第4話 夕暮れ、半目。

 夏休みに控えた特別講習は、裸婦デッサンと絵本制作だった。

 わざわざ都会からモデルを呼び、三日間、朝から晩まで裸体を描く授業。同じ敷地にある附属高校美術科の三年と、短大の芸術科生が参加するそれは、私にとっては二度目の授業。

 鉛筆を持って大人しくデッサンをするはずもなく、山ほどのクロッキーの後、一枚だけデッサンをして、後はアクリルガッシュだの透明水彩だの油性マーカーだのを取り出して、三日間で十四枚描きあげた。教授は新記録だと笑いながら、予想外の出来高だと褒めてくれた。


「それ俺もやりたい。」

「着衣で良ければいつでも固まっててあげる。」

「いっちゃんは動いてないと面白くない。」


 春彦の部屋。

 撮った作品の写真を見せながら、二人並んでクーラーのあたるベッド横に座っていた。夕暮れで気温の下がりつつある部屋で、根気よく鳴き続ける蝉の声を聞いていた。


「ファインアートは裸で人前に立つことだって、高校の先生が言ってたの。ちょっと分かった気がした。クライアントなんていなくて、誰にも強制されない世界だね。さらけ出さなきゃつかめない。」


 明日から始まる絵本の制作は、ファインと真逆の世界。

 対象年齢があって、好まれる傾向だの、狙う読者層だの、そういう枠組みの中で、どれだけの魅力を発揮していくか。すこぶる頭を使うし、感性だけではどうにもならない世界。


「作品と商品の差ってあるよね。商品を作る以上、すり合わせなきゃいけない部分はやっぱり多いけど、でもその塩梅を探っていくの、結構楽しいよ。衝突と昇華の先には笑顔がある。」


 夕日をさし色にしたハルの瞳が、柔らかい笑顔と共にこちらを向いた。


 高校の美術科では、卒業作品展という展覧会がある。私は卒展で絵本を作った。でもそれは結局作品でしかなくて、当然売り上げみたいな成果があるわけもなくて、反響が目に見えるわけではなかった。商品を作るハルは、私が知らないその先を知っている。

 

「自分と向き合うことで精一杯なのに、手に取る側のことまで考えられないなぁ。」


 美術は総合学習で、己と向き合い続けること。知識と理解力がなきゃ絵に説得力は出ないし、デッサンの線は感情に左右されるし、ふるい続ける二の腕は震えてくるし、切れた集中力は完成を保証しない。立ち止まった時の罪悪感は、泳ぎ切れなかった二十五メートルプールみたいだった。


 ベッドに肘をつき、そのまま突っ伏して、私は大きく息を吐く。

 特別講習に集中したくて、この一週間はどのバイトもシフトを入れないことにした。そのかわり、講習前に詰め込んだシフトのおかげで疲れは取れなくて、講習中はアドレナリンみたいなものが出まくっているし、帰っても興奮冷めやらぬ、という具合で趣味の絵を描きだすし、慢性化し始めた寝不足が、ハルの家という心地よさに負け始めていた。


「十五分経ったら起こして。」

「おつかれさま。」


 追い討ちをかけるように背中を一定間隔で叩くハルに完敗し、私はそのまま意識を手放した。



 次に意識が浮上した時、ハルの部屋は電気が付いていて、テーブルにはおいしそうなオムライスが二人分乗っかっていて、ミネストローネがマグカップに入っていて、ハルは「アイスもあるよ。」と微笑みかけてきた。腕時計を見れば遅めの夕飯の時間だし、寝起きの悪い私は怪訝な顔でハルを見た。


「起こしてって言ったのに。」

「さて何回声をかけたでしょうか。」

「二回。」

「十五回。」

「……それはほんとうにごめん。」


 ハルに怒りは搭載されていないのか、相変わらず朗らかに笑っていた。

 寝ぼけまなこのまま確認した携帯には母親から今日は実家に寄らないの?というメールが入っていて、それを無意識に読み上げた私へ、ハルは何食わぬ顔で言い放つ。


「友達の家に泊まりますって言えば?」

「…そっか友達か。」

「俺をなんだと…。」

「とてもだいじな……まっていま頭回ってないからまた後にして。」

「素面のいっちゃんにそれ聞ける度胸はないよ。」

「人を酔っ払いみたいに…。」

「だっていま半目だよ。」


 ハルが伸ばした手を取ったはずなのに、私はハルの懐へと飛び込んでいた。これがまたあったかくて、夏の鬱陶しい暑さなんていうものはこの際どうでも良くて、頑張ったねぇ、と髪を梳くハルの手に、私は私を委ねていた。ついでに携帯も渡して、返信しといて、とお願いすると、ハルは情けない声で了承した。


「絵文字要る?」

「いらない。」

「ご飯どうする?」

「食べる。けどもうちょっと待って…。」


 瞼は重く、夢とうつつをしばらく行ったり来たりしていた。その最中、気づいてしまったことがある。これは飼ってる犬と同じ心地よさ。

 瞼の裏には愛犬が浮かんでいて、いつものようにわしゃわしゃ撫で散らかしてやろうと浮かせた手もやっぱり重い。船を漕ぎながら、愛犬の両頬を包んで、ゆっくりと耳から首輪がわりのバンダナまでを撫でる。艶やかな毛並み。ふわっとしたぬくもり。そうか、ハルは愛犬に似てるのか。だからこんなにも安心するのか。


 この時、寝ぼけた私がハルの唇を奪っていたことを、私は随分経ってから知らされて、思わずハルの鳩尾をぶん殴ってしまった。ほんとうにごめんね。

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