花束のきみ
海百合 海月
花束のきみ
ふと、窓辺の花が咲かなくなった夜のことを思いだした。
ゆめのあと、きみのゆめのあと、月あかりを浴びたいと思って、ちいさく痛むのどをさすりながらやわらかいベッドを抜けだした夜。摂氏二度の、海底のような夜。
いやなゆめだった。きみの眼鏡が割れた。フレームが壊れて。きれいな銀縁のやつ。おばさんが買ったやつ。おじさんの遺影とそっくりの。きみはずうっとその眼鏡をたいせつにしていたのに、ふとした瞬間に、あっさり、壊れてしまった。ゆめ。
冷や汗がのどをさらに痛める。じぶんののどぼとけを自覚しながら、カーテンを開ける。深い青色のカーテンは、時折じぶんがえら呼吸であるようなきもちになって、けっこう、気にいっている。
そのそばのテレビ台の端、きみがくれた花。花のなまえは、わすれてしまったけれど(花屋さんに行けばいいのに)、きみが添えてくれたメモのとおりに育てていた花。夜の、二十五時から二十七時にだけ、その時間にだけ咲く花。新月の夜になると太陽があるはずのほうに首を傾げて、その瞬間にちいさな音が鳴る。きん、とつめたく澄んだ音。咲いていない。
花が、咲いていない。
輪郭の滲んだ月が、ひえびえと夜の底を照らしている。築三十年の古びたアパートの二階、角部屋。
枯れてしまったというのでもない。つぼみが、ふくふくとゆらめいて、いまにも咲きそうなまま、静止している。静的な夜に、死んでしまったように、佇んでいる。
男の部屋に花なんて。乱暴な八十代の大家が吐き捨てたことばを思いだす。べつに、すきで男になったわけじゃない。
死ぬということと、枯れるということは、きっと、全然意味が違う。生物学的なことは知らないが、枯れて子孫を残すのと、呼吸のいらない永遠のねむりとでは、全然、全然、違う。
花が死んだ。眼鏡が割れた。現実、ゆめ。
カーテンを閉める。月あかりを遮断して、脳みそを働かせる。知らせなければならないと思った。二十五時半。75%充電済みのスマートフォンが、摂氏二度に不釣り合いなあかりを煌々と放っていた。
マフラーが毛玉だらけで、そういえば、高校生のころから使っているな、と思いだす。買い替えなければいけない、というのでもないが、マフラーくらい買わなければ、そう、目くじらを立ててこれだからひとり暮らしは、と破綻した論理に殴られることは明白だった。
死んでしまった花は、ビニル袋にそっと収めてある。
死んだのだから、生き返りはしないよ。弔わなくちゃ。
きみのことばに、かんたんに救われて、それで帰路についた。栄養を受けつけなくなった生命は、機能的に生きていられなくなったのか、器官的に生きることをやめさせられたのか。にんげんは多少、えらべる。いくつかの選択肢のまえに、呆然とするしかなくても、その点、多少の自由はきくかもしれない、と飛躍した思考にストップをかけて、アパートの階段をのぼる。ぎしぎしといやな音がする。大雨強風の夜には、悲鳴をあげて、住人を例外なくゆめから覚まさせる、老体。
冷や汗の夜にだけは、ありがたい機能。
また、花のなまえを訊きそびれた。スマートフォンを充電。1%の変動、一秒間の振動音。その音を無視してまた、ベッドにはいる。もうねむりたかった。
花の死因は、寿命だった。
おだやかなねむりだね、と笑ったきみの声に、すこしだけ涙腺が緩んだ。泣く権利は、いつだって、だれにもない。泣くということに、権利なんか、いらないはずだけれど。
じぶんが殺したと思った。その夜には、ただその罪悪感だけが喉もとに停滞して、そのあとはただ海底に沈んでゆくゆめをみた。
マフラーを買わないまま、師走の忙しなさを乗り越えてみると、緊張が解けるみたいにゆるやかに、気温が上昇する日々だった。温暖化とか、ありきたりな発想をしつつ、扉を開けるとでも、まだ冬のにおいだった。
しいんとしている。午前六時十三分、深海魚の水槽のようなしっとりと青みがかった闇。もともと寒がりではないため、どうせ荷物になるマフラーは、仕舞ってしまった。
沈みかけの月が、笑っている。ご機嫌の月。耳たぶのあたりから気温に親和してゆくような感覚に身を任せ、歩きだす。待ち合わせは午前七時。こんな時間に待ち合わせようという気にさせるきみの、引力は太陽系最大。ぼくにとっては。
まだねむっている町。顔を洗うまえの寝ぼけた町の空気はとろみを持って、心地よくまとわりつく。駅まで、白い息が透明になるまで、ゆっくりと歩く。ことばが、なにかを言おうとしてそっとそれをこころに仕舞う瞬間のいじらしい感情が、ため息が、可視化する季節。わすれてはならないのは、それでも、なにかをわかったような気になってはいけないということ。
駅の街灯のした、マフラーに顔をうずめたきみが空をみあげている。星のない夜の端。陽ののぼらない朝の端。その境界にきみがなにをみているのか、ぼくには一生、わからない。
「おはよう」
「おはよう、ねむそうだね」
「七時だからね」
ねむいと感じていないだけで、目は、まだ覚醒しきっていないのだろうか。ぼくにわからないぼくのことを、きみには見抜かれているような感覚は、優越。
電車に乗って、これからどこへ行くのか、まだしらなかった。それでいい、どうせ、衛星みたいにつかず離れず、ついてゆくだけだ、と、しずかに目をつむる。
ゆりかごの心地。ねむっているみたいな加速度の在来線が、たたととと声をあげながらぼくらを運ぶ。自然と、睡魔に襲われる。
きみのコンタクトがはらりと落ちる。ゆめ。つるつるの表面がほこりだらけになり、瞬間、ぱりぱりに乾いてゆく。きみの視界をみれると思った。確信だった。どうやって入れるのかもわからないコンタクトをすんなりみぎの目に入れる。ぼくがいる。手をのばしている。みぎの目がふるえる。網膜が、やめろと叫んで、目覚めると、終点だった。
「おはよう」
「ああ……、着いたんだ」
最悪なゆめだった。のどが痛い。願望と、欲望と、絶望と、恐怖。かきまぜて、泡が立って、のこるのはミルクティーのようなぼんやりとした甘さだけ。すべて、ゆめのあと。
駅名は、『果ての植物園前』。果て。あの夜に死んだ花が行き着いた果て。そんな連想をしたけれど、もちろん、植物園のなまえでしかない。いつだって、なまえ以上の意味をみいだすのは、意味をみいだしたいにんげんの恣意的な意思だ。
午前九時二十八分、目覚めた町のぱりっとした弾性が、脳みそに多少のこっていた眠気と反発して、きれいさっぱり消えてゆく。覚醒する。
「いいものみれるから、期待してて」
それだけ言うと、きみは改札を抜けてさっさと歩きだしてしまった。
あとを追う。惑星のきみに追いつける日は、太陽系が終わるその日になっても、来ない。
「腹、減った」
「着いてからだよ」
いつでもかわらないあかりを漏らすコンビニを、もうふたつも無視している。止まる気がないのだろう。そうこうしているうちに、植物園のばっくりとくちを開けたような大きな門がみえてくる。褪せた緑の、さまざまの植物の茎がからまったようなデザインのそれは、グロテスクで食虫植物を連想させた。
開園は午前九時。はりつけたような笑顔の受付係が、入園料は千二百円ですとはきはき告げる。歯切れのよい発音は、すくなくともぼくを、安心させる。
「さ、こっちこっち」
たのしそうなきみ。足取りが軽い。はじめの方からゆっくりみてまわるのだと思っていたが、そうではないようだった。
厳かな雰囲気だった。ぱりっとした冬晴れの空とは対照的に、なにもかもが褪せてみえる。遠くにみえるバラ園のアーチをいろどる赤も、園内のあちこちにならぶ花壇の、ピンクも、黄色も、オレンジも、絵の具のチューブから出したばかりのような色のはずなのに、フィルターがかかったように、褪せてみえる。
果て。きみは、どこへ辿り着くのだろう。その足取りで、きみはどこまで、行ってしまうのだろう。
かたつむりのようにじいっと進むおばあさんや、大袈裟なリュックを背負った高校生のグループとすれ違った以外では、ひと気はほとんどない。奥まっていくほど、静けさは増す。案内板のこころもとない経年劣化。ペンキの剥げたベンチ。錆びた柵。そして、生き生きと咲く花たち、生い茂る木たち。
低木園を抜けると、冬園に辿り着いた。
「あの建物のなかだよ」
温室のようなかたちの、ガラス張りの建物だった。けれど、曇りガラスでなかをみることはできない。きみは、結局、春園でも、夏園でも、秋園でも、さまざまに視線を誘おうとする色やにおいに一切目もくれなかった。
死んだ花。また、連想。冬の花。冬にしか生きられない花だったのだろうか。上昇する気温の気配を察知して、死んだのだろうか。
そういう、生死の選択をする意思があるのなら、なぜ、土に根を張ったりするのだろう。いや、ない、そんなものは、ない。
たしかめもせずに勝手に意思がないと決めつけたがるのは、にんげんだけだろう。また、収拾のつかない思考が、ジャンプを繰り返す。
「……え、ねえ、まだ、ねむいのか?」
呼ぶ声。
「いや……、だいじょうぶ」
「ここは、おれのとっておきなんだ。このまえ贈った花は、ここで、うまれたんだよ」
きみは、きっと、花に意思があることを疑わない。ぼくが、動物には意思があると疑わず、動物園には絶対にはいれないのと、おなじように。
扉の、適切な質量を持った、かちゃり、という耳ざわりのよい音。ふわりとたちのぼる、甘やかなにおい。たっぷりとあかるい空間に満ちる、生命の気配が、心地よいはずなのに、なぜかすこし、吐き気を誘った。
「こっち」
導かれるまま、どんどん進んでゆく。この建物がいったいなんなのかは、わからないまま。白い花が視界のすみでうしろへうしろへ、流れてゆく。
建物内は、すみずみまで見通すことのできないほど木が生い茂って、季節のことをわすれそうになる。常緑樹なのか、ここはやっぱり温室なのか。と、そこで、温度らしい温度がないことに気づく。寒くも、暑くも、涼しくも、暖かくもない。適温、という、だけなのだろうか。
訊きたいことだらけだったけれど、それらを問う間もなく進んでいき、さらに奥、そこにはまるみを帯びたちいさな部屋があって、周囲にはやはり、白い花がならび咲いている。
「このなかで、うむんだ」
うむ。それは、どういうこと……ことばは二酸化炭素になることはなく、きみは扉を開けた。
それまでの心地よいにおいとは一変、むわんと濃度の高い、粘度をともなったにおいが全身を襲う。
「はやく、はいって」
手を引かれる。ひや、と、触れた手の温度で、きみの体温がとても低いことを思いだす。
鼻を覆わずにはいられない。くらくらする、しっているにおいにどうにかたとえるなら、酒を飲んだにんげんがまとう膜の厚いにおい、酔った酒飲みの集団とすれちがう瞬間の、密度の高いにおい、その性質に似ている。
「やあ、ひさしぶり」
きみが、部屋の中央に咲く真っ赤な花へ、両手をひろげ、近づいてゆく。
ゆらり、花びらがうれしそうにひらく。葉が、きみを、なんでもないみたいに自然に、迎える。
「この子と、ぼくで、うんだんだよ」
「は、……?」
声にならない。赤い花が、とろりと、蜜を流す。においが、強くなる。きみが、それをてのひらですくって、のんだ。
「みて」
さしだされた左手、手首の血管、その筋から、芽がでて、ふくれて、つぼみが、首を傾げて、そこで、止まる。
「ハ、ハル……」
「ストップ。ふたりでいるときに、互いのなまえって、ひつよう?」
「いまはそんな話はしていないし、きみの理屈でいえば、いまここにはふたりじゃない」
「でも、不可欠、ってわけでもない」
「……わかった、まず、説明して」
「おれのからだからは、花がうまれるんだよ。理論上は、血管のみえる場所なら、どこにでも。まあ、ひだりの、手首からしか、うまれてこないけれど」
それは説明になっていなかった。説得力のある、ぼくに理解させるための説明では、全然なかった。
「でも、おれは女ではないし、なんというか、じぶんのからだから直接いのちがうまれる、って、こわかった。いや、女のひとだって、こわいのだろうけれど、それは、おれにはわからないから。こわくて、で、なかまが欲しくてここに来た。そうして、この子と、出会った」
赤い花。うつむいているようにみえるのは、錯覚のはずだった。
「この花は、めしべがないんだ。子孫をのこせないんだよ。そこで、おれの出番ってわけ。蜜をのんで、おれが、うむ。うれしかった。孤独のひみつは、ふたりのないしょになったんだよ。ないしょは、ふたりや、さんにんでするものでしょ。だから、きみに贈ったんだ。最高のアイディアだと思わない? 寿命がみじかいのは、わかってた。だから、きみが青ざめた顔であの花を連れてきたとき、きみに贈ってよかったって、ほんとうに、思ったよ」
目もとが、酔ったみたいに、ゆらめいて、すこし、涙ぐんでさえいた。
全然、わからなかった。ぼくは、理解しようとしていないのだろうか。いや、だって、ぼくは、きみのことが。
「おれがこの体質のことに気づいたのが、去年の夏で、秋がはじまるまえにはここに来て、蜜をのんだ。晩秋にきみに花を贈って、きみが遺骸を連れてやって来たとき、また、ここに来ることを決めた。気持ち、悪いか?」
ぼくはいま、どんな顔をしているのだろう。たとえいまここに鏡があっても、ぼくが鏡でみるぼくの顔と、きみの目を通してみるぼくの顔は、おなじではないだろう。おなじものを、みれるわけがない。違うにんげんにうまれたときからそれはもう、決定事項。
そしてあとは、遠ざかってゆくだけ。
ぼくはその部屋からでて、ためしに、そばに咲いていた白い花をたべてみた。ただ、苦いだけだった。そんなことは、なんの意味もないことだった。
電車のなかでみたゆめを思いだす。きみに手をのばすぼく。その手は、もう二度と、届かない。いままで届く可能性があったと思いこんでいたじぶんがいたことに気づいて、無性に、おかしかった。
ふつふつと、わきあがってくる、きみのとくべつに対する、このどうしようもない感情が、いままで積みかさねてきたものぜんぶを、塗り替えてゆく。
どうにもならない。それだけが、現実だった。
黒々と、消えてゆく。あの夜に死んだ花が放っていた、うつくしい音も、もう、思いだせない。あの花が、なに色だったのかも、きみのことを、どう思っていたのかも、ぼくがきみを、どうしたかったのかも。
きみと、どうなりたかったのかも。
ねむくなるほどのゆるやかな加速度は、電車と似ている。そのリズムで、音もなく、消えてゆく。願望も、欲望も、絶望も、恐怖も。
すこしずつ消えてゆく、いろんなものが、きみのも、ぼくのも。
花束のきみ 海百合 海月 @jellyfish_
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