八点鐘 ~ニコとトパン~
南野洋二
第1話 偶然が奇跡をもたらす
季節は紅葉の秋、九月。列島の中心部に位置する自然に囲まれた山間の集落・下礼。
街との接続は幹線道路という名の狭い山道か、好景気に支えられて整備されたトンネルを通る単線の鉄道しかない絵に描いたような田舎の山村。朝夕一本ずつしか停車しない鉄道に乗っているのも十人程度。廃線の噂すら出ているその列車が夕刻の駅へと停車すると、およそこの寂れた村に似つかわしくない一人の紳士がホームへと脚を踏み出した。
身長は百八十センチ前後、一見細身だが着ている黒いスーツはその健康的な肉体によって弾けんばかりに張り詰めている。若く端正な顔立ちと透き通るような黒い瞳は観る者をハッとさせるほどの魅力に満ちていたが、頭に被っている黒い山高帽がどこか滑稽な印象をもたらしていた。
男は手に提げていた小型のトランクを脇へと置くと、緩めていた黒いネクタイをギュッと締め付けた。その間に同じ列車に乗っていた乗客たちは無人の改札を抜けて帰るべき場所へと向かって行く。最後に腰の曲がった老婦人が改札を出て行くと、男もその後に続こうとしたが、不意に人の気配を感じてホームを振り返った。
ホームに設置された木製のベンチに一人の女性が座っている。齢は十六歳前後。黒髪に清楚な服装。整った横顔から想像するに美少女と呼んで間違いない。彼女は何かに想いを寄せているのか、周囲の状況には全く気を配っていない様子であった。
男は二度ほど躊躇し周りを見回したが、意を決したかのように少女へと近づいて行った。
「あの──」
「放っておいて下さい」
男が声を掛けると、間髪入れず少女が男の顔を見ることもせずに会話を拒絶した。
その反応に男は苦笑しながら空咳をすると、今度は相手に言い返す隙も与えないように流れるような言葉で畳み掛けた。
「そうはいかない。君はここの住民だろうから判っているだろうけど、もう今日はこの駅に立ち寄る列車はない。この後は夜間に走っている貨物列車が通過するのみだ。では君は何を待っているのか? 旅行へ行くにしては鞄すら持っていない。だとすれば君が行こうとしている場所は一つしかない。僕はそれを見過ごす訳には行かないよ」
男の一方的な話が終わると、少女はキリッとした瞳で彼を見上げた。
「何も知らないくせに無責任な事を言わないで下さい」
少女はそれだけ告げるともう会話は終わり、という意志を示すかのように黙り込んだ。
男はやれやれと首を振りながら少女へ提案する。
「じゃあ、こうしよう。別に君は急いでいる訳ではないのだろう? 今から僕が君を雇うよ。日当一万円でどうだい?」
男の申し出に対して少女は見向きもせずに軽蔑したような口調で言い返した。
「幼女趣味ですか? 私は売り物ではありません。気持ち悪いから何処か行って下さい。警察呼びますよ」
少女の余りの言い草に男はショックを受けたかのように軽くよろめく。
「心外だな。僕が女性を金で買うような男に見えるかい?」
男の言葉を受けて少女はチラッと男へと目をやるが、すぐに目線を戻した。
「見えますね。お釣りが来るくらい」
少女の返答に男が声を上げて笑った。
「冗談が言えるくらい元気なら大丈夫だ。ねえ君、真面目な話ここへは仕事で探し物をしに来たんだ。人助けだと思って手伝ってくれないかい?」
「探し物?」
「そう。風に飛ばされた銀色のアドバルーンさ」
そこで初めて少女は男の顔を正面から見上げた。
「アドバルーン──」
「僕の名前は有瀬塗範、トパンと呼び捨てしてくれていいよ」
日が沈みかけている駅からの田舎道を歩きながら、トパンが自己紹介する。しかし少女からの反応は無く、先に立って黙々と歩いている。
「まだ遠いのかい? タクシーとかあるなら頼みたいんだけど」
「あるように見えますか?」
少女は振り返りもせずに答えた。
「だよね」
少女が言葉を発したことに対してトパンは嬉しそうに笑みを浮かべた。
やがて完全に日は落ちたが、満天の星と月明かりの中、夜道は決して真っ暗闇とはならなかった。鈴虫が奏でる音色にトパンは心地良く耳を傾ける。
「いいところだね」
トパンがそう呟くと、突然先を行く少女の足が止まった。
「──だから都会モンは!」
そう吐き捨てると少女は振り返り、トパンの脇を通って元来た道を引き返そうとする。
慌ててトパンは彼女の右手を掴んで引き留めた。
「離して! 誰か! 誰か助けて!」
日が落ちたとはいえ、まだ宵の口。近隣の住民も眠りにつく時間ではなく、少女の叫び声を聴いて次々に男たちが家から飛び出してきた──。
「よろずや、ねぇ」
村唯一の駐在所へと連れて行かれたトパンは初老の礼隈巡査の事情聴取を受けていた。
「ええ、戸柄市の銀角デパートから風で飛ばされたアドバルーンの回収を頼まれたんですよ。何でもかなり高価な特注品で、従来の塩化ビニル製とは全く異なる素材の割れない球体と絶対に切れないという触れ込みの特殊繊維のワイヤーで係留してあったのですが、結び目が解けたという少々間抜けな事情でして。おとといの夜間に飛ばされて、昨日仲介の方から僕に依頼が入りまして気流と目撃情報を追ってこの村まで来たってわけです」
「それでお嬢に案内をして貰ってたって訳か。まあ、運命っちゃあ運命かなぁ」
「お嬢?」
巡査の言い方が気にかかり、トパンが問いかけた。
「ああ、あの子は谷得織丹子って言って、村長が面倒見てる子でな。元々はここの領主だった家系の血を引く立派な家柄の子だったのに、可哀想にとうとう独りぼっちになっちまって──」
「独りぼっち? 誰か身内の方が亡くなられたんですか?」
「ああ。昨日の話さ。明け方に唯一の肉親だった弟さんが事故で亡くなってな。昨晩早々に通夜も終わっとる。仲の良い姉弟じゃったから辛かったろうに。お嬢は泣き顔一つ見せんかった。本当に強い子だ」
「弟さんが──一体どんな事故だったんです?」
悲痛な表情を浮かべながら問うトパンを正面から見据えて、巡査は恨みを籠めるかの様な苦々しげな口調で答えを吐き出した。
「アドバルーンから落ちたんじゃよ」
駐在所から戸柄署への身分照会を無事に終えたトパンが解放されたのは夜の十時過ぎであった。
トパンはその脚で駅へと向かったが、ホームには誰もいない。
ホッと溜息を吐くとベンチに座って時計を確認する。
間もなく貨物列車が通過する時間だった。
遠くから暗闇を切り裂きながら微かな光が近づいて来る。
トパンは何の気なしに光を見つめていたが、その中に人影が浮かんだのを見てベンチから飛び出した。
拳を非常停止ボタンへ叩きつけると、そのままホームへと飛び降りて列車へ向かって走って行く。列車は警笛を鳴らしながら急ブレーキをかけたが、そもそもが通過予定の駅だった為、減速するのが精一杯であった。
トパンは線路の真ん中に立つ影へとタックルすると、そのまま抱きかかえて線路脇の草むらへと転がり込んだ。
すれ違うように列車が通り過ぎて、駅の少し先で停まる。
「馬鹿! 放っておいて下さい!」
トパンの腕を振りほどくと少女は彼へと当り散らした。
だが返事はない。
「ちょっと! 大丈夫ですか? しっかりして下さい!」
少女が頭を打って意識を失っているトパンへと呼び掛ける。
その間に、慌てて降りて来た貨物列車の車掌が無線で救急車を要請した。
翌日の昼過ぎ、村の診療所を後にしたトパンは迎えのリムジンに乗って村長の待つ建物『ホテルウインドブック』へと連れて行かれた。そこは閑静な村から明らかに浮いた存在である近代的な高層ホテルであり、建物の裏にはゴルフ場、隣接する広大な庭園には旬の果物が収穫できる果樹園があった。
下礼村に対して素朴な印象を抱いていたトパンがその建物に圧倒されながら玄関ロビーへと入って行くと、身なりの良い小太りな中年男性が大仰に挨拶しながら彼を出迎えた。
「いやぁ! あなたがニコの命の恩人ですな! 本当に有難うございました!」
トパンの手を取り、上下に振る。
「村長の風本です。当ホテルに部屋を用意しました。どうぞ心行くまでごゆっくりして行って下さい。ああ、勿論お代はいただきませんよ──呉尾くん、ご案内を」
村長に命じられた壮年のホテルマンが、トパンの前で一礼すると先に立って歩き出す。
会見はこれで終わりだと認識したトパンは、呉尾の後を付いて行く。
エレベーターへ乗ったトパンはホテルの階数表示を見て驚きの声を上げた。
「十五階! 一体このホテルは誰が利用されるんですか?」
ガラス張りのエレベーターが田園風景から遠ざかるかのように上昇して行く。
「ハハハッ、その反応をいただいたのは久しぶりです。皆様目的があってこの村へいらっしゃるのが普通ですから」
トパンの失礼な問いかけにも、呉尾は温厚な笑みを浮かべながら返答する。
「この村の現在の主収入は観光なんです。ここへ来る途中にゴルフ場と果樹園を見ていただけたかと思います。勿論それだけでは今の時代お客様は呼べません。皆様がこの村へいらっしゃる一番の目的は『狩猟』なんです」
「狩猟──ってことは鉄砲を撃つわけですか?」
「そうです。元々村長の風本は国体にも出場した経験のある腕の立つハンターでして、趣味と実益を兼ねて故郷の村でこの事業を推進しているのです」
「へぇー、良く認可が下りましたね」
「そこは私からは何とも──」
呉尾が言葉を濁したと同時に、トパンが大声を上げた。
「あっ! あれは!」
トパンの目線は階下でキラキラと光る物体に吸い寄せられている。そこにはそびえ立つ二つの尖塔の間に引っ掛かった銀色のアドバルーンの姿があった。
「ああ、あれをお探しでしたか。ただ残念ですが、数年前の大地震で土台である教会が崩れてしまい、あの塔まで登る手段がないのです」
「ニコさんの弟さんがアドバルーンによる事故で亡くなったと訊いたのですが、一体どんな状況だったのですか?」
トパンの質問の途中で、エレベーターが目的階へと着いた。
「その質問には私が答えます」
開いた扉の先には谷得織丹子が立っていた。
十二階の一室を与えられたトパンは、呉尾が運んだトランクをベッドルームの枕元へと置くと、階下を見下ろす窓際に立つニコがいるリビングルームへ戻って来た。
「不思議なんだけど──」
トパンは呼び掛けてもニコが反応しないのを見て一方的に言葉を続けた。
「何で列車に飛び込もうと思ったんだい? ここから飛び降りてもいいし、猟銃があるならそれを使ってもいいじゃないか」
「そうですね。次はそれを試すことにします」
ニコが無感情にそう告げると、トパンは彼女の隣に立って周囲を見下ろした。
「教えてくれないかい? なんでそこまでして死にたいと思うのか」
トパンの言葉を受けて、ニコはキッとした表情を浮かべながら彼を睨んだ。
「何も無いからです! もうここには何も無いんです!」
トパンはそんな彼女を限りない慈愛の表情を浮かべながら見つめ、椅子へと座るように促した。
「話を聴かせてくれないかな」
「元々昔からこの村は私たち谷得織家の地所でした。戦後は領地では無くなったものの、この土地を管理する不動産業を営んでいたのです。やがて時代と共に村は過疎化が進み、資産はあっても収入が大幅に減った事実を受け、父は地元出身の風本から結構な額の借金をして独自の村興しを計画しました。近くの山で行う狩猟ツアーの為の政治的根回しや数年後の完成に向けて果樹園の整備などを行い、自然と共に生きる村として活性化を図る道を選んだのです。その目玉である狩猟ツアーは大成功を収め、風本への借金は返済期限までに返せるはずでした」
「──はずでした?」
トパンの問いかけにニコが頷く。
「父は返済期限の一ヶ月前に脳溢血で遺言を残す間もなく亡くなりました。遺産相続を担当された弁護士の方に父が持っていた口座を全て調べて貰ったのですが、借金を返済できるほどの残高はどこにもありませんでした。母を早くに亡くした私と弟の時安は父の事業を継ぐには幼な過ぎて、代わりに債権者である風本がこの村へと帰って来て、谷得織家の資産と父の事業を丸ごと乗っ取ったのです。そして景観を壊すような巨大なホテルを建て、森林を伐採してゴルフ場を作り、父が志していた自然と共に生きる村は滅茶苦茶にされました。私と時安は不本意ではありましたが他に親族もいない為、成人するまでは暮らし慣れたこの村に残ることに決めました。そんなある日、ちょうど一年ほど前ですが、時安が父の部屋の書斎にある蔵書の間から一枚のメモ用紙を見つけたのです」
ニコが財布の中から大事そうに仕舞っていた紙を取り出し、トパンへと差し出す。その紙には、手書きで複数の図形が組み合わさるように描かれていた。
「これが何を意味するのか時間は掛かりましたが時安と私で解明しました。ここから見える教会だった建物の屋上の見取り図なのです。図形の上に印されている×印、私と時安は父がここに何かを隠したのだと確信しています」
トパンは懐から取り出した片眼鏡を右目に掛けると、じっくりと図を眺めた。
「何か、とは?」
「風本への借金を返せる何か、だと時安は信じていました。それから時安は毎朝の日課のようにあの崩れた教会へと登ろうと試みていたのですが、無理でした。お金があれば街からクレーン車でも借りられるのでしょうが、風本に先を越されてしまっては本末転倒です。そんな悶々とした日々を送る中、あのアドバルーンが村へと漂い着いたのです。どういう偶然かは解かりませんが、アドバルーンは割れることもなく教会の尖塔の間に引っ掛かりました。時安はアドバルーンから伸びているワイヤーを伝って教会の屋上へと登ろうとしたのでしょう」
「そして途中で力尽きて落ちてしまった──」
トパンが悲痛に呟くも、それがニコの神経を逆撫でした。
「そんなはずがありません! 時安は自分の限界くらい知っています! 手段さえあればあの程度の高さを登り切るのなんて容易いのですから!」
トパンは両手を広げ全身を使って謝罪を表明した。
「悪かったよ。でも、アドバルーンはしっかりと固定されていた訳じゃない。腕の力だけでワイヤーを登って行くのは想像以上に重労働だよ。それに風に煽られれば手が滑ってしまうことだってある」
「そうですね──私も当初はそう思いました。ですから時安の意志を継ぐつもりだったのです。でもそれは間違っていました」
トパンがニコの瞳を覗き込むと、そこには憎しみの炎が燃え上がっていた。
「どういうことだい?」
「時安は風本に殺されたのです!」
トパンの運転する、ホテルに常備されているレンタカーが教会の真正面へと着いた。
車から降りたニコとトパンは地面にとぐろを巻いている勾留綱を目線で辿り、屋上に被さっているアドバルーンだった物を見上げた。
「空気が抜けているね」
トパンが軽くワイヤーを引っ張るとアドバルーンが動くのが見受けられた。
「こいつを登るのはさすがに無理かな。アドバルーンを回収するくらいなら出来そうだけど」
「もし今と同じ状況だったら時安が登るはずがありません。あの子が登ろうとした時には二つの塔の間に引っ掛かったアドバルーンがしっかりとした支えになっていたはずです」
「だとしたら、塔の出っ張りか何かに突き刺さって穴が開いてしまったのかな?」
「その可能性も考えましたが、今はもう確信しています! 風本がアドバルーンを猟銃で撃ち抜いたのです!」
怒りを籠めながら断定するニコ。
「解かった。アドバルーンの傷跡をみれば一目で判るよ。そんなに村長から求婚されたのがショックだったのかい? 村長は独りきりになった君の今後を心配して結婚を申し入れてくれたのかも知れないよ」
トパンがフォローのつもりで述べた言葉は、ニコの怒りの炎に油を注いだだけであった。
「何も知らないくせに気軽に言わないで下さい! 時安がいなかったらあの狸親父はもっと早く私にアプローチして来たことでしょう。本当に下衆な男! ロリコン趣味にも程があります! あんな奴と一緒になるくらいなら死んだ方が千倍マシです」
「まあ、五十近くにもなって十代の娘と結婚しようと考える男がまともだとは言わないけどね」
そう言いながら、トパンはアドバルーンへと繋がるワイヤーを引き寄せた。だが、空気の抜けたアドバルーンは何処かへ引っ掛かっているのか、三分の一ほど屋上から顔を覗かせたところで、ビクとも動かなくなった。
「参ったな。これ以上は無理だ」
「村の人に手伝って貰いましょうか?」
「いや、無理矢理引っ張ったらアドバルーンが破けるし、下手をしたら塔が崩れてしまうよ。そうなったら証拠も何も全てが台無しだ」
「では、泣き寝入りするしかないのですか?」
少し弱気になったニコを励ますようにトパンが元気良く提案した。
「いや、別の角度から取り掛かってみよう」
トパンはニコを連れて、近隣の住民たちへと事故があった当日の村の様子の聞き込みを行った。その結果、あの日の朝、風本が数人の常連客を連れて山へと狩りに出掛けていたことが判った。
「ほら、やっぱり! 猟から抜け出してアドバルーンを撃ったのですよ!」
ニコが勢い込みながら決めつける。
「うーん、どうかなぁ」
それに対するトパンの反応は鈍かった。
「何ですか? 反論があるならハッキリ言って下さい。男らしくないですね」
ニコが怒り気味に促すと、トパンは考えていることをそのまま口に出した。
「何処から撃ったのかが問題なんだ。例えばホテルから教会の塔に引っ掛かったアドバルーンまでは視界こそクリアだが、距離的に撃ち抜く為には相当高性能なライフルが必要だ。現実的じゃない。一方で山に刻まれた獣道から塔を捉えるには木々が邪魔で無理だ。山肌まで出れば可能かも知れないが、開けた場所であるだけに他人から目撃されるリスクが高いし、そもそも狩猟用ライフルでは距離が遠すぎる。教会の周囲の地面からは近すぎて引っ掛かっているアドバルーンが見えない。唯一正面からは塔の間に挟まれた球体部分が見えるけど、角度的に登って行く時安君を怪我させてしまう可能性が高い。もし彼の体に銃創が残ったら犯行が露見してしまうし、そもそも時安君が無傷だった場合、銃撃した言い訳が立たない。村長の立場でそんなリスクを冒すとは思えないんだ」
「無理だって言うんですか!」
ニコの非難の声を受けて、トパンはニコッと微笑んだ。
「良識的にはね。だが相手が犯罪者だとしたら良識など思考の邪魔だ。考えるんだ、僕だったらどうするか──」
「なんなんだね一体、こんなに朝早くから」
風本が文句を言いながら教会の前へと停まったリムジンから降りてくる。
すでに教会の前にはトパンとニコ、それから駐在所の礼隈巡査が揃っていた。
「文句を言いながらもいらっしゃったということは、すでに用件は御存知かと思いますが」
トパンの言葉を訳が判らない、とでも言うかのように風本が否定する。
「未来の花嫁となる女性の命の恩人に頼まれたから、忙しい中時間を作ってわざわざやって来たんだ。そういう無礼な態度を取るのなら儂は帰る!」
風本がリムジンへと戻ろうとすると、老巡査がその前に立ち塞がった。
「まあまあ、村長。そう言わずに。この男が村長を告発するなどと失礼なことを言っておりますから、是非ご論破いただけませんかね?」
「告発?──いいだろう、五分だけやろう。その後はニコを連れて帰る。いいな?」
「ええ、僕に異論はありませんよ」
トパンは爽やかに答えると、身振りを交えながら話し始めた。
「まあ時間が無いという事ですし、皆様すでに御存じの事も多いでしょうから詳細は端折りますが、この教会の屋上にはニコさんのお父様であります谷得織さんが隠した何かが有り、それを手に入れる為に時安君がこの建物を登ろうとしていました。そこへたまたまアドバルーンが引っ掛かったのです。しかもこれもまた偶然でしたが、このアドバルーンの係留紐はワイヤー製で少々のことでは切れない材質でした。これ幸いとばかりにワイヤーロープを伝って登って行った時安君ですが、残念ながら途中で墜落して若い命を散らしてしまいました。さて問題はこれが事故か事件か。事件だとしたらどのように犯行を行ったのか。僕も色々と検証してみましたが、アドバルーンを直接撃つには登っている時安君に気づかれずに行うことは出来ないと断定せざるを得ませんでした」
「どう見たって登っている途中でアドバルーンの空気が抜けたから墜落したんだろう? だったら事故以外に有り得ないじゃないか!」
風本の野次を軽く受け流すと、トパンが話し続けた。
「そこなんです! 誰もが時安君が登っている途中に落下したと考えました。なぜなら彼が登頂したとしたら持っているはずの何かを持っていなかったからです。ところが──実際には時安君は屋上まで辿り着いていたのです!」
「えっ?」
トパンの謎解きを前もって聞かされていなかったニコが驚きの声を上げる。
「そして彼が屋上で探し物をしている間に、犯人は教会の正面に立ってアドバルーンを撃ち抜きました。ちょうど同じ時間に山では狩りが行われており、時安君の耳には銃声が何処で鳴ったのか判断できなかったのだと思います。父親が残した物を発見した時安君は高揚した気分のまま、綱に掴まり地面を目指して降りて行きましたが、徐々に空気が抜けて行ったアドバルーンは彼の体重を支えることが出来なくなって──」
ニコが顔を背け、トパンは言葉を止めた。
「ということは時安が見つけた物は犯人が持ち去ったということかね? だとしたらそれを見つけない限り、君のその空想は証明できないということじゃないか」
風本が余裕たっぷりな調子で反論した。
「まさしくその通り。ただ僕は考えたんです。なぜ谷得織さんは教会の屋上なんかに隠したんだろう、と。だってそうでしょう? 彼が隠した時には建物はまだ崩れておらず、誰でも自由に出入り出来たわけですから。つまりそれは持ち出すようなものではなかったのです。しかし犯人はそれを見られる訳には行かなかった──さあ、これでもまだ言い逃れしますか、風本さん! あの屋上に立てば全て明らかになるのですよ!」
トパンの追及を受けて、風本はガクンと両膝をついた。
「──だからあの教会は壊しておきたかったんだ」
風本の呟きを聴いて飛び出したニコが思いっきり仇の頬を拳で殴りつけた。
「返して下さい! 時安を! 弟を──」
次々と繰り出す拳に血が滲み出す。振り上げた拳を背後からトパンが優しく両手で包み込むと、ニコは彼の胸へと顔を埋めて大声を上げながら泣き続けた──。
翌朝。隣の戸柄市から運んで来たゴンドラ車に乗って、トパンとニコと礼隈巡査の三人が教会の屋上へと上がった。すでにアドバルーンは撤去されており、屋上から見下ろす村は視界良好、暖かみのある秋色へと染まっていた。
「この景色を父も時安も観たのですね」
ニコが感慨深げに呟くと大きく深呼吸して澄んだ朝の空気を吸い込んだ。
トパンは屋上の見取り図のメモを取り出すと、早々に×印の場所を特定するべく試みる。
「ここだ」
トパンが石版状の床板へと手を掛けると、それは容易く持ち上がった。
その下のコンクリートには日付と銀行名・口座番号が刻み込まれている。
「おそらくこれが風本の指定した振込先の口座だろう。この口座の振込履歴を照会すれば谷得織さんが返済した証拠が見つかるはずだ。お父さんは自分の身に何かあった時、誰かが子供たちを助けてくれると信じてこれを神様のお膝元へと残したんだ」
トパンの言葉を聴いた老巡査はニコの前へと跪くと、懺悔をするかのように頭を垂れた。
「すまんかった、お嬢! 風本の奴が教会を壊したいと言った時に絶対に何かあるとは思ってたんじゃ。ただ、その後地震があってここの調査が出来なくなっちまった。儂に出来たのは村の衆に協力して貰ってこの建物を維持するぐらいじゃったんだ」
老巡査の突然の告白に初めは戸惑いを見せたニコであったが、すぐに笑顔を浮かべて彼へと立つように促した。
「有り難うございます。あなたのおかげで父の行いが報われました」
「許してくれるのかい?」
「許すべき事柄など何も有りませんよ」
爽やかな朝の光の中、顔を上げた老巡査の瞳に映ったニコの微笑みはまるで聖母のように感じられた。再び老巡査が深く頭を垂れる。
するとその瞬間、間近で大きな鐘の音が響き出した。
「な、何だ?」
戸惑うトパンとニコを尻目に礼隈巡査が涙を流しながら顔を上げる。
「奇跡だ! 壊れたはずの教会の鐘の音が鳴っている!」
再び頭を垂れて、深く祈りを捧げる老巡査。トパンは鐘の音が轟音となって響き渡る壁際から出来るだけ離れた場所へとニコを連れて行って話しかけた。
「おそらくアドバルーンを引っ張った際に何処かに触れたんだろうね。八時か──さて、谷得織家の資産は全て元通り権利者である君へと戻ることになったんだ。もう死のうとなんて思わないだろう?」
トパンの言葉にニコは小首を傾げながら答える。
「どうでしょうか? 時安が居なくなった私に生き甲斐が見つかりますかね」
「生き甲斐ね──」
トパンが言葉を切ったと同時に教会の鐘も鳴り止んだ。
「じゃあ、こうしよう。この鐘の音に因んで君に八つの冒険をさせてあげるよ。冒険が終わった時には、きっと君は生きる意味や価値を見い出しているはずだ」
「随分勝手に決めますね! 未成年略取で訴えますよ?」
ニコは反発するかのように言い返した。
「大丈夫、お巡りさんが立会人だ。まずは第一の冒険。名付けて『アドバルーン追跡事件』。本日大団円だ!」
トパンが宣言しながら大きく背伸びをした。
「ほんっとセンス無いですね。大体あなた私と会った初日から全く着替えをしてないですよね? 乙女の前でずっと同じ服ってどういう了見ですか? 大人の男性としての自覚が足りないのではありませんか──」
ニコの愚痴が続く中、教会の下ではゴンドラ車の運転手が呼び掛けを続けていた。
「おーい、まだですかぁ! いい加減、朝飯食いに行きたいんすけど──」
つづく
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