第25話 医務室にて


「もう大丈夫だから泣き止んでよ…。」

「だぁってぇ……俺のせいでぇ……!」


 医務室のベッドに春川さんと横並び。創部の処置はとっくに終わっているけれど、春川さんが泣き止まないために足止めを食らっている。


 花瓶の破片と一緒に剣山もちょっと刺さったけれど、そこまで深傷ではなかった。作品を台無しにされて凹む同級生の顔の方がよっぽど痛手。今度改めて、菓子折りを持って謝りに行こうと思った。


 美術展に出すつもりの作品は完成しているし、これからの季節、特に力を入れる油彩画は無い。試験勉強ができれば良い。水の上に転んだからジャケットと左太ももが冷たいけれど痛みは酷くない。ジャケットはとりあえず脱いでいるから寒くもない。だから大丈夫。そう何度も説明しているけれど、春川さんは良心の呵責から解放されない。細身の背中をさすっていると、春川さんは懺悔の様に言葉を絞り出した。


「俺、此永さんが好きなんだぁ…。」


 でも此永さんはハルを想っている。大学で聞いたハルの会話から、私のせいで関係は進展せず、此永さんも諦めきれないままだということを知ったらしい。そして学祭に乗じて生殺しの原因である私に突撃した。そして思わぬ加害に大号泣。嗚咽混じりの話を解釈するとそんな感じだった。ついでに敬語はよそよそしくて好きじゃないという。めんどくさいなこの人、とも思ったけれど、あまりに赤裸々な春川さんに、私は毒気を抜かれていた。


「佐々谷に振られたところで俺のとこにきてくれる訳じゃないのは知ってる。俺こんなだし。」

「まだ分かんないじゃん。」

「わかるよ。此永さんは男が好きなんだ。」


 言葉が重たい。これまでの言動と、頰を滑る涙に含まれたラメで、私は言葉の意味を悟る。


 間近に迫らなければ分からないほどの化粧。すっぴんメイクと同じ類だ。結構時間かかっているんだろうなと思いながら、丸まった背中に手を添える。


「…此永さんはただハルが好きで、春川さんはただ此永さんが好きなだけだと思うよ。」


 春川さんは真っ赤な目で私をみていた。


「私だってそう。ハルの人と成りが好きなだけ。」

「好きって認めるんだね。」

「……此永さんにこの間怒られたよ。中途半端に誑かすなら突き放せって。」


 そして思い出し泣き。あの剣幕はやっぱりいつ思い出しても怖い。


「なんで伊月まで泣いてんのぉ…?」

「めっちゃくちゃ怖かったから……。」

「おれ、此永さんの分まで謝るよぉ…。」


 春川さんが私の涙を拭う。

 その指先は丁寧に手入れされていて、私の絵の具だらけな手とは大違いだった。


「私はハルが好きだよ。好きだけど、今はやることがいっぱいなの。」

「やること?」

「教員免許取るの。夏にはプロジェクトがあって、それ以外にも教員採用試験受けなきゃいけないし…あと卒業論文が無い代わりに、卒業作品展もやるんだよ。」

「尚更、佐々谷と付き合えばいいと思うよ。」

「……なんで。」

「辛い時とかどうすんの。すぐ甘えられた方が良いじゃん。」

「…重荷になるじゃん。」

「佐々谷の!?ならないよあいつこの間頼られなくなって寂しいみたいなこと言ってたよ。伊月まさか甘え下手?」

「……うまくはない。」

「その返しがもう下手ァ…。もしかして全部終わらせないと向き合えないと思ってる?んなこと言ってたら一生誰とも寄り添えないよ。人生次から次へと難問抱え込むんだよ?やってらんないじゃん。」


 呆れたように息を吐いて、春川さんはぐしゃぐしゃになっていた私の前髪を梳く。


「俺よく分かんないけど、伊月の絵は好きだよ。普通にうまいと思ったし。もっと力抜いてやれば良いじゃん。あと佐々谷は…なんだっけな…ぐずぐずの方が助かるみたいなことも言ってたし。」

「…なんだそれ。」

「狩野真弘ってわかる?あいつと喋ってた。俺は居合わせて盗み聞きしただけ。」


 ぽんぽんと背中を叩く春川さんの手。


「此永さんが怒ったのはあくまで宙ぶらりんだからでしょ。あの子ああ見えて短気だし、煮え切らないのもきらいだからねぇ。俺はそういう、なんていうか…男らしいところ?がすきなんだぁ。」


 彼はよく喋る。でも彼と形容して良いものか、考えたところで疑問が浮かんだ。


「……私、って言わないんだね。」

「矯正されまくったからもう諦めたのぉ。…正直自分が女です!って確信もないしね。同じくらい男って感じもしないけど。俺ってただでさえ性格が面倒くさいでしょぉ、この話すると皆ますます遠ざかっちゃうんだよねぇ。」

「……りっちゃん。」


 閃きと同時に言葉が漏れた。二人とも涙は引いていて、赤い目と目をあわせていた。


「陸斗君って呼ぶよりずっと、本当のあなたに近い気がする。」


 わなわなと、歓喜に震えたらしいりっちゃんは、ごめんねぇ、と言いながら私を抱きしめた。


「だから本当にほっといて欲しいんだけど…。」

「そうする。」

「助かる。」

「本当に手、大丈夫?」

「大丈夫だよ。…水は染みるけどね。」

「面倒みてあげる。治るまで、住み込みで。」

「………何があって住むところ探してんの?」

「親と喧嘩してんのォ!だから泊めて!一週間でいいから!」

「別に良いけど…。」

「良くないよ馬鹿。」


 引き戸の開く音と一緒に、ハルの声が聞こえた。


 彼は肩で息をしながら、眉間の皺を極限まで寄せて、私とりっちゃんを引き剥がしにかかる。鈴彦さんにそっくりだな、と思っているうちに、ハルが私の左手に巻かれた包帯を見つけた。


「春川お前何したの?」


 引き剥がしてそのまま、りっちゃんの胸ぐらを掴んで壁へと押しやった。激昂するハルの表情は見えないけれど、冷たい声音と青ざめるりっちゃんで予想はついた。


「…はる、離してあげてくれない?」

「いっちゃん甘すぎるよ。そっち利き手でしょ。」

「傷は浅いので!」

「包帯巻くほどの傷が軽傷?」

「範囲がちょっと広いだけです!」

「画家の大事な手に怪我させた奴を簡単には許せませんので。しかもよりによって俺の大事な瀬川伊月なんですけど?」

「その瀬川がもう許しているので離してあげてください春彦さん!」


 赤面を隠すついでに後ろから抱きつく。ほぼタックルだったので、不意打ちを食らったハルは少しだけよろついた。その隙にハルからりっちゃんを離して、私は二人の間に割り込んだ。


「……。」


 真顔の佐々谷春彦は何故こんなにも怖いのか。目が据わってるからかな。じっと目を合わせていると、ハルは一度りっちゃんを睨んでから、私へ、牽制にしては深すぎるキスをした。


「手が効かないなら俺が面倒見ます。だからとっとと帰れ春川。」


 付け入る隙なんかないじゃんねぇ。りっちゃんの呟きはハルに聞こえなかったらしく、随分柄の悪いハァ?が私の頭上から降った。本当に鈴彦さんそっくりだな。私は普段とのギャップと突然のキスに戸惑うばかりだった。


「佐々谷ドーベルマンみたい。」

「うるさいポメラニアン。」


 去り際に、りっちゃんがごめんねとありがとうを言うので、私は気にしないでと返した。ついでに、今度化粧教えてねと言えば、任せといてとりっちゃんは笑った。


 二人きりの医務室に、ぎこちない沈黙が降る。


「……キスする必要あった?」

「……赤い顔で見つめられるとちょっと、歯止めが効かないもので。」

「怒りで知性下がってない?」

「……好きな子が?嫌いな男に抱きしめられてるのに?お利口でいられると思う?」


 荒んだ笑みを見せたハルは、ベッドから私のジャケットを取った。軽く畳みながら腕に掛けてこちらを見る。


「治るまでうちに来ませんか。バイトならうちから行けば良いよ。」


 ああ、結局店長は全部打ち明けたんだろうな。ハルの含み笑いを見て、私は悟る。


「怖い思いしたんだってね。」


 ハルは私の肩を抱く。彼の温もりに触れてやっと、シャツ一枚では寒いことに気付いた。

 鼻の奥がつんとする。彼の根岸色と視線が合うと、強張った心が一気に解けていった。


「……やっぱり隣にいてほしいです。一人じゃ無理な気がします。」


 ぼろぼろと、溢れた涙を唇で拾って、ハルはまたキスをする。しょっぱい。そのくせ離れる唇を追いかけたのは私の方だった。


「正直傷が治っても、帰らないでほしいけど。」

「……………私荷物多いよ。」

「それは俺も負けてない。持っておいでよ。」


 冗談めいた、今すぐの話ではないことは分かっている。二人とも、それぞれに荷を抱えて生きている。それを清算しなければ向き合えないと思っていた。確かにそれじゃやってらんないね。心の中でりっちゃんに返す。りっちゃんはきっと「でしょぉ?」と笑うに違いない。


「じゃあ今夜は、立花の件から聞かせて。」

「……長くなるよ。」

「望むところだよ。」


 結局この日、円さんとは合流できなかった。

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