記憶ゼロ系男子と再開の学園生活

抹茶ネコ

第1章 喪失と再開

プロローグ

記憶が無い。


開始一行で何をほざいているのかと責められるかもしれないが、事実なので許してほしい。原因は不明だ。……ただ目を覚ましたら、自分が何者なのか、とか、知人や友人、家族のことすべてを忘れてしまっていた。


目を覚ますと、そこは見覚えのない森の奥深くだった。木々の生い茂る森林の中、泥だらけになった学校らしき制服のまま横に倒れていたのだ。


「……ぅ、」


全身を蝕む痛みに喘ぎ、声を漏らす。……恐ろしかったのは、その声さえも自分のものなのかと疑うものだったということ。それは初めて聞いた、己の確かな声色であった。


とりあえず立ち上がり、俺は辺りをうろついてみた。その度に足腰が痛みズキズキするが、生憎手当てできるものがここには無い。仕方なく我慢して進んでみると、5分くらい経った辺りで、やがて道路に出ることができた。───ほっと胸を撫で下ろす……なんてことはできないが、それでもまずは一安心できた。


時刻は朝時だろうか……昇る日の明かりに目を細める。しかし場所もわからないので、やはり立ち尽くすことしかできなかった。が、そんな中車道を走ってくる一台の車が、こちらの目の前までやってきて停車した。


その中からおばさんが出てくる。彼女は俺のボロボロになった衣服と怪我を見て、すぐにこちらに駆けつけてきた。


「ちょっと、どうしたの君……?すごい怪我じゃない、何があったの?」


「……ぁ、その、えっと、」


しどろもどろになった口調で必死に事の説明を付けようと試みるが、上手く口が動かない。その様子を見て、おばさんは「とりあえず乗って」と促した。断る理由も意味もないので、ひとまずは従ってしまう。


助手席に乗ると、ラジオの音声が車内に流れていた。おばさんはそれを切ると、俺の方をもう一度だけ眺め、再確認をする。


「君、名前は……?どうしてこんな時間にあんな場所に居たの?」


「お、俺、は───」


名前、と聞かれて戸惑う。名前……名前?俺、名前、なんだっけ───?まずい、そんなことすら覚えていないのか、俺の頭は。


「な、名前……名前、」


そんな混乱がパニックを呼び起こすような様子は、傍からはどう映ったのだろうか。お生憎、それはおばさんの表情が物語ってくれていた。まるで───そう、たとえるなら、頭のおかしい奴を怪訝に思うかのような。やがておばさんはため息を一つ吐くと、静かに呟くように言った。


「その鞄には?何か、学生証とかは入ってない?」


「……え?」


そこで俺は、ようやく膝の上に乗せていた学生鞄らしきものの存在に意識が向く。そうだ、この中に学生証があれば───。


「えっと……あるのか……?」


少しばかり漁ってみると、財布が出てきたので中を開けてみる。するとその端から見えるカードの一枚がそれだった。


「ありました!……えっと、名前は───芳野夏樹よしのなつき、だそうです」


「だそうです、って……はぁ。とりあえず、親御さんに電話しましょう。携帯番号とかはわかる?」


「携帯……い、いえ、わからないです」


「うーん……どうしようかな。じゃあ、とりあえずあなたの学校に行ってみましょう。こんな時間帯だけど、誰か事務員さんは居るでしょうし」


賢明な判断だと思う。おばさんは俺の学生証を覗き込み、公立高波たかなみ高校の名前を目にしてカーナビに入力した。すぐに目的地として表示されたそれを一瞥すると、彼女はハンドルを回し車道を曲がる。


「学校の人にはなんて言おうかしら。……記憶喪失の男の子です、とか?おかしな話ねぇ」


くすくすと笑ってみせるおばさんに、俺は愛想笑いを浮かべた。笑えねー……。


運転中はそれ以降なんの会話も無く、おばさんは気を遣っているのか、ボロボロの俺をそっとしておいてくれた。……良い人だ。後で改めてお礼を言おう。


10分ほど走った辺りだろうか、やがてその高校が見えてきた。正門は閉ざされ、静寂を保っているのが窓越しからでもよくわかる。俺はシートベルトを、まだ覚束無い手つきで外すと、おばさんを一瞥してから車の外へと出た。


「時間は……6時ちょうどくらいね。とりあえず、行きましょう」


「あ、あの、ありがたいんですけど、おばさんの時間は大丈夫なんですか?」


さすがに、朝方も忙しいだろうおばさんに、ここまでを強いたくはない。ましてこんな、記憶喪失の見ず知らずの子どものために……。


しかしおばさんは「そんなの気にしなくていいよ」と微笑んでくれた。


「息子も成人して、夫も海外出張だから。世話する人もいないの」


「そうなんですか……。その、本当にありがとうございます」


深々と頭を下げ、俺は救世主であるおばさんに礼を伝える。「いいのいいの」とおばさんは歩み出し、俺もまたその背に着いていくのであった。


校舎。それは喧騒とは真反対の、やはり静寂に満ちていた。当たり前だ。こんな時間帯では、どこの部活動だって朝練などしていないだろう。


───それにしても、ここが俺の通う高校なのか……?


俺は頭を痛め、考える。失ったであろう記憶は、なにもすべてではない。自分が高校生であることは覚えている。日本語だって話せるし、一般常識だって理解できる。


なのに、自分がどこの高校に通っていたのかは覚えていない。何年生で、何組で、誰と友達で、どんな教科が得意だったのか……なにも。本当に情けない話だが、事実なのだ。それはどうやったって変わらない。


やがて下駄箱から校舎に入ると、外の気温とたいして変わらない冷気が漂っていた。だからここはまだ外なんだと錯覚してしまうほど、落ち着かない……。ここが自分の通う学校なら、少しは落ち着けたっていいはずなのに。残念ながら、どのみちこの街のどこに居ようが、俺の心は休まることはないだろう。


「あの、早朝からすみません。今朝車で走っていたら、道でこの学校の生徒さんを見つけたのですが───」


おばさんが受付の事務員にそう話しているのを横で聞いていた。すると事務員の男性は少し焦り気味に立ち上がり、混乱しながらやり取りを続けている。……無理もない。そんなケースは稀の中の稀な話なのだから。こういうときの対処も、向こうは用意などしていなかったはずだ。


「えっとー……ですね。では、本校で預からせていただきます。今朝早くから、どうもありがとうございます」


「いえいえ。では、よろしくお願いします」


おばさんは俺の方に向き直り、「良かったね」と微笑んでいた。俺は頷き返すと、やがて事務室に案内するとのことで、事務員の男性についていくことに。その際、おばさんには再度感謝の言葉を告げ、別れたのだった。


「それにしても、酷くボロボロだね。何があったの……」


男性は俺の様子を見て、心配と疑念を混じらせた声色で尋ねた。しかし話せることは限られている。


「……森の中で、目が覚めたんです。どうしてそんな所で自分が寝てたのかは知りません。ただ、起きたら服は土で汚れて、骨も痛んでて……」


「そうか……。後で病院に行きなさい。でもまずは、保護者の方に連絡だな」


そうして事務室に通される直前、廊下の壁の掲示板に目が行った。……それは察するに、全校イベントの様々な写真。彼らはどれも笑顔な様子で、ピースサインやら友達との肩組みやらをして、明るい表情で写真を撮られていた。


なぜ───こんなものに突然引き込まれたのだろうか。わからない。わからないが、それでも、俺は……この、写真、を。


「っ!」


その中の一枚、それを見た途端、俺の意識の中で地震が起きた。グラグラ、グラグラと揺れ始めるそれは、さながら災害だ。やがて平衡を保てなくなる全身はリンクしたように倒れ込み、頭痛と吐き気に襲われて悶え始める。


「ぁ……ああ!」


「ちょっと、君!どうしたの!?」


男性の声が聞こえる。……のに、すぐにその声も揺らぎ、聞こえなくなる。掻き消えたのだ。空気も、声も、音も、自分の声さえも、何もかも───。


そして、その光景は突然始まった。


ノイズ塗れの世界に、人影が二つ。それらは動かぬ石像のようにそこに固定され、やがて視点は片方の石像に宿り始めた。


その体験はまるで、そう……アニメの中の一人のキャラクターに視点が変わったかのような印象だ。だが視覚だけの世界に次は、聴覚が命を吹き込んだ。


「……あ……で、」


「……!……って、」


「……も、」


わからない単語の応酬。しかし話していることは確かだった。その意味がわからないだけで、ちゃんと───石像達は、意識を持って話している。だが今この瞬間、会話をしているという事実しか理解ができなかった。


そして、


───プツリ、と。速すぎる突然の終演。それは記憶の中の断片を塗り替え、黒に染め上げてしまっている。


その矢先、俺の意識はシャットダウンしたかのごとく、暗がりに置き去りにされるのだった……。

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