第3話 砂ゞ


 金髪を見ると、彼女なんじゃないかと思うほど、気付けば僕の中には瀬川伊月が刷り込まれていた。


 いっちゃんは大抵、夕方からみっちりとバイトを入れていて、それはファミレスのウエイトレスだったり、個別塾の講師だったり、近所の子の家庭教師だったり、教授の制作の助手だったり、時折ボランティア活動だったりした。平気で週六日のシフトを入れるどころか、ふと手帳を確認して「明日から十三連勤だ。」と本人が一番驚くようなこともあって、いっちゃんはスケジュール管理がすこぶる下手くそだった。


「頑張りすぎは良くないよ。」

「一日休めば十分でしょ。空きコマで課題は出来るし。昼休みは昼寝ができる。」


 授業終わりのキャンパスで、いっちゃんは教科書を抱えたまま僕の隣を歩いていた。正門前の芸術棟へ続くレンガは、くすんだ薄ピンクみたいな色をしている。金魚のいる人工的なため池を左に見ながら進んで、いっちゃんはプレハブちっくな扉を開けた。


 薄暗い棟を右に曲がって階段を上がると、真正面に大きな姿見が設置されていた。肩を流れる金髪に、シンプルなコットン生地のシャツと黒のサルエルパンツ。足元はワイン色したハイカットのブーツみたいなスニーカー。胸元のループタイが、息を切らしたいっちゃんの肩と連動して揺れていた。


「一階分しか上がってないのに。」

「二十段は実質山。」

「絶対二十も無かったって。」

 

 そんな調子でよくバイトに明け暮れていられるなと、この時はただただ感心していた。やめておけって、もっと強く制止したほうが良かったのかもしれないな、と、今となっては思ったりする。


 彼女にとってこの二年間がどんなに貴重か。それを打ち明けてくれたのは、ちょうどこの日。知り合って三ヶ月くらい経って、蝉の鳴き声が聞こえ始めた頃だった。


「私本当はね、滋賀の大学に行きたかったの。」


 僕らしか居ない第二油彩画室で、イーゼルに足をかけながら、F15号の描きかけのキャンバスと、使い込んだペインティングナイフを手にしたいっちゃんがぽつりぽつりと話し始めた。その眼差しはキャンバスへと注がれていて、集中するために内側の雑多な言葉を吐き出しているように見えた。


「母と三泊四日でね、オープンキャンパスまで行って、エスカレーター用の入試蹴って、センター試験まであと三ヶ月、ってところだったの。実はうちは貧乏で、進学させられるほどの蓄えなんてないから就職に切り替えてくれって。」


 麻をぴんと貼ったキャンバスに、砂の混じった絵具が乗せられる。モルタルみたいなそれを、左官のような手つきで塗り広げていくいっちゃんは、お気に入りだというデニムのエプロンを身につけて、波打つようなストロークで原色と向き合っていた。


「どうしても諦められなくて、ここでいいから進学させてくれって頼み込んで、一般の子達と同じ試験受けたの。ここの附属高校にいたくせに。」


 芸術科主任による入試の面接は「校長先生からお話は聞いています。」から始まったらしい。

 それを、高校三年間の努力の成果と受け取るか、ただのコネと受け取るか。いっちゃんはどうやら半々のようで、高校の頃から引き続き勝ち取った特待生という肩書きが、誇らしいものではないことを話してくれた。


「結局特待生って言ったって授業料は半額免除だし。県から借りた奨学金と伯父から借りた入学金は自分で返すし学費は毎月払ってるし。ハルみたいに学費を自分で稼いでから、っていう道を選べば、確かにバイト三昧にならずに済んだなって思うよ。」

「でもそれだと出会えてないからなぁ。」

「そうなの。」


 予想外の即答。驚いていっちゃんの方を見ても、目線が合うことはなかった。


「ハルに会えただけで、私の選択は間違ってなかったなぁって思うの。」


 お腹がこそばゆくなるほどまっすぐな言葉を吐いておきながら、いっちゃんは次の絵のための下地づくりに夢中で、強い筆圧でイーゼルを倒さないようにと左足に力を入れていた。椅子を使うほど長くやるつもりはないらしく、その証拠にキャンバスは赤と青と黄色と、ピーコックグリーンの油彩絵具で埋め尽くされていた。


「この上に描くの?」

「ううん。うすい紺を重ねてからかな。流石にうるさい。でも速乾メディウム入れてないから乾くのは数日後。今日はおしまい。」


 ナイフを洗おうと踵を返したいっちゃんが、砂の入ったボトルを軽快に蹴り飛ばした。


 砂は教授が湖から採集して、不純物を取り除いたものらしい。好きに使っていいよ、と梅酒を作る樽みたいな入れ物で持ってきてくれるそうで、それをいっちゃんはありがたく別なボトルに入れ替えて使っている。そしてそれを今ぶちまけた。いっちゃんはキャップをし忘れていた。


「ハル、そこにホウキがあるんですよ。」

「ちりとりも欲しかったりしませんか。」

「ついでに手も貸してくれますか。」

「俺が掃くからイーゼルとキャンバスをしまっちゃうのはどうですか。」

「なんて優しい春彦さんでしょう。」

「終わったらご飯食べに行きますか。」

「今日はラーメンの気分です。」


 てきぱきと。体を動かしながら、お互い半笑いで片付けを済ませた。いっちゃんの制作風景が見たいと言い出したのは僕のほう。僕は満たされながら、年季の入ったホウキで砂を集めていた。

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