表情が分かり辛いし、何を考えているのか分からない時があるわよね。難しい言葉を使うと分かってもらえないし、みどりちゃんの方からも、長い文章を話すのはちょっと厳しい。確かにみどりちゃんと分かり合うのは、難しいわね」


 松原先生は立ち上がって、美術室の隅へ向かった。


「でも、貴方達にはあるじゃない。言葉なんて無くたって、通じ合えるものが。私が一目見て分かったんだから、みどりちゃんの思いは、きっと貴方に伝わるはず」


 松原先生は、一週間前と唯一違っていた場所、白い布で隠された一角に触れた。


「みどりちゃんがね、新しく絵を描いたのよ。一週間で。物凄い勢いで描くもんだから、驚いちゃった」


 先生の話によると、どうやらそこにはみどりちゃんの絵が隠されているようだった。


「見てあげて。それから、みどりちゃんとお話してくれると、先生は嬉しいな。一生分かり合えないなんて、そんな悲しいことは、言わないでほしい」


 それから、先生は「それじゃあ」と言って美術室を去った。

 みどりちゃんの絵。

 今更そんなものを見て、何になるというのだろう。才能の差を見せつけられるだけじゃないか。

 立ち上がって、一歩ずつ、一歩ずつ進む。

 そして私は、白い布を取り払った。


「あ……」


 私はその絵を見て、短く声を上げた。その絵は、確かに美しかった。今まで見た中でも、一番の出来ではないかというくらいだった。

 でも。

 私はこの時、みどりちゃんの絵に初めて文句を言うことが出来た。


「美術室は、こんなに明るくないよ」


 大粒の涙が、ぽろぽろと溢れて、首筋をなぞる。折角の絵が濡れないように、私は必死で顔を拭った。


「……私、は、こんなに、こんなにも、素敵に笑えないよ」


 描かれていたのは、私だった。

 陽の光に溢れた美術室。絵を描きながら、信じられないくらいに美しい笑みを浮かべている女生徒。

 写実的とは、言い難かった。

 確かに背景を含め全てのものがそっくりそのまま描かれていたけれど、美術室はこんなに日当たりが良くないし、私はこんなに綺麗じゃない。

 じゃあ、それが意味していることは、何だろう。

 絵は、写真とは違う。描いた人の目を通した世界が、そこには描かれるのだ。つまり、この絵が、みどりちゃんの目から見た美術室なのだろう。

 これが、みどりちゃんの世界なのだ。

 みどりちゃんは、嬉しかったんだ。私と絵を描ける毎日が、輝いているように感じたんだ。私を、とっても素敵な友達だと、そう思ってくれていたんだ。


「あ、え、あ……」


 すると、後ろから扉が開く音がした。委員会で遅れてきたみどりちゃんが、やってきたのだ。みどりちゃんは私の姿を見て、どうしたら良いかわからない様子だった。


「みどりちゃん!」


 私は絵を置き、直ぐにみどりちゃんの方へ駆け寄って、そして彼女を抱き締めた。


「みどりちゃん、ごめんね。本当に、ごめん」


 抱き締めたら、みどりちゃんは温かかった。心臓の鼓動が聞こえた。息をする音もした。あぁ、同じ人間だって感じがする。


「……うん」


 みどりちゃんは、私を抱き締め返してくれた。私はみどりちゃんの腕の中で、わんわん泣いた。みどりちゃんも、同様に泣いている。

 お互いに決して、ドラマみたいな綺麗な泣き方じゃなかった。何か感情が爆発したような、鼻水が垂れてしまうような泣き方。

 みどりちゃんは、私と全然違うけれど、何も変わりなんて無いんだ。

 同じ趣味の友達を見つけたら嬉しい。酷い事を言われたら悲しい。謝られて安心したら、泣いてしまう。みどりちゃんが思うこと、感じること。そこに私との差は、無い。

 私達はその後も、何かを確かめ合うように、ずっと抱き締め合っていた。






文化祭当日、私とみどりちゃんは美術室で受付の仕事をやっていた。

やってきた校長先生が、絵と私達を交互に見て、それから、こんなことを言った。


「お二人は、本当に仲良しなんですね」


 その言葉を聞いた時、私は酷く安心した。良かった。ちゃんと伝わったんだ、と、そう思った。

 展示の最も目立つ場所に貼られた二枚の絵。

 一枚は、みどりちゃんが私を描いた、美しい傑作。そしてその隣に、もう一枚。

 それは、隣に比べれば見劣りする絵だった。でも、みどりちゃんを素敵に描けというお題ならば、これ以上の絵はないと、我ながら思う。

 仲直りした後、私はお返しにと、みどりちゃんを描いたのだ。

 スランプだったはずなのに、不思議と、筆は止まらなかった。寧ろ未だかつて無いほどに調子が良かったくらいだ。

 みどりちゃんはこの絵をかなり気に入ってくれていて、今も受付の仕事を放棄して私の絵を眺めている。

 私の目を通して、自分を見る。

 みどりちゃんは今、どんな気分なんだろうか。多分、私がみどりちゃんの絵を見た時の気分と、そう変わらないだろう。

 私も、みどりちゃんの絵を見た。

 私達は今、互いの世界に入り込んで、自分を見つめている。

 ならきっと、みどりちゃんと私は今この瞬間、同じ世界の住人だ。


「……えへ」


 隣で、みどりちゃんが笑った。

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みどりちゃんの世界 かどの かゆた @kudamonogayu01

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