第3話 山羊皮服を着た男
「見たまえ、ウィルソン! これこそが世の中の何て事の無い出来事さえ難事件へと変えてしまう悪しき典型的な例だよ」
パーカー街219番地の主であるエルロック・ショルメは、私に対して常に選択権という物を与える気が無いようであった。まあ確かに医師と患者との関係とはいえ、このカウンセリングの時間に対価を支払っているのは彼であるから、私もある程度許容する心を持ち合わせている訳ではあるが。
ショルメが差し出してきたのはその日の朝刊であった。
『モルグの森の惨劇!──サン・ニコラ村の悲劇は未だ解決への糸口も掴めず』
「ああ、日曜日に起きた事件か。村内を暴走した自動車が森の外れで転覆して車に乗っていたと思われる婦人の撲殺死体が発見されたという酷い事件だったな。まだ犯人の割り出しさえ出来ていないのか。まさしくこれは難事件だね」
記事の見出しを見て、私は事件を知っている範囲で邂逅した。
「最後の一文を読んでみたまえよ」
ショルメに促されて、再び記事へと目を落とす。
『世界中の名探偵が叡智を集めた処で、かのシャーロック・ホームズがもし実在したとしてさえ、この事件の謎を解き明かすことは叶わないであろう』
「挑戦的だとは思わないか!」
ショルメは何故か激高していた。
「まあ確かにシャーロック・ホームズ本人が読んだのならば怒り出すかも知れないな。しかし君が怒るような事でもあるまい」
「いやいや、シャーロック・ホームズを侮辱するのは、この儂ハーロック・ショームズを馬鹿にするのに等しい。大体、儂はこの謎無き事件の種明かしなどはとっくに済ませておる」
理論的で無い言葉を発する一方で、ショルメは衝撃的発言をした。
「なんだって! だったらどうして警察へ教えないんだい?」
「訊かれないからさ! この程度ちょっと調べれば判る事だろう? まさか警察がそこまで無能だとは思わなかったのさ」
「まあいいや。今からでも警察へ連絡しようじゃないか。真相を話してくれたら私が通報しよう」
私は椅子から立ち上がりながら、壁際に設置されている電話機へと向かった。
「断る。儂は諮問探偵だぞ。意見を求められれば答えるが、こちらからしゃしゃり出るなど願い下げだ! 求めよ、さらば与えられん、さ」
こういう事を言いたくはないのだが、過去に警察が彼を頼ったことなど一度もない。現実とはそんな物だ。職業警官にとって素人探偵などお呼びではない。
頑なな態度を示すショルメを動かすのは至難の業だと心得ている私は、仕方なく独りでサン・ニコラ村へと出向く事に決めた。ショルメに解けるような謎であるのならば私に解けない訳がない──根拠のない自信である。まあ、いざという場合には彼を巻き込む手段さえ考え出せば事件は自ずと解明されるであろう。
サン・ニコラ村へと到着すると私は車を降りて、最初の目撃情報があったとされる教会へと向かった。司教は多くを語らず、事件を目撃したという村の百姓を紹介してもらった。記者でも警察でもない私を見る彼らの視線は懐疑的であったが、私が仕方なく〈ロンドンから来た探偵助手〉だと名乗ると、掌を返したようにその姿勢が協力的に変わった。
「そりゃあ、驚いたの何のって! リムジンって言うのかい? あの車が目の回るようなスピードで教会前の広場へと突っ込んで来たんだ! 皆叫びながら狂ったように逃げ惑ってたさ。そのまま教会へと突っ込むかと思った途端、有り得ない速度のまま旋回して、来た道を戻って行ったんだ」
年嵩の農民が説明を始めると、少し若めに見える男が補足した。
「それだけじゃねえ。運転してた奴はそんな運転をしながらもケロッとしていやがった。勿論表情まで見たわけじゃねえ。威風堂々とした佇まいだったって奴さ。何しろ黒い山羊皮の服を着て、黒皮の帽子を被り、顔を覆うほど大きなサングラスをした男だったからな。なんで男だって判るかって? 一瞬しか見なかったが、雰囲気が女とは思えなかったのさ」
「おめえら、一番重要な事から説明せねばオルメスさんには伝わんねえぞ」
第三の男である老人が会話へと加わって来た。色々と勘違いしているようだが、大勢に影響はないだろうから一々訂正するのは野暮という物だろう。
「車の助手席には血塗れの女が座っていたのさ! 車が急ハンドルを切った時にその頭がガクンと揺れて、こっちからも表情を見えたんだが、あれは死相としか呼びようがなかったな! 一緒にいた村の女たちが驚いて叫び声を上げるから、皆その女の悲鳴を聴いたように感じたものさ。あれが本当の地獄絵図って奴だろうな。運転してた男も正気じゃないに違いない」
現場に立ち会っていた他の人々からも話を訊いてみたが、大方同じような内容であった。
私は村の教会前の広場に立ち、そこから伸びる一本道を眺めてみた。広場の向こうには左右に畑が広がり、その先に設置されている可動式の木製の柵で夜間の村への野生動物の侵入を防いでいるようであった。柵の向こうには森を切り開いて山へと向かう道が一直線に続いていたが、起伏が有りその先がどうなっているのかは、ここからでは判らなかった。
私は再び車に乗ると、その一本道を辿ってモルグの森の外れにある自動車事故の現場へと向かった。直線だった道は緩やかな起伏を越えた先で急カーブして、山肌を削って造られた山道へと続いている。確かに速度を出し過ぎていたのならば、曲がり切れずに森へと突っ込んでしまいそうな場所であった。
車体の衝突と共に折れた大木は森の中へと寝かされていたが、すでに事故車も遺体も片付けられており、細かい車両の破片以外は残されていない。新たな発見は何も無く村へと戻ろうとしたところ、辺りをうろうろとしている猟師の姿が目に留まった。
「どうかしましたか?」
猟師は見慣れない車から降りて来た村の外から来た人間に対して警戒心を露わにしたが、ここでも〈ロンドンの探偵助手〉は絶大な効果を発揮した。私は決して嘘は言っていない。勿論、本心から探偵助手を自認している訳ではないのは言うまでもない。
「連れていた二頭の猟犬が居なくなりましてな。訓練された勇猛な奴らなのに、突然興奮してどっかへ走って行っちまって。猟にも行けず困っていたところですわ」
猟師へ事件に関して訊いてみたが事故現場には立ち会わなかったそうで、新聞記事以上の有益な情報は得られなかった。ちょうどそのタイミングで巡回中の警察車両が通りかかったので、猟師が呼び止め飼い犬の失踪を訴えかけた。車から降りて来た二人の警官が困ったように顔を見合わせる。
「あの事件以来、凶悪な犯罪者が森の中に隠れている可能性を考慮して、勝手な判断で森の奥へは入って行けないのですよ」
すると猟師は私を指さして「高名な名探偵が来ている」とかなり端折った説明をした。
「仕方ありませんね。痕跡があるかどうかだけでも捜してみましょう」
警官たちは義務感から渋々ながらも捜索に同意し、拳銃を構えながら森へと足を踏み入れた。その後ろには猟銃を構えた猟師と、手ぶらな私が続く。
日差しが差し込む山の麓の森。穏やかな気温と相まって心が癒されると言いたいところであったが──。
「やばいな。森を出よう」
猟師はそう告げると、私たちに身振りで戻るように告げた。
「どうかしたのですか?」
森を抜けた処で私は猟師に尋ねた。
「おめえさんには解からなかったのかい? 森が静まり返っていたのが」
この森は初めて訪れたし、そもそも都会で暮らす私が森の空気感など知る由も無かった。
「確かに何かに監視されているような雰囲気がありましたね」
警官の一人が同意する。
「ここで事故が起きたと聞いて来たのですが、それと関係ありますかね?」
私はここぞとばかりに情報を得ようと、少し惚けた風に問いかけてみた。
「事故か──確かに現場の状況は自動車事故でしたが、あれは殺人事件ですよ。暴走したリムジンはサン・ニコラの村からここまで続く真っ直ぐな道を全速で走り抜け、ここの急カーブを曲がり切れずに樹木に激突して転覆しました。助手席に座っていた婦人は頭を強く打って死亡しています。もっとも村人の目撃証言に寄れば、婦人はすでに亡くなっていたそうですから、痛みは無かったとは思いますが」
若い警官がそう告げると、後ろから年嵩の警官が頭を小突いた。
「おまえは遺体を見ていないからそんな事が言えるんだ。あんなに酷い殺し方を見たことが無い。頭が──後頭部が陥没していたんだぞ! どういう神経をしていたらあんな残酷な事が出来るんだ! それから血塗れになっていた運転席からどうやって運転手が姿を消したのか? 第三の人物は何処へ消えたのか? 全てが謎だ!」
「第三の人物?」
初耳の情報に私が耳ざとく反応すると、年嵩の警官は口が滑ったことを後悔する様に苦虫を噛み潰したような顔をした。
「まあいいじゃないですか。この方に犯人を見つけて貰えればそれに越したことはありませんからね」
若い警官は先輩のミスをフォローすると話を続けた。
「これは報道機関には伏せている情報なのですが、村から三百メートル程離れた国道から一本外れた間道沿いの雑貨屋へ、事故が起きる前にリムジンが立ち寄っていたのです。運転手は熟年の紳士で、外国訛りのある英語を話したそうです。服装も安物には見えなかったと店主が証言しています。紳士はまずガソリンを入れてから店内へと入り、食料品と酒類を購入しました。その間、車の助手席には被害者である女性と同じ髪型の人物が座っていました。サングラスをしていて顔は見えなかったそうですが衣服の色も同じだった気がするとの証言が取れていますので、被害者本人と特定して間違いないでしょう。問題は、車へと戻って行った紳士が運転席へ戻る前に後部座席のドアを開けた時です。何者かが紳士の抱えていた食料品の入った紙袋を奪い去ったのです! 店主の話では後部座席はカーテンで隠されており、中の人物は見えなかったという事でした。袋を盗られた紳士は怒る様子も無く、助手席の女性に笑いかけながら車へと乗り込んだそうです」
「すると、その後部座席にいた人物が黒い山羊皮の服を着た男だということでしょうか?」
私の質問には年嵩の警官が答えた。
「わからんよ。家族旅行で子供が乗っていただけかも知れない。運転していた紳士が婦人を殺してカモフラージュの為に別の服を着ていたのかも知れないし、通りがかりの山羊皮の服を着た男に全員が殺されてしまったのかも知れない。判っているのは車からは二人分の血痕が見つかり、そのうち一人は気の毒な御婦人だという事だけだ」
その日はそれ以上情報を掴めそうも無かったので、翌日猟師の猟犬捜索に同行する約束をして、彼の家の納屋へと泊めて貰う事になった。その前に今日得た情報をショルメに聴かせてやろうと思い立ち、村の共用電話を借りた。
珍しく私の話を黙って聞いていたショルメであったが、発した言葉はやはり横柄である。
「ふん! やはり儂の推理を補完したに過ぎんね。せっかく現地にいるのだ、幾つかヒントをやろう。①買った酒は何処へ行ったか?②死肉を漁る動物の動きを追え③頭上に注意せよ。以上だ。これで事件を解決したからと言って自分の手柄にするのではないぞ。ハーロック・ショームズの助手だということを強調したまえよ──」
ショルメの話は続いていたようだが、私はガチャンと受話器を置いた。
そして彼の言葉を考えながら、猟師の家へと向かい納屋に敷かれた来客用の布団の上へと横になった。酒は車の中に残っていなければ飲んだに決まっている。死肉を漁る動物を追うということは、ショルメはもう一つの死体を予見しているということか。頭上に注意せよ──そういえば婦人は頭を潰されている。まさか岩でも降って来ると言うつもりか?
考えたところで答えが解かる訳も無く、明日の冒険に備えて今夜は眠ることにした。
翌朝、猟師から猟銃を借りた私は、彼の仲間と共に森へと入って行った。
銃を扱うのは軍隊以来だが、実際に人を撃ったことはない。それでも相手が銃を見て警戒してくれるだけでも持つ意味はあるだろう。
静まり返った不気味な森を進んで行くと、やがて森と山との境目へと辿り着く。同時に猟師の一人が声を上げた。
「禿げ鷲だ!」
開けた森の一角に死肉を食らう鳥が集まっている。猟師が鉄砲を撃ち鳴らすと禿げ鷲は一斉に空へと舞い上がって行った。
「なんてこったい」
禿げ鷲が群がっていた物──それは二匹の犬の死体であった。共に無残に頭部を潰されている。
「おお、神よ!」
少し先を歩いていた猟師が叫び声を上げる。慌てて駆け付けた仲間の猟師たちも次々に胸元で十字を切る。
山肌から染み出した水が集まって出来た小さな泉へと顔を突っ込むかのように、一人の男が横たわっている。その後頭部には乾いた血がこびりつき、服から露出した肌には蛆が沸いているのが目に付いた──。
現場では警官や刑事たちが集まって男性の死体を検分している。
私はどうしても頭上が気になり、落ち着かなげに森の木々を見上げていた。
するとそこへ昨日会った若い警官が近づいて来た。
「見つけましたよ、ウィルソンさん!」
警官の手元には袋に入れられたコニャックの小瓶がぶら下がっている。今朝、警察へ電話をして事故現場周辺に酒瓶が落ちていないか確認して貰っていたのだ。
「口元が折れてますね」
私は差し出された瓶を観察しながら呟いた。
「ええ、飲み干した後に投げ捨てたのだとしたら瓶自体が砕けるはずですから、犯人は唾液から身元が特定されるのを怖れて口元を砕いたのでしょう」
警官の推測は理に適ってはいたが、なぜか私の中の犯人像と合致しなかった。
「遺体の方は何か判りましたか?」
「身元を証明する物は何も所持していませんでしたが、どうやら雑貨屋の店主が目撃した紳士の衣服と一致しそうです。これでますます第三の人物の犯行である可能性が高くなりましたね」
その時、頭上を見上げていた私の目の端を何かが横切ったのを感じ取った。
「今のを見たかい!」
私の視線を追って若い警官も頭上を見上げる。だが日の光を遮るように生い茂った樫の木やブナの木が風に枝を揺らしているだけで他には何も見えなかった。
「鳥ではないですか? 食事の途中で邪魔された禿げ鷲が未練がましく飛び回っているだけだと思いますよ」
警官の笑えないブラックジョークに私はお愛想の笑みで答えた。
鳥なんかではなかった。もっと大きな影であったのは間違いない。
「参考までに訊いておきたいのですが、この森に猿は生息していますか?」
「猿ですか? さあ、聞いたことはないですね」
私の質問の意図を問い返す事も無く、若い警官は刑事たちの元へと合流すべく事件の証拠を持って走り去って行った。
取り残された私は、猟銃にちゃんと弾が込められているかを再度確認した。
警察が引き上げたのが夕刻となった為、猟犬の埋葬は日を改める事になったが、帰る前に私から猟師たちへ一つお願いをした。
「木に登るって本気かい?」
納屋を提供してくれた猟師が呆れたように私の顔を見る。
「勿論です。子供の頃は『木登りウィルソン』ってあだ名もあったくらいですから大丈夫ですよ。あの樫の木を登って隣のブナの木へと枝を伝って乗り移れば、結構高い所まで登れると思うのですよ」
「何を見たいのか知らねえが、一日に二つの死体は見たくねえからな」
猟師が私の肩を叩いて毒を込めた励ましをくれる。
「気を付けます。皆さんはもし何かが現れたら、殺さないように捕獲することを心掛けて下さい」
「何かって何だよ?」
別の猟師が怯えを隠すかのように強がりながら問いかけた。
「勇猛な猟犬を一撃で殺すような何かです」
木登りは順調だった。確かに木に登るのは子供の頃以来だが、体は軍隊で鍛えた頃からそれほど衰えていない。手を伸ばし頑強である枝を選びながら体を引き上げて行く。割とすぐに樫の木の枝の生え際へと到達した。ここから上に登りたいのならばブナの木へと乗り移らなければならない。私は足先で枝を揺らしながら体重を掛けても問題なさそうな枝を選んだ。よし、行ける! そう確信してゆっくりと樫の木の枝を進んで行く。三、四歩進んだ先には手が届く距離にブナの木の枝が伸びている。慎重に進みながらブナの木の枝を掴み──ポキンと折れた。
バランスを崩した私が落下するのを見て猟師たちから動揺した声が聴こえる。
私は何故か達観したかのように自由落下へと身を任せていた。
ああ、これで終わるんだ──私は悟りに近い境地に達していたが、その自由落下は途中で遮られ、私の体は毛むくじゃらの手で抱きかかえられる事となった。
救世主は片手に私を抱え、片手でブナの木を掴んでいたが、器用に体を振り子のように揺らすと、手を離して樫の木へと飛び移った。それから五メートル程の高さも意に介さず、地面を目掛けて飛び降りた。着地の衝撃で私は腕から振り落とされ、左肩から地面へと叩きつけられた。駆け寄って来た猟師たちが銃を構えながら私たちを取り囲む。
「待って下さい。彼は私の命の恩人ですから!」
痛みを堪えながら立ち上がった私の言葉に猟師たちが反発した。
「いや、どう見てもそいつが一連の事件の犯人だろ?」
私の隣りに立つ〈人物〉は怯えたように身を縮こまらせる。
身長こそ百二十センチメートル近く有り大きいが、黒い毛並みに禿げ上がった額、紛れも無くチンパンジーの一種であった。
「おそらく猟犬たちを殺してしまったのは間違いないでしょう。でもそれは自身の主人を守るための行動だったのです。この森の何処かに黒い山羊皮の服があるはずです。それさえ見つかれば、全ての事実が明らかとなるでしょう──」
話しながら左手を動かそうとした瞬間、ズキンとした経験したことのない痛みが全身へと走り、私は意識を失った。
「見たまえ! 警察もとっととこの記事に気づいておれば事件はもっと早く片付いて、君が怪我を負う事もなかったのだ」
私が入院している病室へと見舞いに訪れたショルメはベッドの隣りに置かれている椅子へと腰を下ろすと、新聞記事を綴じているスクラップブックを私の手許へと放り投げた。
ショルメは当然知っているとは思うが、現在私の左手は動かない。外傷性の脱臼により骨を元の位置へと戻す為に固定中だ。仕方なく右手を使って持ち上げて、開かれたページへと目を通した。
『生物学者ブラゴフ氏が行方不明──フランス領西アフリカから学術研究を目的にロンドンを訪れる予定であった著名な生物学者であるブラゴフ氏がブリストル上陸後、同行していた夫人と共に消息を絶った。ブラゴフ氏と言えば、チンパンジーに人間でいうところの三歳児程度の知能を持たせることに成功したと発表したのも記憶に新しいだろう。その成果は学界だけでなく軍事関係者も注目していると言われており、氏の失踪に伴って様々な憶測がなされている』
私は記事から目を離すと、大きく溜息を吐いた。
「つまり君は知っていたわけだ」
「勿論だとも──しかし、自身の無知を他人のせいにするのは間違っておるぞ」
「では君の導き出した結論はチンパンジーが夫妻を殺したという事かい?」
「完全に有り得ないことを取り除けば、残った物は如何に有り得そうに無い事でも事実に間違いない──〈緑柱石の宝冠〉より。シャーロック・ホームズの言葉だよ。後頭部を石で叩き潰す残酷さ凶暴さ怪力さ。全てが人間離れしておる。高速走行中の車が事故を起こしたにも関わらずその場から立ち去る頑強さ俊敏さ。それだけでも犯人が人間でないのは明白だ。そこで私はあの記事へと目を付けた。山羊皮の服など存在しない。黒い帽子も服もチンパンジーの地肌だったのだ! 君の調査で情報が補完されたのだが、ブラゴフ氏が買った酒を誤って飲んだチンパンジーが凶暴性を発揮し、森の外れで氏を撲殺後、車の助手席で夫を待っていた夫人をも撲殺。そして高揚した気分のまま見よう見まねで車を運転し暴走。事故から脱してアルコールが抜けて来ると自分の仕出かした出来事の重大さに気づいて森の中へと逃げ込んだのさ。その後、猟犬たちに遺体を発見された事に動揺してそれらも撲殺。まさに命の重さに関して知識の足りない幼子のような犯行ではないかね!」
まるで目で見て来たかのように自信満々に語るショルメ。彼の話を聴きながら、私は全く別の事を考えていた。
「君はなぜ夫が先に殺されたと思ったんだい?」
「そんな事も解からないのかね? 夫人が先に殺されたのだとしたら、氏には猿から逃げる時間がたっぷりとあったはずだ。遺体が発見された順番が必ずしも起きた事件の順番とは限らない。数多くの事実の中から、どれが付随的な事柄でどれが重要な事柄なのかを見分ける能力さえあれば皆同じ結論へと至るさ──〈ライゲイトの大地主〉に同じような言葉がある」
「明白な事実ほど誤解を招きやすい物は無いよ──〈ボスコム谷の謎〉より」
私の引用を聴いたショルメが不機嫌そうに眉を寄せる。
「何を言いたいのだね?」
「君は先入観に囚われすぎだって事さ。自分の発見を誇示したいが為に容疑者を固定している」
「二人が亡くなり、一匹だけが生き残っている。他にどんな容疑者が存在するんだね? まさか君は第三の男が別にいるとでも主張するつもりか?」
「なあ、ハーロック。三歳児の知能を持ったチンパンジーがいる。だとしても三歳児に自動車の運転が出来ると思うかい? そもそもこの事件は不可解な点が多すぎる。サン・ニコラの村へ訪れるのならば私が辿った国道の道から来るのが普通なんだ。幾ら土地勘が無くロンドンとは逆方向から来たとはいえ、間道を通り険しい山道を越えてまで来る必要はない。つまりブラゴフ夫妻は誰にも知られずにこの山へ来なければならない理由があったんだ」
「理由だと?」
「そう。これは想像だけど、夫妻はチンパンジーを森へと返すつもりだったのではないかな? 生存競争の激しいアフリカの森ではなく、平和なヨーロッパの森へ。この森の名前が〈モルグ〉であるのもフランス領で暮らす夫妻にとっては決心するキッカケとなったのかも知れない。ほら、パリを舞台としたポーの有名な小説は君だって読んだだろう?」
「つまりモルグの森へとチンパンジーを解放する為に、遥々イギリスまで来てコソコソとしていたと言う訳かね?」
ショルメはそんな奴はおらん、と言いたげに不服を態度で示した。
「そうさ、これが建て前なんだ」
「建て前だと?」
「さっきも言ったが、チンパンジーに車の運転なんか出来る訳がない。走らせる事は出来るかも知れないが、走り続けさせるほどの集中力があるはずがない。では一体誰が運転していたのか? 夫人が助手席にいる以上、該当する人物は一人しかいない」
「おい、待てよ。ということは──」
「そう、夫人を撲殺したのはブラゴフ氏さ。氏はチンパンジーの犯行へと見せかけるために鈍器で妻を殺害した。それだけでは不安に思ったのか、黒い山羊皮の服を着て帽子を被り、妻のサングラスを掛けて遺体を乗せたまま村の広場を一周する。当然目敏い村人は氏の変装を目撃するが、後からチンパンジーが運転していたと指摘されれば先入観から人間だと思い込んでいた、と証言を改める可能性が高い。それに助手席の遺体に気を取られ、運転手にまで目を配る余裕のある村人はそれほど多くないという打算もあっただろう」
「だとしたら氏を殺したのはチンパンジーではないのか? 母のように慕っていた夫人が殺された復讐という可能性や、証拠隠滅の為に氏に殺されかけて正当防衛で殺めてしまったということも考えられる」
「いや、運転席に残された血痕から察するに、事故は意図した物ではなかったのだろうね。大木に激突した衝撃でブラゴフ氏は本当に頭を強く打ったんだ。フラフラになりながら変装道具を脱ぎ捨て、おそらくはそのまま倒れて亡くなったはずだ」
「だが事故現場に遺体は無かったぞ」
「そこにチンパンジーが関わって来るんだ。事前に森の中へと放たれていた彼は、動かなくなった主人を心配して山際の泉まで運んで行ったのさ。いつかきっと目を覚ますと信じて。主人の服も彼が回収したんだろう。そして自分は近くの木へと潜み、主人へと近づいて来る敵を排除し続けていたんだ」
「つまり儂の推理は荒唐無稽だと言いたい訳だな」
ショルメが不機嫌そうに拗ねた。
「そうだ。君の推理ではチンパンジーが酒に酔ったということだったが、百歩譲って彼がコニャックを飲むために瓶の口元を砕いたとしても、あんな風に砕く為には地面へと置かなくては無理だよ。その時点で悪酔いする程の中身が残っていたとはとても思えないね。ブラゴフ氏もチンパンジーが酒を飲んで狂暴になったと説明したかったのだろうけど、少し演出過剰だったと言わざるを得ないよ」
「なるほど。聴いてみれば君の推理の方が理に適っていそうだな。儂とて自分の愚論に固執するほど愚かな人間ではない。偉大なる精神科医マクシミリアン・H・ウィルソンの導き出した結論を明日の朝刊で世間へ知らしめるように手配しようじゃないか」
珍しくしおらしい言葉を述べながらショルメが椅子から立ち上がった。
私は彼を打ち負かした高揚感を抑え切れず、思わず言葉を継いだ。
「今度の事件で君が得た教訓は、常に別の可能性という物を忘れてはいけないということだね──〈ブラック・ピーター〉より」
ショルメは穏やかな表情を浮かべながら、私を指差して微笑んだ。
翌日の朝刊でロンドン市民は〈モルグの森の惨劇〉の真実を知る事となった──事件を解決した名探偵〈ハーロック・ショームズ〉の名と共に。
エルロック・ショルメ──この下衆野郎!
つづく
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